歴史上、そうした厄介な人物の中でも最悪な部類の一人を選ぶとしたら、アレクサンドロス大王だろう。歴史学者の森谷公俊は『アレクサンドロスの征服と神話』(講談社学術文庫)で飾らぬ実像を描く。
アレクサンドロスは自らの出生を最高神ゼウスに結びつけ、それゆえ神と人間の間に生まれた伝説の英雄たちと同じ血を引くと信じていた。アレクサンドロスはこうした英雄たちに憧れ、模倣し、凌駕しようとした。
特に憧れたのは、トロイ戦争の英雄アキレウスである。あるとき、アキレウスの有名な行為を模倣する機会が訪れた。ガザの町を降した際、生け捕りにしたペルシャ人指揮官のかかとに皮紐を通し、戦車につないで町の周囲を引きずらせたのである。アキレウスはトロイの大将ヘクトルを討ち取った際、同じ残酷な仕打ちをしたとされる。
アレクサンドロスはまた、強烈に名誉を求めた。インド遠征からの帰途、ゲドロシア砂漠の横断を決行し、二カ月に及ぶ死の行進を繰り広げる。過去に横断を成し遂げた、ペルシャ建国の父キュロス二世などの偉大な先人に対抗意識を燃やしたからである。アレクサンドロスの名誉心は満たされるだろうが、付き合わされる兵士たちはたまったものでない。
同書で紹介されるオリバー・ストーン監督の映画『アレクサンダー』で、アレクサンドロスは遠征がすでに八年に及ぶにもかかわらず、インダス川の前で兵士たちにさらなる前進を呼びかける。
側近は「まだ東へ進み、蛮族どもと戦い、象という怪物のいる地で百もの川を渡れと?」とたしなめるが、アレクサンドロスはきかない。「お前たちは実直さを失って堕落した」と部下を叱りつけ、「私は歩み続ける」と言い切る。
進むことが正義だと信じるのであれば、一人で行けばよい。しかしもちろん、アレクサンドロスはそうしない。反対者を処刑して不満を抑えつけ、帰還を望む兵士たちを無理やり道連れにするのである。
カントが説いたように、道徳的行為は自由意志に基づく。どれほど崇高な目的のためであろうと、強制された行為は道徳的といえない。まして目的が正義の名を借りた名誉心の満足でしかないとしたら、明らかに道徳に反する。
森谷はアレクサンドロスを「途方もないエゴイスト」と正しく断じるが、近代以降、多くの知識人は東西文明融合の旗手などと持ち上げた。政治とは他人への強制であるにもかかわらず、政治指導者を道徳的英雄と崇める浅はかな言論は後を絶たない。
(2017年2月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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