ジャーナリスト、フランク・チョドロフ
(1947年)
もし個人が生命に対し明白な権利を有するならば、自分の労働の産物を享受する同様の権利を有すると認めなければならない。これを財産権と呼ぶ。財産に対する絶対の権利は、生命に対する本来の権利から生じる。一方が他方なしに存在することは無意味であり、生きるための手段は命そのものと同一視されなければならない。
もし国家が個人の労働の産物に対し優先する権利を持つならば、その人の生存する権利は制限される。あらゆる権利を創造したのは国家だと宣言する以外に、そのような優先権を認めることはできないという事実を別にしても、人は(納税を回避する努力に見られるように)この優先権の概念を拒否しようとする。それは人間の本能に反する。
私たちは自分の財産を、組織化された社会が奪うことに反対する。それは社会の一単位による財産の強奪に反対するのと同様だ。後者の場合、私たちはその行為をためらわず強盗と呼び、それ自体が悪だと呼ぶ。そもそも強盗とは何かを定めるのは法律ではなく、倫理原則である。法律は倫理原則に違反することはあっても、それに取って代わることはない。
生活上の必要から法の力にやむをえず従い、長年の慣習で不道徳な行いに気づかなくなったからといって、(財産の強奪は強盗だという)原則は消え去っただろうか。強盗は強盗であり、百万言を費やしたところで、それ以外のものにはならない。
課税の結果、つまり症状を見れば、私有財産の原則が侵害されているかどうか、どのように侵害されているかがわかる。さらに証拠を得るために、課税の手法を調べる。性能のよい道具を持っていれば強盗の犯意が疑われるように、課税の手法は(強盗の)証拠になる。
国家が個人の労働生産物に対する権利を侵害すれば、物事の本質に反する権威を私物化し、国家自身とその権威を行使される人々のために、非倫理的な行動様式を確立する。所得税は国家を犯罪収益の共謀者にした。法律は生産から得られる所得と強盗から得られる所得を区別できないし、その源泉には何の関心もない。
最近まで、税金は一般に「社会サービス」と呼ばれる政府の必要な機能を維持するためとされた。しかし政治権力というものは、その活動領域が自己完結しているわけではなく、抵抗がない分だけ拡大する性質がある。この権力の行使に対する抵抗は、(人々の)自立の精神を反映し、経済的な安心感に依存する。人々は経済全般が落ち込むと、基本の原因がわからず困惑し、救済を約束してくれるなら、どんなまじない師にでも頼ろうとする。政治家は喜んでその役割を果たす。その報酬は権力であり、カネによって実行される。
(次より抄訳)
Taxation Is Robbery | Mises Institute [LINK]
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