和平がもたらす繁栄
外交交渉で和平のために妥協すると、強硬派から「弱腰」と批判され、「売国奴」と貶められる場合すらある。だが平和は社会の繁栄にとって、民族のプライドなどよりはるかに望ましい選択肢である。宋の三百余年の歴史はそれを物語る。
北方の契丹は宋との交渉で領土の割譲を要求。宋はこの要求を退け、銀と絹を毎年贈る条件で和平を結ぶ(澶淵の盟)。宋は契丹を臣服させることができず、中華的自尊心を損なったが、大局からみれば利益をもたらしたと本書は評価する(p.125)。
約四十年後、契丹は西夏の宋侵入に乗じ、再び領土割譲を求める。宋は贈る銀絹を増やすことで和平を保つ。弱腰との非難もあったが、西夏との両面作戦がとうてい不可能であったことを思えば、相当に評価すべきであろうと本書は述べる(p.127)。
金の侵入で北宋は滅び(靖康の変)、江南に南宋が再建される。宰相秦檜は金に臣従する形で和平を結び、屈辱的と非難する者を弾圧した。後世、売国奴とも貶められたが、秦檜の死後も和平は維持され、南宋の文化・経済が著しく発展する基盤となる(p.360)。
北宋は北方に強敵を控えて絶えずその重圧に苦しめられたとはいえ、国内はおおむね平和が維持され、首都開封は商業で栄えた。南宋の経済力発展は北宋を超える。首都臨安の繁栄は開封をしのぎ、人口百五十万を超える大都市に成長する(p.444)。
平和繁栄の社会を基盤として開花した宋の文化は、伝統の貴族的文化に対し、新時代を担う官僚と士人層、および商人庶民層の文化だった。東洋史学者の宮崎市定は、その姿を西洋のルネサンスに対比したという(p.445)。
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