等価交換という嘘
経済に関する本に「等価交換」という言葉が出てきたら、気をつけたほうがいい。等価交換とはマルクス経済学の用語であり、マルクス経済学は学問的に間違っているからだ。この語が繰り返される表題作で議論が混乱するのは当然である。
著者は「モノの売り買いとは、原則的にはおたがいに価値の等しいモノと貨幣とのあいだの交換」と述べる。しかし価値が等しいなら、わざわざ交換する意味はない。交換は、双方が互いに、より大きな価値が手に入ると思うから行われる。もし取引したモノと貨幣の価値が等しいなら、コンビニで会計を済ませた商品をその場で返品し、払ったお金を取り戻しても満足できるはずだが、誰もそんなことはしない。
著者はもったいぶって「実は、あくまでも等価交換の原則にもとづきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在する」と言う。だが等価交換という前提が間違っているから、結論も正しくはならない。
異なる二つの価値体系の間を媒介し、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る。著者によれば、これこそ「等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方法」と言う。例として、地理的に離れた二つの共同体を結ぶ遠隔地貿易をあげる。
しかし現実には、同じ町や村の中でも商取引は日常的に行われるし、利潤も生まれる。価値観は集団によって異なるのではなく、個人によって異なるからだ。まったく同じ価値観を持つ個人はこの世に存在しないから、資本主義(市場経済)は必ず機能する。
このエッセイは単行本の出版から三十年以上たった今でも、不思議なほど高く評価されている。おそらくまっとうな経済学を知らない読者が文学趣味に幻惑されるからだろう。罪深いことだ。
他のエッセイ(「遅れてきたマルクス」「知識と経済不均衡」)でのワルラス批判など賛同できる部分はあるものの、等価交換という大きな誤りをカバーできるものではない。
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