小川榮太郎は『「永遠の0」と日本人』(幻冬舎新書)で、特攻の発案者と言われ、終戦時に割腹自殺した中将大西瀧治郎を「西郷隆盛に本当に私淑した、豪の者」と褒めそやす。そして「特攻の英霊に曰す、善く戦ひたり深謝す」で始まる大西の遺書を、「熟慮と断念と若者への激しい愛惜の血で書かれた絶唱である。百遍の熟視、味読に値する」と絶賛する。文芸評論家を名のるとは思えぬお粗末な文章感覚である。
大西の遺書の愚劣は、特攻で友人を失った医師の三村文男が二十年近く前、『神なき神風』(テーミス)で的確に指摘している。
「善く戦ひたり深謝す」とは「よくやった、ほめてつかわす」ということである。英霊に対する言葉づかいではない。特攻死した部下たちを本当に英霊と思うのなら、たとえば「かしこみて特攻隊諸士の英霊に申し上げたてまつる。諸士は善く戦はれたり。深く謝したてまつる」と書かねばならない。大西の遺書は「あの世へ行っても司令官と部下の関係を続けるつもりであったような文言」であり、「傲岸不遜、神をおそれぬ態度」である。
それでも大西は腹を切ったのだから、まだ誠実だった。ところがそれ以外、特攻という帰還率ゼロの自殺行為を命じた責任を取り、自決した高級軍人は誰もいなかった。三村が憤るとおり「陸海軍の首脳部はじめ、責任をとるべき人たち」は「免れて恥とせず、戦後を生きのび」るという「厚顔」ぶりを発揮したのである。
小川も「終戦に際して腹を切った指導者の少なさは、戦後の日本の恥の始まりであった」と申し訳程度に書きはする。しかしその後、指導者の責任を問う文章は一切ない。
それどころか、指導者の責任をあいまいにし、免罪しようとする。たとえばこうである。「作戦をめぐる葛藤は……死に赴いた者のみならず、これを立案し、命じた者、特攻要員のまま終戦を迎え、生き延びた者それぞれが、それぞれの仕方で背負うことになる」。特攻を命じた者と命じられた者を同列に扱うことも不適切だし、人を殺しても道義的な「葛藤」を感じさえすればよしと言わんばかりの甘さも問題である。
小川は、特攻隊員の立派な態度を称揚しつつ、平成日本人の「エゴと自己主張」を嘆いてみせる。しかしもし戦後日本人の「エゴと自己主張」が肥大したとすれば、原因の一端は間違いなく、特攻の責任に頬かむりした厚顔な政府・軍高官にある。その罪を誤魔化し、若者の無念を踏みにじる言論人も、同類の恥知らずである。
(2014年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
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