20世紀初頭の欧州では、英国・ロシア・フランスの三国協商と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の対立が深刻となり、1914(大正3)年、バルカン半島のサラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。戦争は西部戦線において激戦を繰り返しながらも、一進一退の膠着状態となる。米国の参戦(1917年4月)で西部戦線のバランスは崩れ、1918年11月、4年間にわたる戦争はドイツの敗北をもって終結した。
大戦勃発に先駆けて、各国は軍艦をはじめとする軍備の強化にしのぎを削った。英国は1905年に弩級戦艦(12インチ=30センチ主砲を8門以上搭載)の一番艦ドレッドノートを、1909年には超弩級戦艦(13.5インチ=34センチ主砲を8門以上搭載)オライオンを起工し、建艦競争を常にリードした。毎年のように、起工される戦艦の大きさと主砲のサイズ、搭載数は増えていった。
日本も日露戦争でロシアを破った日本海海戦を主力艦決戦の典型としてそれを理想化し、常にその再現を目指そうとして、大艦巨砲主義(大型の大砲をできるだけ多数搭載しようとする建艦方針。結果的に艦は大型化する)の道を突き進んだ。米国を仮想敵国とし、主力艦クラスの軍艦の国内建造が可能になったこともあり、弩級、超弩級戦艦の世界的建艦競争に参入した(山田朗『軍備拡張の近代史』)。
その財政負担は国民にのしかかった。大戦勃発時、当時の雑誌「風俗画報」はこう伝えた。「海軍砲の最新式12インチの砲口へは、人間1人が楽々と入りうるほどである。この大砲を製造するには、砲身のみにて12万円、砲塔を加算して40万円を要する。しこうしてズドンと1発放つときは1000円はかかる。この40万円を我々の日常生活費に割り当て三度の飲食費をかりに20銭とすると1日に200万人だけ生活され、一カ年に5350人の生活費を支弁されうる。〔略〕いまや欧州の天地においてこの大砲が惜し気もなくドンドン発砲さるるのである。それことごとく国民の血と肉であるを思えば、戦慄するばかりである」(今井清一編著『成金天下』)
日本は欧州で戦争が始まるとただちに1914年8月、ドイツに対して宣戦布告を行った。英国の要請により日英同盟に基づいての参戦というのが、大義名分だった。日本は英国からアジアの海域におけるドイツ艦艇(とくに商船を攻撃する仮装巡洋艦)掃討を要請されたことを格好の口実にして、中国山東半島の青島だけでなく山東鉄道や太平洋のドイツ領諸島(グアム島以外の赤道以北の南洋群島)を11月までに占領した。
日本は欧米諸国が欧州での戦争に全力を投入し、アジアのことを省みる余裕がない時をとらえて、中国における権益の拡大を図った。大隈重信内閣の加藤高明外相は、陸軍の中国への過大な要求に屈し、1915(大正5)年、中国の袁世凱政府に二十一カ条要求を突きつけ、大部分を強引に承認させた。その主な内容は、①山東省のドイツ権益を日本が継承する②旅順・大連の租借期限を99カ年延長する③南満州・東部内蒙古の権益の強化——などだった。この要求に中国国民は憤慨し、要求を受け入れた5月9日を国恥記念日とした。
第一次世界大戦の講和条約・ベルサイユ条約の調印は、1919年6月に行われた。大戦の終結とこの条約によって、従来の英独を軸とする諸国の対立図式は崩壊し、戦勝国である英米仏主導による一極的支配体制が成立した。この一極的支配体制は、一面では国際連盟(1920年成立)という平和維持機構を成立させるとともに諸国の軍備制限を行い、他面では欧州におけるベルサイユ体制、アジア・太平洋地域におけるワシントン体制という新たな国際秩序を生み出した。
ベルサイユ条約によって、敗戦国ドイツは領土を削減されるとともに、海外植民地はすべて戦勝側諸国によって再分割された。日本は中国と太平洋地域におけるドイツ権益をそのまま継承することになった。ドイツ領だった南洋群島(サイパン、テニアン、トラックなど)はそのまま委任統治領として、国際連盟から日本が委任される形式をとって統治することになった。委任統治領には軍事施設を建設することはできないものの、行政と住民への教育などの責任は日本が負い、事実上の領土といってもよい存在だった。
大戦が終わった後も、大艦巨砲主義に基づく建艦競争は、英国・米国・日本を対抗軸にして続いた。巨大化した主力艦の建造費用は膨れ上がり、日本の国家予算が15億円に満たない時代に主力艦は1隻3000万円から4000万円もしたため、建艦費は国家財政をひどく圧迫した。1920年には八・八艦隊案(戦艦8、巡洋戦艦8)が成立し、1921年、原敬内閣の時期の海軍費は国家歳出の31.2%を占めるに至った(陸海軍全体の軍事費は国家歳出の49.5%に達した)。
このような状況の中で、1921年、米国の提唱によるワシントン会議が開催された。この会議には、軍縮による平和維持と、植民地を有する大国の権益維持という二つの性格があった。会議には、米英仏日蘭ベルギー・ポルトガル・中国の9カ国が参加し、主力艦と航空母艦の大きさ、性能と保有量を定めた海軍軍縮条約、太平洋に関する4カ国条約、中国に関する9カ国条約の3つの条約が締結された。
ワシントン海軍軍縮条約によって日本の主力艦・航空母艦保有量は米国の6割とされたほか、4カ国条約の締結に伴い日英同盟は廃止され(1923年)、9カ国条約の結果、日本は旧ドイツ権益を中国に返還し、出兵していたシベリアからも撤退することを迫られた。すなわち、「満蒙特殊権益」については黙認されたものの、ワシントン会議において日本は、大戦中に拡大した中国での権益の大部分を失ったことになったのである。
このため、これらの諸条約は、米国による日本封じ込め政策であるといった反米論が日本国内で高揚した。軍縮条約の締結によって海軍の軍縮が実行されるとともに、1920年代には陸軍の軍備も削減されたが、軍内部においては、人員整理、すなわち職業軍人の失業と部隊の廃止によって軍縮に対する強い反発を残すことになった。
それでも、もしワシントン海軍軍縮条約が締結されていなかったら、日本は財政破綻の危機に直面していただろう。残念ながら、第二次世界大戦ではこうした歯止めは失われてしまう。
<参考資料>
- 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社、2010年
- 歴史教育者協議会編『ちゃんと知りたい! 日本の戦争ハンドブック』青木書店、2006年
- 山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館、1997年
- 今井清一編著『成金天下』日本の百年〈5〉、ちくま学芸文庫、2008年
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