世界では過去から現在に至るまで、多くの独裁政権が誕生した。そのなかには約70年間続いたソ連共産党政権や、すでに70年余り続く北朝鮮の朝鮮労働党政権など長期にわたり存続するものがある一方で、短期で崩れ去ったものもある。その違いは何に起因するのだろうか。
日本の中世において、異色の帝王である後醍醐天皇が強い意気込みで始めたものの、わずか3年ほどで崩れ去った「建武の新政」は、この問いに対するヒントを与えてくれる。
平安時代の天皇親政を理想に
鎌倉時代末期、皇統(天皇の血統)は持明院統と大覚寺統とに分裂した。鎌倉幕府の勧めで両統が交互に即位する両統迭立が原則とされた後、1318(文保2)年に数え年31歳と、当時としては異例の高い年齢で即位したのが、大覚寺統の後醍醐天皇である。
宋の朱子学を学んだ天皇は、政治に強い意欲を示す。天皇親政により理想の政治が行われた時代といわれた醍醐・村上天皇の治世を模範とし、天皇親政を開始した。
平安時代の天皇親政に理想を求めた天皇が、幕府に好意を抱くはずはなく、朱子学の大義名分論からも幕府への不満を持った。幕府が後醍醐天皇の皇太子を持明院統の量仁親王と定めたことも、天皇の行動に影響を与えた。自分の息子を次の天皇にするには、幕府を滅ぼすしかない。こうして天皇は倒幕に踏み出す。
1331(元弘元)年、倒幕計画が密告され、天皇は笠置山で捕らえられ隠岐に流された(元弘の変)。しかしこれを機に楠木正成、足利高氏(尊氏)ら幕府に不満を持つ武士の挙兵が相次ぎ、1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡する。
京都に戻った後醍醐は「朕が新儀は未来の先例たるべし」と意気込み、天皇親政による新しい政治にあらためて着手する。これが建武の新政である。
天皇は形骸化していた官衙の復元を図った。中務省以下の八省の卿(長官)として大臣級の上級貴族が任命され、天皇の指揮下に再編成された。新政府の中央機関としては、国政の重要事項の議決を任とする記録所、所領問題を処理する雑訴決断所、倒幕に功のあった武士の恩賞を扱う恩賞方などが置かれた。
混乱と不安をもたらす
ところが、後醍醐の新しい政治は社会に混乱と不満をもたらした。
混乱の最大の原因は、土地所有権の扱いである。後醍醐は倒幕時の内乱(元弘の乱)で奪われた所領を旧主に返し、今後の土地所有権の変更はその都度、後醍醐自身の裁断を経なければならないという旧領回復令を発布した。続いて朝敵所領没収令、寺院没収令、鎌倉幕府の裁判の誤りを正す誤判再審令などを次々に発布した。
後醍醐はこれらの法令で、訴訟・申請の裁断は綸旨(天皇の指令書)によるべきことを強調した。律令制での最高機関である太政官はもちろん、後三条天皇以来、天皇親政の拠点となった記録所の文書すら用いずに、綸旨を絶対・万能の効力を持つ文書としたことは、新政の本質が天皇専制であることを示すものだった。
後醍醐の綸旨絶対の主張は異常なまでに強固だった。歴史学者の佐藤進一氏によれば、従来は綸旨を与えられる資格のなかったような下級の武士にまで綸旨を交付したり、本来蔵人の書くべき綸旨を、蔵人の署名まで含めて全文自分で書いたりするほどだったという。
けれども後醍醐の熱意にもかかわらず、結果は惨憺たるものだった。たとえば、旧領回復令は法文のうえでは元弘の乱で失った旧領だけを対象としていたが、実際にははるか昔に失った旧領にまで適用されて、大変な混乱を引き起こした。
また、それまで武家社会で認められていた、土地の実効支配(当知行)が20年以上になれば理非を論ぜずその支配を認めるという慣行が無効とされた結果、土地の所有権は一気に流動化した。いったん無効とされた土地の所有権、所領の安堵や訴訟の決済にも、すべて天皇の綸旨が必要とされた。
土地の保障は綸旨によるという布告を聞いた人々は、大挙して京都に上り、綸旨の発給を求めた。なかには戦乱のどさくさにかこつけて、領地を不当に入手しようとする者もいた。一つの土地を旧領と称して返還の訴えを起こす者が三人も現れ、よく調べてみると、その中の二人は架空の人物だった。もし訴訟がうまく成功して旧領を還付されたら、その三分の一を譲渡するといった代理訴訟も横行し、全国的な旧領回復ブームが巻き起こった。
後醍醐個人がいくら有能だったとしても、これほど大量の訴訟を処理するのは無理だ。やがて「当知行」の安堵は諸国の国司に任せることなどを定めた、諸国平均安堵法が布達される。
綸旨絶対主義の失敗と並んで、建武の新政の信頼を失わせたのは、内奏による政治の歪みである。内奏とは、近臣や後宮を通じて天皇に奏上し、ことを運ぶことをいう。
南北朝時代の歴史書『梅松論』によれば、記録所や雑訴決断所で訴訟を処理しても、近臣の「内奏」によって朝令暮改がはなはだしかったという。軍記物語の『太平記』には、后妃や内奏の内奏で恩賞方の判定が次々と覆されたため、頭人(長官)が相次いで辞職した話が出てくる。
こういう状況では、コネとカネがなければ裁判で有利な判決は期待しにくい。
当時のある東国の武士は手紙で「旧領回復の訴えを奉行人に提出することはたやすいけれど、成功することはなかなか困難ゆえ、よいつてを求めて足利殿(尊氏)へ訴状を上げて、天子の上聞に達するようにしたい」と述べている。寺領回復の任務を帯びて上京していた武蔵国称名寺の僧の手紙にも「西国方面の寺々は莫大の費用を使って、寺領安堵に成功したけれど、当時は費用がないため、安堵がかなわなかった」とある。(佐藤進一『南北朝の動乱』)
当時、後醍醐天皇の政庁に近い京都二条河原に貼り出された落書では、「此比(このごろ)都にハヤル物」として「謀綸旨(にせりんじ)」をあげ、不正によって偽の綸旨までが交付される世相を皮肉っている。
所領政策の失敗や恩賞の不公平は武士層の動揺と反発を招き、ついに足利尊氏の離反を招く。1936(建武2)年、敗れた後醍醐は京都を脱出して吉野にこもり、南北朝時代に突入する。建武の新政はわずか3年ほどしか続かなかった。
文治政治の夢破れる
後醍醐による独裁政治はなぜ、短期間で終わってしまったのだろう。中国との比較がヒントになる。
後醍醐は日本の天皇親政のほか、中国の宋・元朝の政治制度を手本にしたとされる。宋・元はいずれも皇帝による独裁的な支配体制であり、官僚を中心とした文治政治だった。元はモンゴル系の軍事政権でありながら、中国の伝統である官僚制による中央集権体制を採用していた。後醍醐はその影響を受け、天皇による独裁体制を目指した。
しかし、日本と中国では大きく異なる点があった。中国では唐が滅亡したことで、貴族層が消滅したとされる。また五代十国時代を通して地方に強大な権力を打ち立てた武人の節度使も消えていった。宋代の権力基盤となったのは士大夫と呼ばれる人々だった。士大夫は新興の地主層であり、文人官僚を送り出す母体となった。武人は地主と分離して政府の給与で賄われる軍隊に組織されていた。
これに対し、日本は鎌倉時代、京都に公家政権の朝廷、鎌倉に武家の鎌倉幕府という二つの政権が存在した。日本の武士は地主であり領主であって、地方に基盤を持ち、中央集権である朝廷に対して強い抵抗力をもっていた。権力の中軸を担う官僚層はほとんど存在しなかった。
ここに建武新政の無理があった。公家と武家の対立意識が強いのにもかかわらず、強引に「公武一統」を進め、官僚制による中央集権国家をつくろうとしたため、失敗したのである。公家と武家との権力の分散が天皇の独裁を防いだとも言える。
ただし、それは良いことばかりではなかった。
後醍醐の挫折以降、日本では武人による政権が明治維新まで続くことになる。見方によっては、軍国主義が跋扈したアジア・太平洋戦争まで、武人が権力を掌握していたとも言える。
戦前の皇国史観によって、建武新政は王政復古をなさしめた歴史上最も価値ある政権に位置づけられ、後醍醐は最も徳のある聖帝に祭り上げられた。それによって、近代天皇制国家の国民支配と東アジア侵略のイデオロギー的な道具とされてしまう。
この事態は、歴史学者の伊藤喜良氏が指摘するとおり、武人政権を嫌い、中国の文化や制度の導入を夢見た後醍醐天皇が、まったく予想もしない歴史の皮肉だったろう。
<参考文献>
- 佐藤進一『南北朝の動乱』(日本の歴史 9)中公文庫
- 兵藤裕己『後醍醐天皇』岩波新書
- 森茂暁『建武政権』講談社学術文庫
- 伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』新日本新書
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