2022-07-20

古典派経済学と搾取理論

経済学者、ジョージ・ライズマン
(2019年3月21日)

一世紀以上にわたり、世界で人気のある経済学説の一つが搾取理論である。この理論によれば、資本主義は事実上の奴隷制度であり、飽くなき欲望と権力欲に駆られ、大衆の労働に寄生するひと握りの事業家と資本家の私利私欲に奉仕するものである。

(マルクスに先立つ)古典派経済学は、三つの面で搾取理論に貢献した。よく知られるのは、「労働価値説」と「賃金の鉄則」の二つである。あまり目立たないが、重要なのは、搾取理論が展開される概念的な枠組みである。この枠組みによれば、賃金は所得の主たる源泉であり、利潤や、賃金以外の所得はそこから控除される形で生じるとされる。

この枠組みからたやすく導かれるのは、賃金労働者が生産物全体、あるいはその価値全体に対し権利を持つという主張だ。この考え自体、労働から生じる所得はすべて賃金であり、働く者はすべて賃金労働者であるという、別の考えに基づく。この考えに基づき、アダム・スミスは『国富論』の賃金に関する章の冒頭でこう述べた。
労働の生産物は、労働の自然な報酬または賃金を構成する。まだ土地の占有も資本の蓄積も始まっていない事物のそもそもの状態では、労働の生産物はすべて労働者の所有物である。彼には、生産物を共有する地主も雇い主もいない。この状態が続いたとすれば、分業によって引き起こされる労働生産力の改善が達成された分だけ、そっくりそのまま、労働者の賃金が増加してきたことだろう。〔略〕だが、労働者が彼自身の労働生産物のすべてを享受するというような事物のそもそもの状態は、土地の専有と資本の蓄積が最初に導入されて以後、終焉を迎える。(高哲男訳)
この文章でスミスは、「賃金の優位」をはっきりと提唱している。資本主義以前の経済において、労働者は単に商品を生産し、販売するだけで、販売のために購入することはなく、労働者の受け取る所得は賃金だという教義である。

この教義は、搾取理論の概念的な枠組みを構成している。マルクスの出発点である。

スミスもマルクスも、利潤は資本主義にのみ存在し、賃金労働者に当然に帰属するものから差し引かれるものだと言う。

スミスもマルクスも間違っている。生産における所得の主要な形態は、賃金ではない。利潤である。生産において賃金が存在するためには、まず資本家が存在しなければならない。

資本主義社会に存在する利潤は、もともと賃金であったものから差し引かれたものではない。それどころか、賃金やその他の金銭的コストは、売上高から差し引かれたものであり、本来はすべて利潤であったものから差し引かれたものなのである。資本主義の効能は、賃金を生み出し、売上高に対する利潤を減らすことである。

資本家は賃金労働者を貧しくするのではなく、人々が賃金労働者になることを可能にする。資本家がいなければ、人が生存できる唯一の方法は、自分自身の製品を生産し販売すること、すなわち利潤獲得者としてである。しかし自分で生産し販売するには、自分の土地を持ち、自分の道具や材料を生産するか、相続しなければならない。このような方法で生きていける人は多くない。資本家がいるからこそ、労働の産物を売るのではなく、労働を売って生きていくことができる。

賃金労働者と資本家の間には、緊密な利害の調和がある。なぜなら資本家は賃金を生み出し、人々が賃金労働者として生き残り、繁栄することを可能にするからである。賃金労働者が、賃金の相対的取り分を増やし、利潤の相対的取り分を減らすことを望むなら、資本主義の発展を求めるべきである。

(次より抄訳)
Classical Economics vs. The Exploitation Theory | Mises Institute [LINK]

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