政府が「自衛戦争」を行う根拠は、「国の自衛権」にあるとされる。しかし、この「国の自衛権」という、世間で当然視される概念は、個人の自由を尊重する自由主義(リバタリアニズム)の原理にはそぐわないものだ。
6月14日~19日、#IPD23 第1水上部隊 護衛艦「#いずも」は、米海軍「ラファエル・ペラルタ」、加海軍「モントリオール」と日米加共同訓練🇯🇵🇺🇸🇨🇦を実施しました。海上自衛隊は、引き続き「#自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、同盟国・同志国海軍等との連携を強化しています。#FOIP pic.twitter.com/C90kDCo89n
— 防衛省 海上自衛隊 (@JMSDF_PAO) June 20, 2023
防衛省・自衛隊ホームページの「憲法と自衛権」というコーナーでは、「平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています」と述べた直後に、すかさずこう付け加える。「もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません」
たいていの人はこの文章を読んで、「そりゃそうだよ、主権国家なんだから、自衛権があって当たり前」と思うことだろう。沖縄をはじめ国内に外国の軍事基地だらけで、そこから外国の大統領が出入国管理なしで堂々と出入りし、その大統領から「私が彼(日本の首相)を説得した結果、日本は防衛費を飛躍的に増やした」などと内政干渉の内幕をばらされてしまうような国が、果たして主権国家といえるかどうかはともかく、「国の自衛権」という考えは、自由主義からは出てこない。
自由主義において、権利が帰属する主体はあくまで個人である。代表的な権利は、自分の生命・身体・財産に対する権利だ。これらの権利を政府による侵害から防ぐ。これが自由主義の出発点である。当然、これらの権利を自衛する権利も、第一義的には政府ではなく、個人に属する。もし国が「自衛権」を持つとしたら、それは外敵の攻撃に際し、個人から権利行使の代行を委託されたものと解釈しなければならない。
さて、政府のあらゆる事業に共通する問題がここで生じる。一口に「自衛」といっても、そのニーズは個人によって千差万別だ。熱烈な愛国者で最後まで敵と戦うという人もいるだろう。家族の命が守れるなら戦場に行くという人もいるだろう。戦争の途中でもうやめたいと考える人もいるだろう。税金を余分に払う代わりに兵役は免除してもらいたい人もいるだろう。最初から戦うのはパスして外国に逃れたいという人もいるだろう。政府はこのような多様なニーズに、コネなどによる不正手段を別にすれば、対応できない。
自衛権が個人に属したままならば、それをどのような形で行使するか(あるいは行使しないか)は、個人が各自のニーズに合わせて自由に選択できる。国にいったん自衛権の行使代行を委託した後でも、その委託を取り消し、「自衛戦争」から離脱することができるはずだ。ところが実際には、そんなことは許されない。敵前逃亡として射殺される恐れすらある。
「政府は盗賊だ」と自由主義者は言う。もしそれを本当に信じるのなら、大切な自衛権を政府という盗賊にやすやすと引き渡すことはできないはずだ。
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