先日の衆院選で、希望の党の小池百合子代表は「伝統や文化や日本の心を守っていく保守の精神」を強調した。日本のこころの中野正志代表は、伝統や文化を後の世代に引き継ぐため、対北朝鮮などで「強い日本」にしようと訴えた。
だが文化を政治や軍事の力で守ることはできない。政治や軍事にできるのはせいぜい国境の守りを固めることだが、文化は国境を越えるし、海外の文化を吸収しなければ豊かな文化はできない。
日本の伝統文化も例外ではない。大塚ひかり『女系図でみる驚きの日本史』(新潮選書)によれば、今でこそ日本古来の伝統の町とされる京都は、桓武天皇が都を遷した当時、朝鮮半島や支那から移住してきた渡来人であふれていた。7世紀の畿内の人口のほぼ30%が渡来人だったという。
朝鮮半島と日本の関係は古く、3世紀半ば、百済から多くの技術者や物資が渡来したとされる。さらに5世紀後半、秦の始皇帝の末裔と称する秦氏が嵯峨野・太秦周辺に居住。7世紀後半、百済と高句麗が滅亡すると、とりわけ日本と深い関係にあった百済からの亡命者が大挙して渡ってきた。
天皇の御所である大内裏自体、渡来人の秦河勝の邸宅だったという伝承もあり、広隆寺、伏見稲荷、松尾大社など秦氏の関わる寺社は京都に多い。
桓武天皇はそんな京都に長岡京、平安京を造営・遷都した。この造営・遷都も渡来人と関わりが深く、責任者だった藤原種継、藤原小黒麻呂はそれぞれ秦氏の母や妻を持つ。
桓武天皇が旧都・奈良から離れた渡来人の街、京都に都を遷した最大の理由も、母が百済の王族の末裔である渡来人だったからだ。桓武天皇は渡来人の血へのこだわりが強く、百済系や漢系など渡来人を六人も妻に迎えた。
妻の一人、百済永継はもともと藤原内麻呂の妻として真夏や冬嗣を生んだ後、桓武天皇に女官として仕えるうちに愛されて皇子を生む。歌人の僧正遍昭はその息子だ。冬嗣は藤原道長の先祖に当たる。
小倉百人一首で有名な遍昭、『源氏物語』の作者である紫式部の主人筋で愛人でもあった道長には、大塚が指摘するとおり、ともに百済系の血が流れているわけだ。
もし古代の日本が国境を閉ざし、朝鮮や支那からの渡来人を排除していたら、今の政治家が守れと叫ぶ伝統文化はそもそも生まれていなかっただろう。文化は政治で作ることも守ることもできない。
(2017年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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