自給自足論の末路
大川周明は東京帝大で宗教学を専攻し、古今東西の宗教思想・神秘主義思想を深く理解していたといわれる。『国体の本義』の忠君愛国論を否定し、絶対的な天皇崇拝とは一線を画した。
しかしそんな大川は、他の国家主義者たちと同様、正しい経済学の知識を欠いていた。貧困改善には自給自足ではなく、自由貿易が必要であることを理解しなかった。だからアジア主義を掲げつつ、中国侵略を肯定する矛盾に陥る。以下、抜粋。(数字は位置ナンバー)
〔一九二六年〕七月に蔣介石の北伐が始まり、その鉾先が日本に向けられるようになると、彼〔=大川〕は満州における我が国の権益を守るために、中国ナショナリズムと全面的に対決することになるのである。(1779)
大正末頃から〔略〕彼〔=大川〕は日本と満蒙を一体とした自給自足的経済圏の建設とその政治的支配が、我が国の生存と世界的使命の遂行のために、必要不可欠であると確信するに至った〔略〕。(1785)
国粋派の論客大川は〔略〕精神の次元では、西洋崇拝に対して日本精神を、内政の次元では、資本主義に対して社会主義もしくは統制経済を、外交の次元では、脱亜外交に対してアジア主義を唱えた。(2412)
大川は、早くも高校時代から、個性の伸長を妨げる資本主義経済の仕組みに痛烈な批判を放ち、社会主義の必要を唱えていた。やがて米騒動の体験は〔略〕資本主義体制とそれを支える金権的民主主義の打倒を決意させた。(2438)
彼〔=大川〕は直訳的社会主義を信奉したわけではない。日本が天皇信仰によって作られた国であり〔略〕天皇が現存する以上、天皇を中心とした錦旗革命こそ、最も現実的な変革手段であると、大川は考えた。(2441)
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