2023-06-28

「普通の市民」に武装権を!

自衛権が本来国のものではなく、個人のものだといっても、丸腰では武器を持つ相手から身を守れない。したがって個人に武装する権利が認められなければならない。これは自由主義(リバタリアニズム)から導かれる当然の帰結だ。
何をとんでもないことを言い出すのかと思うかもしれない。しかし少なくとも、同盟国である米国と「価値観を共有」すると信じる人々は、この考えを馬鹿馬鹿しいと笑うことはできないはずだ。個人の武装権は、アメリカ合衆国憲法で保障された権利だからである。

合衆国憲法修正第2条は、「規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない」と定める。銃規制が強まる中でいろいろ議論はあるようだが、今でもこの定めによって、銃器を持つ権利は個人の憲法上の権利と認められている。

米国に限らない。自由主義発祥の地の一つであるフランスも、申告によって合法的な銃の使用が可能だ。第二次世界大戦中には、米英から供給された銃でナチス・ドイツに対する抵抗運動(レジスタンス)を繰り広げたことでも知られる。同じ欧州のフィンランド、スウェーデン、スイスなども銃保有率が高い。

一方、ドイツはナチス政権下で銃規制が進み、銃を没収された。もしユダヤ人市民が銃を持ち続けていたら、ホロコースト(大虐殺)の犠牲にならずに済んだかもしれない。沖縄戦のさなか、旧日本軍に殺害された沖縄県民にも同じことがいえる。

保守派の政治家はしばしば、日本は「普通の国」にならなければならないと説く。具体的には、必要に応じて軍事力を行使できる国になりたいということだ。

しかし、もし「普通の国」が必要に応じて軍事力を行使できる国ならば、その前に、その権利を政府に与えた主権者であるすべての市民に、同様の権利を認めなければならないはずだ。すなわち、武器を保有し、必要に応じてそれを使用する権利である。

そんなことを認めたら、真っ昼間から銃弾が飛び交う無法地帯になると、猛反対されそうだ。しかし銃保有率の高いフィンランドやスウェーデンスイスで乱射事件はほとんど起こらない。乱射事件が大きく報じられる米国でも、銃の販売数が増加するにつれ、殺人率はむしろ低下しているとの指摘もある。

日本を「普通の国」にする前に、まずは日本人に武装を認め、「普通の市民」にしよう。そうすれば、万が一外敵から攻められたとき、自衛隊が近くにいなくても、自分で自分の身を守ることができる。そして沖縄戦を教訓に、日本政府の暴力からも身を守ることができるだろう。

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