1884(明治17)年11月、「困民党」と呼ばれた埼玉県・秩父地方の農民たちが、借金の10年据え置きと40年賦返済、学校費軽減のための3年間の休校や減税などを求めて蜂起し、郡役所、裁判所、警察署などを襲撃し、高利貸しに放火するなどした。秩父事件である。
蜂起の発端となったのは秩父地方だったが、群馬県や長野県にまで広がる。鎮圧には警察だけでなく、憲兵隊や高崎鎮台兵が出動した。農民の一部は軍隊と交戦して、30人以上が死亡したとされる。検挙者は埼玉県で約3500人、群馬県で約300人、長野県で約600人という。広域にわたる大規模な事件だった。秩父事件はなぜ起こったのだろう。
秩父事件の背景の一つには、高揚期に達していた自由民権運動の影響がある。
1881(明治14)年、開拓使官有物払い下げ事件で民権運動による政府批判が強まり、国会開設をめぐる政府内の対立も激化した。その結果、大隈重信が下野し(明治14年の政変)、国会開設の勅諭が出されて10年後に国会が開かれることになった。
民権運動派は国会開設に向け、政党の結成に動く。板垣退助を中心とする自由党、下野した大隈重信を中心とする立憲改進党などが結成された。しかし改正集会条例で政治結社の支部の設置が禁じられており、全国的な組織づくりが困難だった。さらに政府は自らの主導権で憲法を制定するため、伊藤博文を欧州に派遣し、その一方で、板垣退助を外遊させるなどして自由党の切り崩しを図った。党内でも対立があり、自由党は解散するに至る。秩父事件の直前のことだ。
党の中核を失い、方向性が定まらないなか、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件など、自由党が何らかの形で関わった激化事件が頻発した。秩父事件も、その一つに位置づけられてきた。しかし他の激化事件より規模がはるかに大きいうえ、異なる特徴をもつ。
特徴の一つは、秩父の蜂起勢の指導部には博徒(博打打ち)がいたことだ。自由党員の井上伝蔵、落合寅市、高岸善吉らのうち落合、高岸は博徒でもあり、その親分にあたる加藤織平も蜂起勢の幹部となっている。最高指導者の田代栄作も博徒だった。蜂起には農民、自由党員、博徒といった多様な人々が参加していたのである。
日記や裁判記録などには、次のような農民の言葉が書かれている。「圧政を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」「恐れながら天朝様へ敵対するから加勢しろ」「総理板垣公の命令を受け、天下の政事を直し、人民を自由ならしめんと欲し、諸民のために兵を起こす」
これらの言葉からは、明治政府の圧制を改め、自由で安心して暮らせる政治を実現するのだという強固な思いが読み取れる。事件は全国各地の新聞のほか、ロンドンで発行されていた「ベルギー独立」紙、フランスの「ルタン」(現「ルモンド」)紙にまで報道された。
秩父事件のもう一つの重要な背景は、松方デフレだ。
1877(明治10)年に西郷隆盛を擁して士族が起こした西南戦争は、明治の士族反乱として最大規模のものだった。西郷軍の総兵力は約3万人であり、これに対して政府は約6万人の兵力を投入した。整ったばかりの徴兵制による軍隊だけでなく、軍夫も雇い、戦費は4200万円もの莫大な額になった。政府はその多くを、不換紙幣を増発することで賄った。
その影響は2~3年後に激しいインフレとなって現れた。市場に出回る紙幣が多くなったために、物価が急激に高騰したのである。この事態に対応するため、大蔵卿の松方正義は、不換紙幣の消却を急速に進めた。一言でいえば、デフレ政策である。これはインフレの害を静めるためにやむをえない措置だが、痛みを伴った。
政府は一方で、増税にも踏み切った。これは朝鮮半島での壬午軍乱(反日的クーデター)をきっかけに始まった、清国との交戦を念頭においた軍備拡張計画の財源でもあった。内務卿の山県有朋は軍備拡張の必要性を説き、たばこ・酒類などに課税することによって経費を生み出すと述べた。そして、増税の令を一度発すれば、増税反対が起こることは承知のうえだが、それには弾圧をもって臨むといった。
増税となったのは、地租以外の「雑税」だった。雑税の合計額は1879年が21万9975円、1884年が45万4619円と5年間で倍増した。税額のうち最も額が大きいのが酒税、次いで各種印紙税、車税、たばこ税などと続く。地方税も増加の一途をたどった。地方税とは県税で、地租割、戸数割、営業税、雑種税だ。地方税は5年間で1.9倍になった。とくに営業税の伸びが顕著だった(秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件』)。
折からの世界的な不景気の影響もあり、増税とデフレ政策によって多くの農家が深刻なダメージを受けた。租税が納められず、滞納によって強制処分を受けた農民は36万人にものぼり、やむなく競売にかけられた土地は4万7000歩にもなった(藤野裕子『民衆暴力』)。
松方デフレによるダメージがとくに大きかったといわれるのは、養蚕地帯だ。秩父事件に参加した地域は養蚕地帯だった。
幕末の開港によって生糸の輸出が増加したため、この地域は養蚕・製糸業に重点を移すことで農家の経営を発展させていった。生糸価格は下落しても一時的だった。収益性が高かったため、高利貸し(個人だけでなく、銀行・企業など)から高い利息で借金をしても、通常であればそれ以上の利益を得て返済できた。
しかし今回の急激なインフレとデフレは、政府の政策によってつくり出されたものだ。強気になって借金をしすぎた農家に自業自得の面はあるものの、激しいインフレを生み出し、経営判断を惑わせた政府の責任は軽くない。
借金を10年据え置きにし、40年かけて返済するという要求は、現在の感覚からすると、かなり法外な要求にも思える。だがこの要求の背景には、貧窮に陥った際に温情的な措置を施す、現在の金融とは異なる負債整理の伝統的な慣行があったと指摘されている。
事件後、憲兵隊と警察隊は各村々に入り、参加者を逮捕しつつ自首を強要していった。警察の厳しい尋問を経て、裁判は事件の中心人物らを死刑、懲役、禁固の刑に処し、多くの人々を罰金・科料とし、彼らを「暴徒」として断罪した。そのため事件参加者の遺族や子孫の多くは、事件に口を閉ざして生きてきた。近年に至り、ようやく名誉回復が進んでいる。
秩父事件を起こしたのは、インフレや増税など明治政府の誤った政策が招いた生活苦だった。蜂起した人々が夢見た、圧制のない、自由で安心して暮らせる社会は、今も庶民の理想であり続けている。
<参考文献>
- 松沢裕作『自由民権運動 〈デモクラシー〉の夢と挫折』岩波新書、2016年
- 藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』中公新書、2020年
- 秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件 圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』新日本出版社、2004年
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