田母神によれば「何が犯罪であるか決めるのは国家」であり、したがって「戦争で人を殺すことは、国家の行為だから犯罪ではない」という。なるほど犯罪を法律的な意味に限れば、人を殺しても、国家が存在しなければ犯罪と認定されることはないし、国家が犯罪でないと言えば犯罪にならない。馬鹿馬鹿しいほど当然である。だがそのような無意味なことをわざわざ尋ねる者はいない。
答えるべきは、道徳的な「犯罪」についてである。日常では、何の危害も加えない人間をむごたらしく殺す行為を私たちは道徳的におぞましいと感じる。それが戦争になると不問に付されるのは奇妙だというのは、誰もが自然に抱く疑問であろう。だが田母神は意識してか無意識にか、その問いから逃げている。
道徳と政治を峻別せよとは半面の真理だが、道徳的問いを忘れて政治を正しく論じることはできない。国際法の先駆者といわれるヴィトリアは中世スペインの神学者であり、キリスト教道徳にもとづいて正しい戦争とは何かを論じた。ヴィトリアは「君主は間違う可能性があるから、君主が正しいと思うだけでは正しい戦争とは言えない」「国民はその戦争が不当だと良心的に思うならば、戦争に参加すべきではない」といった主張とともに、「罪のない人々を意識的に殺すことは決して許されない」と断じた(ヨンパルト『自然法と国際法』)。
ヴィトリアの思想は近代国際法に受け継がれ、今でも西洋の心ある軍人はそれを気にかけずにいられない。日本への原爆投下について、米海軍大将リーヒは「あれを最初に使うことによって、われわれは暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない」と嘆き、連合軍最高司令官アイゼンハワーは「この新型兵器について言われているような恐ろしく破壊的なものをアメリカが最初に戦争にもちこむことなど見たくない」と漏らした(アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕』上巻)。
もちろんリーヒもアイゼンハワーも、政府に仕える軍人としては原爆投下を承認せざるを得なかったが、個人としては道徳的な問いから逃げなかったのである。
田母神は日本の核武装を説くが、核攻撃とは「女子供」を無差別に殺傷することであり、これ以上の道徳的罪悪はないであろう。しかし田母神は「実際に使うとか使わないとかいう議論ではな」いなどと言葉を濁し、ここでも答えるべき問いから逃げている。道徳と向き合わない「人間不在」の国防論とは、いい加減に訣別すべきである。
(2012年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
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