ところが個人の武装を当然の権利として認める米国と違い、日本の保守派文化人はその道理を理解しない。自衛といえば国家の専売特許と思い込み、その結果、筋の通らない珍妙な小説を書いたりする。それが百田尚樹『カエルの楽園』(新潮社)である。
蛙の国の寓話で左翼の平和主義を揶揄した本作には、重大な矛盾がある。楽園ナパージュに住む蛙は体に毒腺があるが、争う力を持つことを禁じる「三戒」に従い、子供のころに潰してしまうという。無防備につけ込み、隣国から凶暴な牛蛙が襲う。そこまではいい。
問題はその後だ。牛蛙は楽園の蛙を次々に食う。しかし食われた蛙の体内には、毒腺を潰しても、毒があるはずだ。
現実の世界でも、毒のある蛙を犬や猫が食うと、呼吸困難、麻痺、痙攣などを引き起こし、死ぬこともある。まして楽園の蛙の毒は、巨大な鷲の目を潰すほど強烈という。
ところが楽園の蛙を食った牛蛙は何ともない。本来なら毒にあたって死ぬか弱るかして、他の者は恐れをなして逃げ帰り、楽園は無事守られるはずだ。
もちろんそんなハッピーエンドにしてしまっては、「平和ボケ」の左翼を嘲笑したい作者の意図に反する。だから楽園の蛙が毒蛙であるという設定を無視し、牛蛙に勝たせなければならない。矛盾であり、物語として破綻している。
おかしな点はまだある。楽園の蛙たちは牛蛙の襲来を前に、反撃すべきか否か国会で激論を交わす。この描写は無意味だ。国会で決めようが決めまいが、体には反撃の毒があるのだから。
作者は政府が防衛を独占し、個人に丸腰を強いる日本社会の現実に引きずられ、自身で考えた物語の設定を忘れたらしい。これは、自衛は政府に任せてさえおけばいいという、別の意味での「平和ボケ」にほかならない。
自衛は政府に任せておけばいいという考えは、なぜ平和ボケか。理由はおもに二つある。
まず、個人が銃などで武装しなければ、治安の悪化する昨今、凶悪犯から身を守れない。警察はあるが、呼んでも間に合わない。腕力のない女性や老人には特に武器が必要である。銃を持った民間ボディーガードに任せてもいい。
次に、個人の安全に脅威となるのは外国の軍隊とは限らない。歴史を見れば、むしろ自国の軍隊や警察に生命・財産を脅かされる場合が少なくない。個人が武装すれば、政府の暴虐を未然に防げるだろう。むろん外敵の侵入にも有効である。
(2017年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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