2024-09-22

満州の暴走

1931(昭和6)年9月18日、中国東北部の奉天(瀋陽)近郊の柳条湖で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された。関東軍(「満州」=中国東北部に駐屯する日本軍)は、この柳条湖事件を中国兵の仕業であると称して、中国軍(張学良軍)に対する軍事行動を開始し、翌32年初頭までに満州全土をほぼ制圧した。この満州事変は、第一次世界大戦後の世界秩序を破壊する先駆けとなった重大な事件である。

図説 写真で見る満州全史 (ふくろうの本)

満州事変は、発端の鉄道爆破から関東軍の出動、治安維持・邦人保護を口実にした満州の制圧まで、「満蒙」(中国東北地方と内モンゴル)を武力占領しようとした関東軍の計画的軍事行動だった。作戦参謀・石原莞爾を首謀者とする関東軍は当初、満蒙の日本併合を目指していた。だが国際連盟による英国のリットンを団長とする調査団派遣や諸外国の批判に対応するために、関東軍は自らの満州の武力占領を「自治運動」の結果であるかのように偽装し、「満州国」を建国する方針へと転換する。吉林省では、関東軍参謀にピストルで脅されながら、省政府首脳が「独立宣言」をした。

東アジアの秩序の変更を目指した満州事変により、国家改造(政党政治を倒し、軍部主導・天皇中心の政府に代える)と大陸への膨張を求める軍部を中心とする勢力は活気づいた。英米協調の幣原外交(幣原喜重郎外相)を政策の柱としていた、第二次若槻礼次郎内閣は倒れた。満州事変は、結果的にクーデターの役割を果たしたといえる。事実、戦前の政党政治は、翌32年の5・15事件によって幕を閉じた。

柳条湖事件をきっかけに軍事行動を始めた関東軍に続き、1931年9月21日には、朝鮮軍(朝鮮の日本軍)が独断で満州へ越境出動した。この朝鮮軍の行動は、関東軍と事前に打ち合わせておいたものだったが、天皇の許可なく担当地区外に出兵することは、明らかに朝鮮軍司令官の擅権(越権行為)だった。だが天皇も軍中央首脳も、満州での衝突はさほど拡大しないだろうとの楽観的な見通しから、朝鮮軍の越権も、関東軍の独断専行も追認していった。

国民の徴兵による「天皇の軍隊」を勝手に、天皇の命令もなしに動かすことは、本来なら大罪である。石原莞爾やその盟友・板垣征四郎をはじめとする満州事変の首謀者、関東軍を助けに行くために朝鮮軍を勝手に動かして「越境将軍」と呼ばれた朝鮮軍司令官・林銑十郎らは、全員この時点で「擅権の罪」で死刑になるべきだったと、経済学者の安冨歩氏は著書『満洲暴走 隠された構造』で指摘する。ところが彼らはみんな出世した。石原莞爾は参謀本部作戦課長に栄転する。エリート中のエリート、英雄扱いである。

たしかに、20万から30万といわれる張学良軍を、1万ほどの関東軍と増援の朝鮮軍であっという間に蹴散らし、日本の面積の3倍ほどある満州全土を占領したのだから、軍事的にみれば歴史に残るような大手柄である。「しかし、これが何よりもよくなかったのです」と安冨氏は述べる。これで「あ、なにやってもいいんだ、独断専行でやって、擅権だろうと何だろうと結果オーライだったら出世するんだ」と軍人みんなが思ってしまった。

その後、軍人が勲章と出世欲しさに暴走し、暴走を止めようとすると、止めようとした者が弾き飛ばされるというパターンが繰り返される。皮肉なことに、のちに中国戦線が拡大した際、関東軍を止めようと説得に行った石原莞爾は、現地参謀の武藤章に「私は閣下がやったことと同じことをしているだけです」と言い返された。

満州事変が始まると、新聞・ラジオなどは軍部を支持する報道を行い、国民の間に満州占領の軍事行動は当然であるとの空気が形成されていった。なお石橋湛山の主催する「東洋経済新報」は、事変直後に満蒙権益放棄論を唱えて事変を批判した数少ない例である。

戦線を拡大した関東軍は、10月8日には張学良政権の政庁が置かれていた錦州を爆撃した。この爆撃は、錦州が満鉄沿線から遠く離れ、英国の権益に属する北寧線(京奉線)沿線にあったこと、第一次世界大戦以来初の都市爆撃だったことによって、世界に衝撃を与えた。錦州爆撃に続いて、関東軍は1931年11月にはチチハルを、翌32年2月にはハルビンを占領し、満州北部まで制圧した。

日本の満州占領に対して国際世論の厳しい批判が集まり、満州に傀儡政権を樹立しようとする日本にとって障害となった。そこで国際社会の注目を満洲からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月、日本の海軍陸戦隊は上海の中国軍を攻撃し、日中両軍が衝突した(第一次上海事変)。

関東軍は32年3月、旧清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀を担ぎ出して満州国を建国させた。満州国は、溥儀を執政(のち皇帝)に据え、「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人の協力による平和な国づくり)」「王道楽土(徳に基づいて治められる安楽な土地)」をスローガンにして建国されたが、実際には関東軍と日本人官吏によって支配された傀儡国家だった。

満州国建国後も抗日勢力の活動は活発で、日本軍はこれらを匪賊であるとして「匪賊討伐」に明け暮れた。また匪賊討伐は、しばしば抗日軍とともに日本軍に敵対する一般住民への虐殺へと発展した。32年9月に撫順の日本軍守備隊が行った平頂山での住民虐殺(平頂山事件)はその最大級のものである。女性や子供、老人を含む3000人余りのほとんどが命を失った。

満州国は経済も迷走した。当初、資本主義経済の進入を拒否するという態度をとった。五族協和、王道楽土を金看板にする以上、満州では搾取があってはいけないという理想からだ。しかし日本が自由な資本主義なのに、満州だけが統制経済で進もうとしても油と水を混合するようなもので、無理な話である。日本の財界は「関東軍は赤(共産主義者)だ」と騒ぎ、大財閥の三井や三菱はそっぽを向いてしまった。

そこで商工省の高級官僚だった岸信介(戦後に首相)は新興財閥の日本産業株式会社(日産)を満州に引き入れ、「満州重工業開発(満業)」を発足させる。ところがこの満業の経営に対し、関東軍が何かと口を出した。ああしろこうしろと軍人の思いつきで、意味のないことばかりやらされる。結局、まったくもうからず、赤字を出しては本体の日産の子会社の利益でカバーするというような状態に陥った(前掲『満洲暴走』)。

満州で始まった軍の暴走は、日本をさらなる危機へと追いやっていく。

<参考資料>
  • 小田部雄次・林博史・山田朗『キーワード日本の戦争犯罪』雄山閣、1995年
  • 橋川文三編著『アジア解放の夢』(日本の百年)ちくま文庫、2008年
  • 安冨歩氏『満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』角川新書、2015年
  • 平塚柾緒著、太平洋戦争研究会編『図説 写真で見る満州全史』(ふくろうの本)河出書房新社、2017年

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