幕末の桑名藩といえば、会津藩と並び、新政府軍から特に目の敵とされた藩として知られる。藩主松平定敬は戊辰戦争に身を投じた藩士たちを励ましながら各地を転々とし、苦難を味わう。
しかし森田健司『明治維新という幻想』(洋泉社)によれば、残された桑名藩の人々も同じように苦汁を嘗めた。
藩士たちは当初恭順を拒む。薩長率いる明治新政府の暴力は理不尽だと考えたからである。この考えは間違っていない。
新政府は定敬ら旧幕府の中で主導的立場にあった藩主から官位を剥奪して朝敵の汚名を着せたうえ、領地や財産を没収し、祖先の墓を祭ることさえ禁じた。旧幕臣の榎本武揚が怒りを込めて述べたように、「強藩の私意」に基づく不当な行為である。
屈服を潔しとしない桑名藩士たちは、城に籠もって戦い討ち死にする「守」か、開城して江戸に向かい、定敬と合流して再起する「開」のどちらを選ぶか神籤を引き、「開」に決定する。
ところが評定に参加できなかった下級藩士たちから「猛烈な反対意見」が寄せられる。その背景は、江戸に向かうにせよ、それを拒絶して藩に残るにせよ、藩から手当は一切出ないことだった。
「武士であっても、家族があり、生活がある。手当も出ないのであれば、目ぼしい私財のない下級藩士たち、そして家族は、野垂れ死ぬしかない」と森田は書く。背に腹は代えられず、幼い藩主を立て、新政府に恭順することを決める。
家老の酒井孫八郎は新政府の許しを得るため、箱館で抵抗を続けていた定敬を自ら訪ね、粘り強く説得した結果、降伏させることに成功する。
さてこの桑名藩の決断について、我が身や家族の安泰という私利を優先し、理不尽な暴力への抵抗という大義をかなぐり捨てた道徳的堕落だとは、さすがの勇ましい保守派知識人も言わないだろう。
もちろん自分の判断で公の義を優先し、それに殉じたければすればよいし、現にそうした桑名藩士もいた。箱館で最後まで抵抗し、藩の全責任を背負って切腹させられた森常吉は「なかなかに惜しき命にありながら君のためには何いとふべき」と辞世の句を遺す。
だが一度しかない自分の人生や家族のために命を惜しみ、強者に膝を屈することもまた、間違ってはいない。
正義は一人で自発的に行うものである。桑名藩はそれを理解していたように見える。個人の判断による不参加を許さない戦争は、正義の名に値しない。
(2017年10月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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