作家、ウィル・グリッグ
(2017年12月25日)
1914年8月、欧州の大国は嬉々として戦争に身を投じた。巨大な野望を抱く新興国ドイツは、ロシアが動員される前にフランスを迅速に牽制し、二正面戦争の見通しを回避しようと、ベルギーを横断した。何千人もの若いドイツ人が、6週間の紛争を予期し、楽観的な歌詞を歌いながら部隊列車に乗り込んだ。「パリへ小旅行。シャンゼリゼ通りでまた会おう」
The Christmas Truce of World War I by Will Grigg
— Scott Horton (@scotthortonshow) December 24, 2023
For a tragically short time, the Spirit of the Prince of Peace drowned out the murderous demands of the State.
In August 1914, Europe’s major powers threw themselves into war with gleeful abandon. Germany, a rising power with… pic.twitter.com/zWYDPrDiJI
フランスは1870年にアルザスとロレーヌをドイツに奪われた復讐に燃えていた。ドイツの勢力が拡大するのを警戒していた英政府は、「フン族に教訓を与える」ために何十万人もの若者を動員した。英歴史家サイモン・リーズ氏によれば、大陸全域で「何百万人もの軍人、予備役、志願兵が……戦旗に熱狂的に駆け寄った。……その雰囲気は、争いというよりむしろ休暇のようであった」。
各陣営とも、クリスマスまでには勝利すると期待していた。しかし12月に入ると、フランスとベルギーを何百マイルも縦断する塹壕が立ち並ぶ西部戦線は拮抗状態に陥った。戦線のある地点では、両軍の距離は1メートルも離れていなかった。粗末な堡塁は、白っぽい灰色の泥土に大きな溝を掘っただけのものだった。冬の装備も整っていない兵士たちは、人間が快適に過ごすには冷たすぎるが、凍るには暖かすぎる汽水の中をのろのろと歩いた。
ノーマンズランド(中間地帯)に指定された未開拓地には、戦争のひどい残滓が散乱していた。使用済みの弾薬と、弾薬が使われた人々の生気のない死体である。有刺鉄線のフェンスには、多くの戦死した兵士の亡骸がグロテスクに編み込まれていた。村や家は廃墟と化していた。廃墟と化した教会が軍事基地として使われていた。
損害が増え、膠着状態が固まるにつれ、双方の戦争熱は冷め始めた。西部戦線に投入された兵士の多くは、最初の血に飢えた熱狂には屈しなかった。フランス軍、ベルギー軍、英国軍とともに戦ったのは、インドから来たヒンズー教徒やシーク教徒、ヒマラヤのネパール王国から来たグルカ兵だった。
これら植民地徴兵兵は、祖国から輸送され、冬のベルギーのキャベツ畑を切り開いた塹壕に配備された。スコットランド高地出身者も戦線におり、12月の厳しい寒さに負けず、誇らしげにキルトを着用していた。
ドイツ軍は、好色なユンカー貴族を代表するプロイセンのエリート将校が率いていた。ドイツ軍にはバイエルン人、ザクセン人、ウェストファーレン人、ヘッセン人の予備兵がおり、その中には英国に住んでいた、あるいは英国で生まれ、完璧な英語を話す者も少なからずいた。散り散りになっていたドイツの諸邦を統合しようとした(ドイツ帝国宰相)ビスマルクの努力にもかかわらず、多くのドイツ軍兵士は、彼らにとって抽象的なドイツ国家よりも、自分たちの地域社会に愛着を持ち続けていた。
戦友たち
凍てつくような雨に打たれ、腐敗した仲間の遺体に囲まれながら、両軍の兵士たちは寒々とした腐敗した下水道に身を投じ、厳しい軍規を守っていた。12月7日、ローマ教皇ベネディクト15世はクリスマスの停戦を呼びかけた。この提案は、両陣営の政治・軍事の指導者たちから熱狂的な支持をほとんど得られなかった。しかし、疲弊しきっていた前線部隊は違った。
12月4日付の英国第2軍団司令官からの通達は、戦線に蔓延していた「生かされて生きる人生論」を非難していた。敵対する部隊の間にあからさまな友好関係はほとんど見られなかったが、それと同様に、優位に立つ可能性のある相手に圧力をかける主体性もほとんど見られなかった。食事の時間には双方とも発砲せず、ノーマンズランドでは友好的な会話が頻繁に交わされた。エジンバラ・スコッツマン紙に掲載された手紙の中で、英王立工兵隊のアンドリュー・トッドは、自分がいた戦線沿いの兵士たちが「ある場所では60ヤードしか離れていなかったが……非常に『親密』になっていた」と伝えた。
兵士たちは相手に鉛を投げつけるのではなく、時には新聞(石で重くしたもの)や配給缶を戦線を横切って投げつけた。侮辱の砲撃もときどき起こったが、それは「ロンドンのタクシー同士が軽い衝突事故を起こした後よりも、概して敵意は小さかった」とクイーンズ・ウエストミンスター連隊のレスリー・ウォーキントンは報告している。
12月に入ると、前線部隊の戦闘意欲は衰えた。クリスマスが近づくにつれ、敵陣を越えて親善の仕草が散見されるようになった。クリスマスの約1週間前、アルマンティエール近郊のドイツ軍は、「素晴らしい」チョコレートケーキを戦線を越えて英国側に差し出した。そのおいしい平和の捧げものには、驚くべき招待状が添えられていた。
今夜は大尉の誕生日なので、コンサートを開こうと思う。ただし、7時30分から8時30分までの間に敵対行為を停止することに同意するよう、客人として約束してくれることを条件とする。……我々が7時30分ちょうどに塹壕の端でキャンドルとフットライトに火を灯すのを見たら、安心して塹壕の上に頭を出してくれていい。我々も同様にし、コンサートを始める。
コンサートは時間通りに進行し、目撃者の証言によれば、ほおひげを生やしたドイツ軍兵士たちが「クリスティ・ミンストレルズ(米国の大衆芸能団)のように」歌ったという。一曲ごとに英軍から熱狂的な拍手が起こり、ドイツ兵は「一緒に歌おう」と英国軍を誘った。ある英国兵は大胆にも、「ドイツ語を歌うくらいなら死んだほうがましだ」と叫んだ。この軽口に対して、ドイツ軍からは気さくな返事が即座に返ってきた。「そんなことをしたら、おれたちが死んでしまう」。コンサートは「ラインの守り」の熱唱で幕を閉じ、クリスマス前の短い休息が終わったことを告げる、暗くなりかけた空をわざと狙った数発の銃声で締めくくられた。
戦線の他の場所では、倒れた兵士を収容し、適切な治療を施したり埋葬したりするための準備が進められていた。
第2クイーンズ・ウエストミンスター連隊のジェフリー・ハイネキー中尉は、母親に宛てた手紙の中で、12月19日に起こったそのような出来事の一つを紹介している。「何人かのドイツ兵が外に出てきて手を挙げ、負傷者を収容し始めたので、僕たちもすぐに塹壕から出て負傷者を収容し始めました。ドイツ兵が手招きしたので、多くの者がドイツ兵のところに行って話をしました。そのうちの何人かと話しましたが、非常に立派な人たちでした。……言葉では言い表せないほど皮肉なことでした。前夜、僕たちは凄まじい戦いを繰り広げていましたが、その翌朝、僕たちは彼らのタバコを吸い、彼らは僕たちのタバコを吸っていました」
中間地帯でサッカー
やがて戦線では、クリスマスにちなんだ正式な停戦の話が持ち上がった。この案もまた、上層部の抵抗に遭った。歴史家スタンリー・ワイントラウブ氏は著書『きよしこの夜——第一次世界大戦クリスマス休戦の物語』でこう語る。
ほとんどの上層部は、以前ちらほらと親睦を深めていたとき、見て見ぬふりをしていた。しかし、クリスマスの休戦は別問題だった。クリスマスの週に行動を緩めれば、観念的な熱狂に欠ける部隊の犠牲的精神が損なわれる恐れがあった。宣伝担当者の努力にもかかわらず、ドイツ軍予備兵はほとんど憎しみを示さなかった。ドイツ軍を軽蔑するよう促された英国兵は、フランスやベルギーの十字路やキャベツ畑を取り戻すことに何の興味も示さなかった。むしろ両陣営は、ほとんどの戦争で兵士が戦うように、生き残るために、そして大家族となった兵士たちを守るために戦ったのである。
いわば、戦争そのものが大きな家族の中で繰り広げられていたのである。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世も英国王ジョージ5世もビクトリア女王の孫だったのだから。さらに重要なのは、戦争をしている国々はすべて、かつてキリスト教国として知られていた国の一部だったということだ。この皮肉な事実は、クリスマスを戦線で過ごすことになった者たちにも理解された。
クリスマスイブになると、ドイツ側の戦線は、小さなクリスマスツリーであるもみの木の輝きに包まれた。聖なる日を記念しようと決意した部隊によって、時には銃撃を受けながら設置されたものだ。ワイントラウブ氏は書く。「ほとんどの英国兵にとって、ドイツ軍がクリスマスを祝うことにこだわったことは、ドイツ人は獣だというプロパガンダの後では驚きだった。フランス人からも英国人からも異教徒とみなされ、野蛮人とさえみなされた現実主義者のドイツ人は、愛するもみの木のために命を賭けることなど予想されていなかった。しかし何本かが悪鬼のような砲撃で倒れたとき、(英国軍の)戦線の反対側にいたサクソン人は、強情にも欄干に登って、危機に瀕した木々を立て直した」
光り輝くクリスマスツリーは、ヒンズー教徒に「光の祭典」を祝うランタンを思い起こさせた。その中には、キリスト教国同士を戦わせる戦争の兵士として、凍え、栄養不足に陥り、故郷から何千キロも離れた場所で孤独な死に直面することに戸惑いを覚えた者もいたに違いない。「これが戦争だと思ってはいけない。これは戦争ではない。世界の終わりなのだ」と、あるパンジャブ人兵士は親戚に宛てた手紙に書いている。
しかし、その争いの中にも、キリスト教国の良識を守ろうと決意した魂たちが、それぞれの側にいた。クリスマスが明けると、ドイツのザクセン軍は向かいの英国軍に挨拶を叫んだ。「英国人よ、幸せなクリスマスを!」。その挨拶に、スコットランド人部隊の一人は、英国人と呼ばれたことに軽いいら立ちを覚え、あざ笑うような返事を返した。「フリッツ、お前もな。ただし、ソーセージを食べ過ぎるなよ!」
突然の冷え込みで戦場は凍りつき、泥沼にはまり込んでいた部隊にとっては救いとなった。戦線に沿って、部隊は塹壕や掘っ立て小屋から身を起こし、警戒しながら、そして熱心に、中間地帯を越えて互いに近づいていった。挨拶や握手が交わされ、故郷から送られた小包からあさった贈り物もあった。通常であれば流血によってしか手に入らないようなドイツ土産(たとえばツノのついたピッケルハウベのヘルメットや「神は我らと共に」〔プロイセン王家ホーエンツォレルン家の標語〕のベルトのバックルなど)が、同じような英国の装身具と物々交換された。ドイツ語、英語、フランス語でキャロルが歌われた。中間地帯では、英独の将校が丸腰で並んで立っている写真が何枚か撮られた。
イーペル堡塁の近くでは、ドイツ人とスコットランド人が野ウサギを追いかけ、捕まえると思いがけないクリスマスのごちそうとなった。おそらく、野ウサギを追いかけるという突然の運動が、何人かの兵士にサッカーの試合をさせようと思わせたのだろう。そしてまた、若くて競争心の強い男たち(その多くはサッカー場から募兵された英国の若者たち)を刺激して試合をさせるのに、ほとんど何のきっかけも必要なかっただろう。いずれにせよ、1914年のクリスマスに、ドイツ兵と英国兵が中間地帯の凍った芝生の上でサッカーをしたことは、手紙や日誌に数多く記されている。
英国の野戦砲兵中尉ジョン・ウェッダーバーン・マクスウェルは、この出来事を「全戦争中おそらく最も異常な出来事——将校や将軍の承認なしに行われた兵士の休戦……」と表現している。
この出来事が無条件に承認されたわけではない。戦線沿いでは銃声が飛び交い、戦争がまだ進行中であることを思い知らされた。
戦線後方の位置から、「厚く黒い口ひげを蓄え、奥二重の目をした、やつれて浅黒い兵士」が、キリスト教的な親交が自然に沸き起こるのを憎悪に満ちた軽蔑の目で目撃した。このオーストリア生まれのドイツ軍伝令兵は、英国軍兵士とクリスマスの挨拶を交わしていた仲間を軽蔑した。「そんなことは戦時中にあってはならないことだ」とアドルフ・ヒトラー伍長は憤慨した。「ドイツ人の名誉意識はまったく残っていないのか」。ヒトラーの反応には「愛国的な呵責以上のものがあった」とワイントラウブ氏は指摘する。「洗礼を受けたカトリック教徒でありながら、自分の部隊がメシーネ修道院の地下室でこの日を迎える間、彼は宗教的な儀式をことごとく拒否した」
もしも……?
1915年1月2日付のロンドン・デイリー・ミラー紙は、クリスマス休戦に関する記述の中で、「憎しみの福音」は、お互いを知るようになった兵士たちにとって魅力を失ったと述べている。
同紙はこう評した。「兵士の心に憎しみが宿ることはめったにない。それが仕事だから戦いに行くのだ。それ以前のこと、つまり戦争の原因や、なぜ、どうして、などということは、ほとんど気にならない。彼は国のために戦い、国の敵と戦う。集団として、彼らは非難され、粉々に吹き飛ばされる。個人としては、彼らは悪い連中ではないと思っている」
「多くの英独の兵士、そして一線級の将校たちは、互いを紳士的で高潔な人間として見ていた」とワイントラウブ氏は書く。ライフル銃の向こう側にいるのは、観念的なプロパガンダに描かれるような魂のない怪物ではなく、怯えていて、生き延びて家族のもとに帰ろうと必死になっている男なのだ、と兵士たちは理解するようになった。戦線の多くの人々にとって、こうした現実はドイツのもみの木の光によって初めて明らかになった。
クリスマスツリーという共通の象徴(異教的な起源を持つ装飾品が何世紀も前にキリスト教徒によって転用されたもの)の中に、英国軍とドイツ軍は「突然の驚くべきつながり」を見いだしたと、〔「シャーロック・ホームズ」の作者〕英作家コナン・ドイル(この戦争で息子の命を奪われた)は戦後述べている。「驚くべき光景だった」とドイルは振り返り、「世界の平和に逆らう高貴な陰謀家たちが、狂気の野望のために、このような男たちを追い詰め、互いに手を取り合うのではなく、喉をつかみ合うように仕向けたのだという苦々しい思いを込み上げさせるに違いない」と述べた。
1月4日にロンドンのタイムズ紙に掲載された驚くべき手紙の中で、あるドイツ軍兵士は「(クリスマスの)塹壕でのすばらしい光景が示すように、我々の側に悪意はないし、我々に敵対する多くの人々にも悪意はない」と述べた。しかし、戦争を画策した者たち、すなわち「世界の平和に逆らう高貴な陰謀家たち」にとっては、決してそうではなかった。英歴史家ニール・ファーガソン氏が指摘するように、戦争屋たちの世界に対する計画は、「最小の費用で最大の殺戮」を必要としていた。
非公式休戦はクリスマスまで続き、戦線によっては翌日(英国軍には「ボクシングデー」と呼ばれた)まで続いた。しかし元旦を待たずに戦争は再開され、キリスト教国の自滅はとどまるところを知らなかった。
たいていの戦争は、大量殺人と無益な破壊の無意味な訓練である。しかし第一次世界大戦は、ほとんどの戦争よりも回避可能で正当化できないという点だけでなく、地獄の門を開く役割を果たしたという点でも注目に値する。戦争とその余波でドイツにもたらされた大量の飢餓と経済破滅は、国家社会主義(ナチス)運動を育てた。レーニンとボリシェビキ(ロシア共産党の前身)が権力を握ったロシアでも、ほぼ同じような破滅がもたらされた。イタリアではかつてレーニンの後継者と目された社会主義運動家ベニート・ムッソリーニが権力を握った。不寛容な全体主義ナショナリズムの急進的な変種が欧州を蝕んだ。中東では将来の戦争とテロリズムの種が深くまかれた。
もし1914年のクリスマス休戦が続いていたら? 少なくともしばらくの間は、キリスト教国が守られ、交渉による平和が続いていたかもしれないだろうか。それはわからない。「世界の平和に逆らう高貴な陰謀家たち」の邪悪な計画の遂行を、長く抑えられたかどうかは疑わしい。しかしこの休戦は、破壊の交響曲における歓迎すべき休符であり、創造主によって設計された人間の魂本性の時代を超えた真実を物語っていた。
クリスマス休戦を振り返って、スコットランドの歴史家ローランド・ワトソン氏はこう書いている。「国家は『殺せ! 殺せ! 征服せよ!』と叫ぶが、個人の内にある深い本能は、大した罪を犯したわけでもない他人を簡単に銃弾で撃ち殺そうとはしない。むしろこう言うだろう。「自分はここで何をしているのか」
悲劇的なほど短い間だったが、平和の君(イエス・キリスト)の精神は、政府の人殺しの要求をかき消したのである。
【訳者コメント】人間はときに憎み合うが、「大した罪を犯したわけでもない他人を簡単に銃弾で撃ち殺そうとはしない」。また、「兵士の心に憎しみが宿ることはめったにない。それが仕事だから戦いに行く」にすぎない。むしろ人間の本性は、他者と友好関係を結び、協力し合おうとする。ところが、それでは都合の悪い人々がいる。「世界の平和に逆らう高貴な陰謀家たち」、つまり「軍産複合体」と呼ばれる、戦争で利益を得る政府・軍関係者や軍需産業である。彼らは国籍が異なるだけの人間を殺し合わせるために、メディアを通じナショナリズムや愛国心といった「観念的なプロパガンダ」で洗脳しようとする。しかし幸い、人はその嘘に気づき、殺し合いをやめることができる。第一次世界大戦のクリスマス休戦という奇跡のような出来事は、人間の未来に一条の希望の光を投げかける。
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