音楽ライブなどのチケットの高額転売が社会問題になる中、購入済みのチケットを定価で譲れるサイトを、音楽関連4団体が6月1日に開設した。同日の新聞各紙朝刊には意見広告を出し、「チケットは、お金もうけの道具ではありません」と転売業者を批判したという。
自分自身がチケットの販売収入で生計を立てていながら、「お金もうけの道具ではありません」などと宣言するのが滑稽だとは、どうやら思わなかったらしい。
もっとも転売業者が業界団体からだけでなく、一般のファンからも目の敵にされているのは事実である。どうしても行きたい公演のチケットを手に入れたり、行けなくなった公演のチケットを売ったりと、恩恵にあずかったことのあるファンは少なくないにもかかわらず、聞こえるのは非難の声がほとんどだ。
それは経済学者の蔵研也が『18歳から考える経済と社会の見方』(春秋社)で述べるように、マンデヴィルやアダム・スミスが明らかにした「私的な悪徳こそが実は公益につながっている」という逆説が、人間の直感に反するからである。
洋の東西を問わない。キリスト教社会ではかつて利子が禁じられ、イスラム教社会では今も禁止されている。重農主義など初期の経済学では農業だけが真の価値を生み出すと考え、江戸時代には士農工商の序列があった。蔵によれば、これは単に場所を移転して利益を得る商業活動は本質的に非生産的で、卑しく劣った拝金主義的な活動だという直感に基づく。
普通の人には、私益の追求が良い社会を作るという論理は不道徳だと感じられる。だからこうした論理は近代になるまで一般化しなかっただけでなく、学校で経済学を教わったはずの現代人も本心では納得していない。その感情がチケット転売問題などをきっかけにあらわになる。
この素朴な道徳感情を延長すれば、政治家が徳に基づき社会を監督すべきだという考えが導かれる。プラトンの理想とした「哲人王」の世界だ。
しかし具体的にどういった行為に徳があるかは、人の考えによってさまざまである。自由貿易か保護貿易か、大家族の復権か女性の社会進出か、市場競争か格差反対か、等々。答えを無理に一つに決めようとすれば、強い政治権力が必要となり、極端な場合、独裁政治に行き着く。
個人の価値観によって意見の分かれる問題に政治は干渉せず、自由に任せる。この近代の知恵を忘れないようにしたい。
(2017年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
0 件のコメント:
コメントを投稿