2016年1月2日土曜日

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』



二百年前への逆戻り


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

本書の内容には、すでにさまざまな批判がなされている。地産地消のすすめとは裏腹に、「二一世紀の燃料」と持ち上げた木質ペレット(木くずを固めたもの)を作る岡山の会社が、地元でとれる木材ではなく北欧などからの輸入材を使っていたこと。そのペレットの焼却灰からチェルノブイリ原発事故由来とみられるセシウムが検出されたこと。多くの税金を投入して建設されたドイツやオーストリアのバイオマス発電所が、次々に破綻したり経営不振にあえいだりしている事実を隠していること――などである。

田舎暮らしや自給自足生活を個人が好きでやるのは、結構なことだ。しかし、それを「まったく新しい日本経済再生策」(新書版カバーより)とまで持ち上げるのは、行き過ぎである。

ここでは、経済の理屈からみておかしな点を指摘したい。

第三章で、「域際収支」という統計が出てくる。域際収支とは、商品やサービスを地域外に売って得た金額と、逆に外から購入した金額の差を示した数字である。売った金額のほうが大きければ黒字、逆なら赤字となる。国でいう貿易黒字なのか貿易赤字なのかを、都道府県別で示しているわけである。

数字をみると、東京や大阪など大都市圏が軒並み黒字なのに対し、高知や奈良など農漁村を多く抱える県は赤字額が大きい。この章を執筆したNHKの井上恭介と夜久恭裕は、赤字の県について「こうした地域がなぜ貧しいのか。それは、働いても、働いても、お金が地域の外に出て行ってしまうからである」とコメントする。

しかし、このコメントはおかしい。たしかに、黒字ということは、物を買って使ったお金よりも、物を売って得たお金のほうが多いことを意味する。差額の分だけ、域内には多くのお金が残る。しかし、お金がたくさんあることは、生活が豊かであることを意味しない。

なぜなら、お金とはしょせん、欲しい物を買うための手段にすぎないからである。最終目的は、お金と引き換えに衣食住やさまざまな楽しみなど自分の欲しい物を買い、それを使うことである。物を買えばお金は出ていくが、代わりに物が入ってくるのだから、貧しくなったとはいえない。

だから、お金が差し引きで地域の中に入ってくる状態(黒字)は豊かで、外に出ていく状態(赤字)は貧しいと決めつける著者らの考えはおかしい。この考えは、著者らは意識していないだろうが、地域の豊かさを決めるのはお金だといっているに等しい。本書のあちこちでお金がすべてという価値観を厳しく批判する著者らが、同じような考えに陥るとは皮肉である。

なお、国の貿易についても同じことがいえる。よく勘違いされるが、貿易収支の黒字は豊かさを意味しないし、赤字は貧しさを意味しない。だから「国が豊かになるためには輸出を増やし、輸入を減らしてお金を集めなければならない」という考えは間違っている。この間違った考えを重商主義という。

かつて16〜18世紀の欧州では、各国政府が重商主義を掲げ、輸出を奨励し輸入を規制する保護政策を採っていた。これに対しアダム・スミスが1776年に出版した『国富論』で、重商主義は国を豊かにしないと批判し、自由貿易への道を開いたことはよく知られる。

本書が主張する、「外に出て行くお金を減らし、地元で回すことができる経済モデル」とは、地域版の重商主義そのものである。「まったく新しい」どころか、『国富論』が出た二百数十年前に逆戻りしたような、古色蒼然たる考えでしかない。

本書で紹介される地域企業の成功例に、山口県周防大島のジャム屋がある。空想上の話だが、もし世界がずっと重商主義に支配され、日本政府がコメを守るためパンの輸入を許さなかったら、日本でこれほどジャムが好まれることもなく、ジャム屋の商売は成り立たなかっただろう。

地域に閉じこもった経済は、暮らしを豊かにしない。アダム・スミスが説いたように、豊かさをもたらすのは地域や国を超えた分業だからである。個人が自分の価値観で物質的な豊かさを放棄するのは自由である。だが、もし豊かさを求めるのであれば、世界に開かれた経済でなければならない。本書にはその認識が希薄で、鎖国的な反グローバル主義を助長しかねない。

著者の一人である藻谷浩介は「中間総括」で、里山資本主義の推進に政府の補助金を使うのは反対と述べており、そこは評価できる。ところが他の筆者は補助金を「行政の強力な後押し」などと肯定している(第一章の木質ペレットの箇所)。全体として、高く評価はできない。

(アマゾンレビューにも投稿

0 件のコメント:

コメントを投稿