平成元年にあたる1989年11月、ベルリンの壁が崩壊して旧社会主義諸国の悲惨な実態が明らかになり、世界の人々は資本主義の正しさに確信を抱いたはずでした。あれから30年も経っていないのに、早くも資本主義に対する懐疑論がもてはやされるとは、なんともやりきれない心持ちです。
最近話題の書籍、『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ヤニス・バルファキス著、関美和訳、ダイヤモンド社)も、プロローグで書かれた「資本主義という怪物」という言葉が示すように、そのメインテーマは資本主義に対する懐疑論です。
著者は革ジャン姿で有名だったギリシャの元財務相で、経済学者。本書は世界中でベストセラーになっており、日本語版のカバーには「経済をこれほど詩的に語れる書き手が、いまほかにいるだろうか」と絶賛するライターの言葉が踊ります。
「詩的」に書かれているのは、表面的には事実です。ギリシャ悲劇や小説、映画などさまざまな文学・映像作品を引用し、読者の興味を引きつけるからです。けれども、詩が人間の真実を語るものだとすれば、著者の主張が真の意味で「詩的」と言えるかどうかは疑問です。
具体的に見てみましょう。家族や友人、コミュニティーの仲間はお互いに助け合います。家事を分担したり、クリスマスにプレゼントを交換したり、困ったときにご近所同士で助け合ったりです。
バルファキス氏によれば、こうしたやり取りは、ある意味で「交換」ではあるけれども、商業的な意味はなく、市場での取引とはまったく違うそうです。親密さのあかしであり、家族や地域の中で昔から培われてきた深い絆の表れと言います。
一方、市場の取引はその対極にあると言います。バルファキス氏は「一時的で、冷淡で、機械的でもある。クリックひとつでアマゾンから本を注文するときがそうだ」と述べます。
本当でしょうか。少し考えるだけで、人間どうしのやり取りは、商取引とそれ以外でそう単純に割り切れないことに気づくはずです。
インターネット書店アマゾンで子供の欲しがっている本を見つけて買い、プレゼントしたら、そんなプレゼントは「冷淡で、機械的」だと言って、子供は悲しむでしょうか。そんなことはありません。心から喜び、親子の絆はきっと深まることでしょう。
なるほど、もし売られている本ではなく、手作りの本をプレゼントしたら、子供はもっと喜ぶかもしれません。だからといって、売られている本が「冷淡で、機械的」だということにはなりません。
そもそもバルファキス氏のこの本自体、原書も日本語版もアマゾンで売られています。もしバルファキス氏が本当に、アマゾンで本を買う行為が「冷淡で、機械的」で、人の心を荒廃させると思うのなら、なぜアマゾンで自分の本を売るのでしょうか。売り物が良くないと考えるのなら、なぜ無料で配らないのでしょうか。
バルファキス氏はショッピングモールも気に入りません。「その構造、内装、音楽など、すべてが人の心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ……」とさんざんです。
ショッピングモールが購買意欲をそそるような工夫を凝らすのは事実でしょう。そうだとしても、そこで買い物や食事を楽しむ家族の笑顔が、偽物だということにはなりません。商業的な場だから人と人とが親密になれない理由はありません。
英雄の武器を巡って争ったギリシャ神話、今ならオークションで競売?
一方、バルファキス氏が称える、お金を使わないやり取りは、それほどすばらしいものでしょうか。
バルファキス氏は、トロイア戦争で戦死したギリシャ神話の英雄アキレウスの武器を巡って英雄オデュッセウスとアイアースが争った際、将軍たちの判決で敗れたアイアースは自らの命を絶ったという話を紹介します。そして、今の時代ならアキレウスの武器はオークションにかけられ、一番高い値段を示した人が手に入れるだろうと、資本主義に席巻された現代を嘆いてみせます。
でも、それはそんなに悪いことでしょうか。もし英雄たちの世界で、争いの当事者が判決に納得しなかったら、どうなるでしょう。英雄はカネで解決することを潔しとしませんから、暴力でカタをつけるしかありません。戦争に発展すれば、本人たちだけでなく、多くの兵士や市民が巻き添えになります。
物事をなるべくカネで解決しようとする資本主義の社会は、はなはだ世俗的で、勇壮な叙事詩にはならないかもしれません。それでも、争いごとを暴力でしか解決できない野蛮な社会に比べれば、ずっとましではないでしょうか。
家族や友人、コミュニティーの仲間とのおカネのやり取りを伴わない助け合いは、もちろんすばらしいものです。でもそれは、おカネを仲立ちとしたやり取りと両立します。アマゾンやショッピングモールが家族や友人の絆を深める役に立つように、商業の発展は、商業以外のつながりも豊かにしてくれます。両者を対立するものと考える必要はありません。
世の中には、親しい人どうしの助け合いだけでは解決が難しい問題もあります。重い病気を治す薬、快適で頑丈な住居、手頃で着心地の良い服……。どれも国内外の見知らぬ人たちとの協力なしに手に入れることはできないでしょう。それを可能にするのは市場経済しかありません。
人間とは厄介なもので、身内や見知った人とは助け合う半面、見知らぬ人とは協力したがらず、敵意さえ抱きがちです。その問題を市場経済は解決してくれます。取引から取引を通じて、知らない相手とも物を売り買いし、互いに欲しい物を手に入れることができます。
取引相手は自分と国籍や言語、宗教も違うかもしれず、ひょっとすると憎み合ってすらいるかもしれません。それにもかかわらず、市場取引では協力し合えます。日本と中国・韓国が政治問題で対立し、「反中」「反韓」が社会問題となっても、買い物や観光で来日する中韓の人々が引きも切らず、日本の店舗やホテルが彼らを快く迎えるのは、資本主義の根幹である市場経済の力を示す何よりの証拠です。
フランスの啓蒙思想家モンテスキューはこの力に注目し、著書『法の精神』で、「商業は破壊的な偏見を癒す」と表現しました。続けて「だから我々の習俗が、かつてそうであったほど残忍でないとしても驚くにはあたらない」とも述べています。
資本主義は、偏見と暴力が支配する残忍な習俗を和らげ、見知らぬ他人とも協力し合える文明社会を築いてきました。私たちはこの事実に対し、もっと称賛と感謝の念を抱いて良いはずです。
(日経BizGate 2019/5/17)
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