2020-10-18

足利義満、名より実を取った勘合貿易〜明の「属国」を気にせず多大な利益

南北朝の対立がなお続く1368(応安元=正平23)年、足利尊氏の孫の足利義満が弱冠15歳で3代将軍に就いた。義満はのちに京都の室町に花の御所と呼ばれる新邸を営み、これが室町幕府の名のいわれとなる。

義満は37歳の若さで将軍職を9歳の義持に譲り、太政大臣となった。武家としては平清盛に次ぐ2人目の太政大臣だった。若くして位人臣を極めたのである。早くも半年後、義満は官を辞して出家し、自由な立場で政治に参画する。京都北山に営んだ邸宅(北山殿=後の金閣寺)は政治・文化の中心となった。

義満の将軍就任と同じ1368年、中国大陸で明が建国された。モンゴル民族の元を倒した漢民族による新王朝である。

明の初代皇帝、洪武帝(朱元璋)は元の末期にいくつかの勢力と争ってその地位を得た。ところが建国後、競い合ったライバルやその残党が倭寇(おもに壱岐・対馬・肥前松浦の漁民や土豪からなる武装集団)とともに中国沿海で海賊行為を働くという事態が起こる。明政府は海外渡航と貿易を禁止制限する海禁政策でこれを封じ込めようとしたが、うまくいかなかった。

そこで洪武帝は日本に対し、倭寇の鎮圧と国交を求めてきた。ただし、その相手は足利義満ではなく、後醍醐天皇の皇子で、北朝・幕府と対立する南朝の懐良(かねよし)親王だった。懐良親王は征西将軍として、倭寇の本拠地である九州に覇を築いていた。

粘り強く国交のチャンスうかがう

これを知った義満は対抗上、明に使節を2度にわたり派遣し国交を求めるが、洪武帝から却下される。しかし義満は諦めず、粘り強くチャンスをうかがう。

やがて義満に転機が訪れた。1398年、義満の外交権を認めようとしなかった明の洪武帝が逝去し、嫡孫である建文帝が即位する。その報せは、非常に早いタイミングで義満のもとにもたらされた。この情報を明から帰国して届けたのは、博多の商人とみられる肥富(こいずみ)である。

当時、海禁政策のもとで日中交易は禁止されていたから、この肥富なる人物は、密貿易のために日中を往来していたのだろう。叔父の朱棣(しゅてい。後の永楽帝)によるクーデター計画に脅かされていた、建文帝の意を受けて義満に接近した可能性もある。「少なくとも、義満が対中国情報の蒐集に意を用いていたことは間違いあるまい」と歴史学者の橋本雄氏は述べる(『“日本国王"と勘合貿易』)。

1401(応永8)年8月、義満は明との国交を求め、祖阿(祖阿弥)を正使、肥富を副使として建文帝のもとへ遣わす。祖阿は将軍の側近に仕えて同朋衆と呼ばれた法体の者とみられる。書の起草を儒学者・東坊城秀長、清書を書家・世尊寺行俊が担当した。

室町幕府の外交担当者が、通常は五山と呼ばれる京都の格式ある寺院の禅僧だったことと比べて、これら4人はきわめて異例の人選である。国交を復活させるために、先例や慣習にこだわらず、実力本位で人材を選んだのだろう。

義満を「日本国王」に仮認定する旨を認めた建文帝の詔書は翌年9月、使者によって日本にもたらされる。最後の遣唐使派遣計画以来、約五百年ぶりに日中の間に国交が開かれ、正式な貿易が行われるようになる。

「国辱外交」の批判

さて、今から見れば偉大なこの義満の外交実績だが、当時は卑屈な国辱外交との批判が強かった。

理由はいくつかある。たとえば、建文帝の詔書を携えた明の使者が北山殿を訪れた際、義満は明使を門まで出迎え、母屋の前に高机をこしらえてその上に詔書を置いて焼香し、次いで三拝してひざまずいてこれを拝見したという。天皇に対する拝賀奏慶に近い仰々しい儀礼だとして非難された。

また、明使が帰途についた際、明ではその前年に永楽帝が即位していたが、義満から永楽帝に送った文書は「日本国王臣源表す」とする表文(君主などに上奏する文章)で、永楽帝の即位を祝賀して土産を献じるという内容だった。明らかに臣下から皇帝に奉呈する文書であり、これも批判を受けた。

義満が「日本国王」を名乗った意図について、歴史学者の中には、義満は愛児義嗣を天皇に即位させ、自らは上皇となる意思があったという「皇位簒奪計画」説に結びつける見方がある。明という大国を後ろ盾にして、天皇の地位を奪い取ろうとしたのではないかというのだ。

しかし皇位簒奪計画説に対しては、否定的な意見が多い。血と神話に固く守られた皇統が容易に変更しうるものとは考えにくいうえ、義満が日本国内で日本国王の権威を振り回した事実もないからだ。日本国王の称号は外交手続き上の方便として名乗っていたにすぎないと考えられる。

義満の関心は皇位簒奪よりも、日明貿易がもたらす多大な実利にあった。

日明貿易では、日本が貢物を持参すると、明がその返礼品として土産物を下賜するという形をとっていた。朝貢貿易である。この貿易形態の中で、「主人」である明は日本の貢物を高く購入してくれるばかりか、日本の使節の交通費や滞在費まで負担してくれた。

これが義満にはありがたかった。当時、義満は北山殿の造営などで多額の費用を必要としていたからだ。表向き、日本が明の属国のような立場になったとしても、貿易で多くの利益を得られるなら、気にならなかったのだろう。名を捨てて実を取ったのである。

伝統文化の形成に貢献

遣明船は明から交付された勘合という証票の持参を義務付けられた。これにより、日明貿易を勘合貿易ともいう。船は寧波で勘合の査証を受け、首都北京で交易にあたった。日本からの輸出品は銅、硫黄、金、刀剣、扇、漆器で、輸入品は生糸、絹織物、綿糸、砂糖、陶磁器、書籍、絵画などであった。また、銅銭が大量にもたらされ、国内の貨幣流通を加速した。

義満自身も貿易で利益を得たが、その後、日本全体にもたらした恩恵も大きかった。輸入品は唐物と呼ばれて珍重され、それに伴い大陸文化と伝統文化、中央文化と地方文化、貴族文化と庶民文化などの広い交流に基づく文化の融合が進み、民族的文化ともいうべき固有の文化が形成されていった。

今日、日本の伝統文化の代表とされる能、狂言、茶の湯、生花などの多くは、この時代に公家、武家、庶民の別なく愛好されることを通じて形を整え、基盤を確立していった。名を捨て実を取る足利義満の「国辱外交」は、日本の経済と社会、文化に大きく貢献したのである。

<参考文献>

  • 橋本雄『“日本国王"と勘合貿易 なぜ、足利将軍家は中華皇帝に「朝貢」したのか』(NHKさかのぼり日本史 外交篇[7]室町)NHK出版
  • 村井章介『中世日本の内と外』ちくま学芸文庫
  • 伊藤喜良『足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯』(日本史リブレット人)山川出版社
  • 山田邦明監修『図説 地図とあらすじでスッキリわかる!動乱の室町時代と15人の足利将軍』青春新書インテリジェンス

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