ドイツ出身の作家レマルクは、戦争を道徳の名で飾り立てる嘘を憎んだ。今年が開戦百周年にあたる第一次世界大戦への出征経験に基づく小説『西部戦線異状なし』(秦豊吉訳、新潮文庫)で、そうした欺瞞を糾弾している。
主人公ボイメルを含む学生たちに出征を志願させたのは、カントレックという教師である。この教師は体操の時間に学生らに長々と講演を聴かせた後、クラスを引率して徴兵区司令官の下へ連れて行き、「君達もいっしょに出るだろうな」と促す。ベームという肥った学生だけは出る意志がないと躊躇するが、しまいには口説き落とされる。
「なにもこの男ばかりではない、もっと多くの男がベームと同じ考えだったろうが、誰も思いきって、自分だけ除け者になることはできなかった」とボイメルは振り返る。皮肉なことに、ベームは仲間のなかで最初に戦死する。
それでも初めは若い兵士たちも、戦争の大義を説く大人たちの言葉を信用していた。けれども「最初の激烈な砲火をくぐると、たちまち僕らはいかに誤っているかに気がついた」とボイメルは語る。「その砲火の下に、僕らの教えてもらった世界観は、見事に崩れてしまったのである」。若い兵士らは戦場に踏みとどまるが、安全地帯で戦争の正義を説く口舌の徒への不信感は拭いがたいものとなる。
たとえばある兵士がボイメルに問いかける。「おれたちはここにこうしているだろう、おれたちの国を護ろうってんで。ところがあっちじゃあ、またフランス人が、自分たちの国を護ろうってやってるんだ。一たいどっちが正しいんだ」。ボイメルが「どっちもだろう」と答えると、兵士は反問する。「だがドイツの豪え学者だの坊さんだの新聞だのの言ってるところじゃ、おれたちばかりが正しいんだっていうじゃねえか。〔略〕だがフランスの豪え学者だの牧師だの新聞なんかだって、やっぱり自分たちばっかりが正しいんだって、頑張ってるだろう。さあそこはどうしてくれる」
真の自衛であれば、人々は政府から強制されるまでもなく、戦おうとするだろう。しかし何のためだかわからない戦争にためらわず参加しようとする者はいない。政治家や言論人が戦争は道徳的な行為であると声高に叫ぶのは、そのようなときである。史上初の世界大戦から一世紀を経た今も、この欺瞞はなくなる気配がない。
(2014年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
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1 件のコメント:
今日も素晴らしい記事ありがとうございました。自分も書きたい。戦争は人々の強欲と怒りで始まり、憎しみ恐怖と悲しみだけを産む。歴史を振り返れば、戦争の結果は大き過ぎる損失でしかなく、話し合いで解決した方が合理的だったと推測できる。先に武力で侵略した方が負ける確率が高いと思う。遠い宇宙から地球を見れば、人間も細菌のように小さい。人間の戦争も、小さな細菌達の狭い培養地での食料と領土の争いにしか見えない。細菌達の戦争を見ても自分は小さな哀れみしか感じない。戦争は愚かであるが原始的な問題の解決方法であることは確かだ。「殺すな」という道徳が守られるのは、リーダー(警察)がいて処罰(仲間を殺すものは仲間から殺される)されるからである。それでも、相手の食料を奪わなければ生き残れないとき、生存本能が道徳を上回って盗んで食べてしまうだろう。もし隣人が食料を渡さねば、殺して取り上げるしかない。そして友人だった隣人を敵と呼ぶのだ。国と国の戦争も同じ理由で起きる。最低限の生存本能が満たされると初めて最低限の道徳は守られる。 衣食足りて礼節を知るということである。戦争と思想・主義は直接関係がない。自由主義も資本主義も共産主義も全体主義も関係なく、ご飯が足りなければ戦争は始まる。自分は戦争は怖いから避けたい。だから社会を豊かにして誰でもが食べられるようにしなければならない。皆が豊かになる最も良い方法は、公正で自由な社会にすることだ。こればかりは、歴史を見れば明々白々だ。
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