ライターの大倉幸宏は『「昔はよかった」と言うけれど』(新評論)で、戦前の新聞報道や出版物を調べ、この主張が俗説にすぎないことを明らかにする。
たとえば電車内でのマナーである。昭和十五年七月五日付読売新聞によれば、「集団をなしたハイカーは、とかく群集心理に酔つて粗暴に流れがちになります。始発駅の列車や乗換駅で窓から乗り込み荷物を投込む。最近では窓から荷物を投込んで座席をとつて置くと、先に乗り込んだハイカーがこれをホームに投出して座りこみ、そのため口論が始まる」。日本人を好意的に描いた『東京に暮らす』の著者キャサリン・サンソムが「駅にいると、集団の中の日本人がいかに単純で野蛮であるかがよくわかります」と書いたほどだった。
公共の場でのマナーの悪さは駅に限らない。街には人々が捨てたゴミであふれていた。昭和五年三月二十五日付同紙で、東京家政学院創設者の大江スミはこう嘆いている。「折角きれいに道幅も広々とつくられた立派な道路を、かの紙屑、蜜柑の皮、竹皮などを捨てて汚す悪習がありますから、これを十分きれいにしなくてはならない」。河川は路上よりもひどく、不法に投棄されたと思われるゴミが大量に流れていた。
また俗説と異なり、家庭での子供のしつけは厳格ではなかった。明治四十三年七月三日付同紙では、ある外国人が日本は「子供の威張る国」だと感想を語ったと記し、こう認めている。「客間と云はず応接室と云はず、一家を子供の横行するに任かせ、来客に供したる菓子を子供の奪ひ去ることすらある我国のある種の家庭の状を見せしむれば、あるいは『子供の威張る国』といふ感じを起さざるを得ざる場合あるべし」。サンソムも「子どもを叱っている母親を目にすることはめったにありません」と記した。
大倉が批判するとおり、歴史に学ぶには、根拠の乏しい印象論に走らず「過去の事実を正確に、より客観的に、より多角的に把握する」必要がある。「昔はよかった」という幻想に基づいて歴史の全体像を歪めてはならないし、ましてや政治権力によって、ありもしない「古きよき時代」への回帰を強いられるのはまっぴらである。
(2013年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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