2022-07-25

財産権こそ人権である

経済学者、マレー・ロスバード
(1959年)

人権を擁護する人々の多くは、財産権を擁護する人々をさげすむ。財産権はあらゆる人権の基礎であることに気づかない。

自らの生命に対する人間の権利が意味するのは、生命を維持発展させるものを生産する権利である。生産物は人間の所有物だ。財産権が失われれば、他の人権も危険にさらされる。もし政府がすべての新聞用紙を所有し、誰がどれだけ使うかを決める権限を持っていたら、報道の自由という人権は守れるだろうか。報道の自由は、用紙など新聞製作に必要なものに対する私有財産に依存している。

集会の自由という人権について考えてみよう。ある集団が、思想や法案のために街頭でデモをくわだて、警察が交通の妨げになるという理由でデモを解散させたとする。その場合、集会の自由という人権と、交通という「公序良俗」「公益」との兼ね合いをどう判断すればいいのだろうか。

本当に問題なのは、道路を政府が所有することで、事実上の無主地状態になっていることだ。そのため交通渋滞だけでなく、道路の使用をめぐって混乱や対立が起こる。道路は納税者のものといっても結局、国民は誰もが納税者だ。デモをしたい納税者が使えるようにするべきか、それとも他の納税者が運転・歩行できるよう確保するべきか。決めることができるのは政府だけだし、その決定は独断で、対立を悪化させる。

財産権と切り離せる人権は存在しない。言論の自由は、集会場を所有者から借り、聴いてくれる人に講演し、材料を買ってビラや本を印刷し、買ってくれる人に売るという財産権にすぎない。人権がらみとみられるすべての問題において適切な手段は、関係する財産権を特定することだ。この手続きによって、権利のあらゆる衝突を解決できる。財産権はつねに正確で、法的に認識可能だからだ。

言論の自由が「公共の利益」のために抑制される典型例を考えてみよう。満員の映画館で「火事だ」と叫ぶ権利はない、というオリバー・ウェンデル・ホームズ判事の有名な格言がある。ホームズとその信奉者は、この例えを繰り返し使って、権利は絶対永遠ではなく、相対的・暫定的であるべきだと主張してきた。

混雑した映画館で「火事だ」と偽って叫び、暴動を引き起こすとしたら、劇場主か、金を払っている客のどちらかしかいない。もしそれが劇場主なら、客に対して詐欺を働いたことになる。映画を上演する約束と引き換えに金を受け取ったのに、「火事だ」と偽って叫び、上演を中断させたのだから。契約上の義務を放棄し、客の財産権を侵害したのである。

一方、叫んだのが劇場主ではなく、観客だった場合、劇場主の財産権を侵害したことになる。観客が映画館を利用するには、劇場主の財産を侵害しない義務や、劇場主が客のために行う上演を妨害しない義務など、一定の条件が伴う。悪質な行為は、劇場主および他の全観客の財産権を侵害する。

言論の自由というあいまいな人権ではなく、財産権の観点から問題を考えると、一切矛盾なく、権利を制限・剥奪しなくて済むことがわかる。個人の権利は今なお永遠絶対だが、それは財産権である。混雑した映画館で悪意を持って「火事だ」と叫んだ者が犯罪者となるのは、言論の自由を「公共の利益」のために便宜上、制限しなければならないからではない。他人の財産権を明らかに侵害したためである。

(次より抄訳)
Property Rights Are Human Rights | Mises Institute [LINK]

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