学者や評論家の世界では、明晰な論理で平易に書かれた本よりも、いたずらに難解な書物が重宝される。専門家として解説してみせ、自分の権威を高め、利益を得るのに都合がよいからだ。マルクスの『資本論』はそんな便利な商材の一つである。
本書では『資本論』のあらたかな御利益が熱心に説かれる。佐藤は同書を理解するには一年かかると言い、それには正しい読み方を教える「チューター的な人」が必要と話す。まるでカルチャースクールの売り込みのように商魂たくましい。
続く佐藤の発言は、これはもうカルチャースクールそのものだ。『資本論』の読み方を一回身につければ、「華道や茶道、あるいは外国語能力と一緒で、一生使って運用できる」。池上は「そっちの実用、効用できたか」と調子を合わせる。
さて、そんなありがたい『資本論』で何が学べるか。同書の第一巻と第三巻では、労働量の記述に矛盾がある。凡人なら、矛盾のある本はダメだと考える。しかし佐藤は、これを「視座を少し変えると事柄の本質が見えてくる」と評価する。
視座の違いと矛盾は全然別物のはずだが、佐藤にその認識はないようだ。池上も「論理の勉強になる」と同意する。矛盾の批判は論理の勉強になるが、矛盾をありがたがるのは論理的思考と正反対である。マルクスで論理は学べそうにない。
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