今回は仏教について、政治権力に対する考えを中心にみていこう。
紀元前5世紀ごろのインドでは、商工業の発達を背景に、都市を中心とした小国家が形成された。富を蓄積した王侯・商工業者の力が強まり、バラモン教にもとづく身分制度で最上級とされるバラモン(祭官)の権勢は衰えていった。こうした社会変動のなか、新たな教えを説く自由思想家たちが登場する。その1人が仏教の開祖ガウタマ・シッダールタであった。
ガウタマは、現在のネパール領でヒマラヤ山麓に近い釈迦族の部族国家に王子として生まれた。恵まれた生い立ちながら、生まれつき内省的で、早くから人生の問題に悩んだといわれる。結婚し一男を得るが、悩みの解決を求める気持ちは抑えがたく、出家する。
はじめ師について瞑想を学び、のち断食など様々な苦行に励んだが、悩みの解決には至らなかった。35歳のとき、苦行の虚しさを知って断食をやめ、とある大樹の下で端座し、瞑想に入った。ある朝、心に大きなひらめきが起こり、目の前に真理(ダルマ、法)があらわになったと感じて、悩みはついに消滅した。以後、「(真理に)目覚めた者」としてブッダ(仏陀)と呼ばれた。
このあと最初の説法(初転法輪)を行なってから80歳で亡くなるまで、ブッダは生涯をかけて自らが体得した真理を説き続け、やがて教団が形成された。生前のブッダの言葉をまとめたものが経典である。
ガウタマは、ブッダとなった後、苦をめぐる思想と涅槃(安らぎの境地)に至る方法を簡潔にまとめた。それが四諦・八正道である。
四諦(四つの真理)とは、①苦諦(人生は苦)、②集諦(苦の原因は煩悩)、③滅諦(涅槃が理想の境地)、④道諦(涅槃に至る正しい修行法は八正道)の四つである。
八正道とは八つの修行法のことであり、正見(正しい見解)、正思(正しい心のもち方)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づき)、正定(正しい精神統一)から成る。
八正道のうち、世俗の政治権力との関わりでとくに注目されるのは、正業である。この言葉が指す正しい行為とは、具体的には、殺生や盗みをしないことである。これは、出家をしない在家の信者が守るべき戒律である五戒にも含まれている。すなわち、不殺生(殺生をしない)、不偸盗(盗みをしない)である。ちなみに、他の三つは不邪淫(婚姻外性交をしない)、不妄語(虚言をいわない)、不飲酒(酒を飲まない)である。
仏教の教えで特筆すべきは、身分社会だった当時、人間の貴賤は生まれによっては決まらないと説いたことだ。仏典には「四姓(祭官・武人・庶民・隷民)の中で祭官が最高であり、それ以外は卑しい」と主張する祭官をブッダが論破する物語が多数収録されている(馬場紀寿『初期仏教』)。
たとえば、祭官が最上だと説く祭官に対してブッダは、殺生や窃盗などの悪行を行う者はどの生まれにもおり、それら悪行を離れた者もまたどの生まれにもいることを説いた。また、王族であっても、祭官であっても、庶民であっても、隷民であっても、一部は殺生や盗みなどの悪行を行うし、一部は善行を行う。この世において最上の者は、祭官ではなく解脱した者だと説いた。仏教で解脱とは、欲望を抑制して煩悩の束縛から自己を解放し、心の平静な境地である涅槃を実現することである。
このような仏教の考えは、国王を泥棒と同一視するいう大胆な態度につながる。仏教学者の植木雅俊氏によれば、インド哲学の泰斗・中村元氏は常々、インド仏教では国王を泥棒と同列に見ていたという話をしていた。なぜ同列かというと、泥棒が非合法的に人の物を持って行ってしまう一方、国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味では共通している、とみるのである(『仏教、本当の教え』)。
このような仏教の考えは近年、西洋のリバタリアン(自由至上主義者)と呼ばれる論客から注目されている。リバタリアンは個人の生命・身体・財産の権利を重視し、正当防衛以外の理由でこれらの権利を侵害してはならないと説く。これだけなら、たいていの人はとくに異論を唱えないだろう。だがリバタリアンの特徴は、その原理原則を一般市民だけではなく、政府にも厳格に当てはめようとするところにある。
たとえば、課税は盗みだとみなす。リバタリアンの理論家マレー・ロスバード氏によれば、政府以外の個人・集団(犯罪者を除く)が相手との自発的な取引や贈与で所得を得るのに対し、政府は、もし収入を与えなければ恐ろしい罰を与えると脅すことによって、強制的に収入を得る。これはピストルを突きつけて金銭を要求する強盗に等しいという(『自由の倫理学』)。
現代リバタリアンのこのような見解は、政治権力者である国王を泥棒と同一視する、仏教の発想と実質同じといっていいだろう。
このような主張に対して反論はある。たとえば、ブッダは生前、様々な統治者と対話したが、その際、課税をやめろと言ったり、税は盗みだから仏教の倫理に抵触すると言ったりしたことはない。だから仏教を自由至上主義と同一視するのは誤りだという。
これに対し、米国のリバタリアン系シンクタンク、ケイトー研究所が運営するウェブサイト「リバタリアニズム」は、記事でこう指摘する。王に向かって「臣民に税を課すのをやめなさい」などと言ったら、王は不快になり、そこで会話が終わってしまいかねない。そうなれば、王を解脱に導くチャンスは失われてしまう。ブッダは人を見て法を説いたのである。
のちに仏教がインドから伝わった中国では、天命を受けた帝王に民衆は服従するものとされた。前出の植木氏によれば、これは仏教本来の倫理とは対立する。それでも仏教者は、国家のために積極的に働こうとまではしなかったという。
ところが日本の仏教は伝来した当初から、鎮護国家の思想が支配的だった。ここがインドや中国との大きな違いだという。また、インド仏教では「人」より「法」を重視するが、日本では聖徳太子信仰や弘法大師信仰など個人崇拝が顕著だとも指摘する。
宗教の倫理がつねに正しいとは限らない。それでも、政治とは異なる価値観に立ち、政治を監視する存在は重要である。社会に及ぼす政治の力が拡大する現在、ブッダが説いた教えの意味を、あらためて噛みしめたい。

0 件のコメント:
コメントを投稿