リオデジャネイロ五輪の報道で「武士」や「武士道」という言葉をしばしば目にしたが、武士ほど真の姿が歪められたものも少ないだろう。清水多吉『武士道の誤解』(日本経済新聞出版社)は、そうしたさまざまな歪曲・捏造の例を挙げる。
「七生報国」は、楠正成兄弟が湊川で討死した際の言葉が由来とされる。『太平記』によれば、自害に先立ち兄正成が弟正季に何か言い残すことはないかと尋ねると、正季は「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。この言葉が「七度生まれ変わっても国に奉公したい」と改められ、戦前・戦中を通じてもてはやされることになった。
しかし実は、切り捨てられた言葉がある。弟正季の右の言葉を聞いた兄正成は同感しつつも、「罪業深き悪念なれども」、つまり「罪業にまみれた悪い考えではあるけれども」と釘を刺すのである。
仏教思想に影響されたこの言葉は、殺生を生業とする武士の自省を示し、物語に深みを増す。だが国民を戦争に駆り立てる軍国主義イデオロギーにとって、殺生が「罪業」などという考えは邪魔でしかない。かくて「七生報国」だけが高らかに謳い上げられたのである。
武士道を語るうえで必ず取り上げられる著作が山本常朝『葉隠』である。しかしこの書物は江戸時代には佐賀一国を出ることはほとんどなく、一部を除いてその存在すら知られていなかった。したがって、相良亨(東京大学名誉教授)のように『葉隠』で江戸中期の武士道を論ずるのはまったくの見当違いと清水は批判する。
『葉隠』が世に広まるのは、太平洋戦争直前に和辻哲郎らの校訂で岩波文庫に入ってからである。「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」という言葉が有名だが、文中に何度も出てくるにもかかわらず、和辻が『葉隠』論で無視した別の側面があると清水は指摘する。
それはこういう発言が示す側面である。「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなことなり」
主君のために死ぬのも人間かもしれないが、「好いた事」をして暮らしたいと願うのははるかに人間臭い。常朝は「我は寝ることが好きなり」とまで述べている。
国家主義や軍国主義のイデオロギーにとって、古典の権威は便利でも、そこに描かれた人間の真実は都合が悪い。だから歪曲がなされる。騙されないようにしたい。
(2016年9月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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