2024-08-11

植民地支配の教訓

日清・日露の戦争をきっかけに、日本は台湾や朝鮮半島で植民地支配に乗り出していく。明治政府が植民地政策を推し進めた背景には、ロシアの南下政策に備えるという国家戦略があった。しかし今から振り返ると、植民地支配は自由貿易に比べ、政治的・経済的に無理のある政策だった。

日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国 (NHK出版新書)

まず台湾から見てみよう。日清戦争は1895(明治28)年4月の下関条約で講和が成立し、形式的にはその時点で終結した。しかし日本軍による台湾征服戦争は、それから始まった。

下関条約によって日本に割譲されることになった台湾では、割譲反対派により「台湾民主国」の建国が宣言され、日本の支配に抵抗する動きがあった。5月末に台湾北端部に上陸した日本軍は、各地で武装した民衆によるゲリラ戦に悩まされ、南部の台南を占領したのは10月下旬のことだった。

この5カ月間の侵攻・鎮圧作戦により、台湾の軍民約1万4000人が犠牲になったとされる。日本側も戦死527人、戦病死3971人を出した。歴史学者の山田朗氏によれば、これは台湾征服戦争を含めた日清戦争全体の日本軍の戦死・戦病死者1万3458人の実に33%を占め、台湾島民の抵抗がいかに激しかったかを示している(『日本近現代史を読む』)。

日本は1895年8月に台湾総督府を設置し、翌96年3月まで軍政(占領軍による直接支配)を敷いた。4月から民政に移行し、恒常的な植民地支配を始める。民政移行後もゲリラ鎮圧作戦は間断なく続けられた。児玉源太郎総督の統治時代に民政長官を務めた後藤新平の報告によれば、1898年から1902年までの5年間だけで「叛徒」1万950人を処刑もしくは殺害したという(海野福寿『日清・日露戦争』)。

産業政策では農地改革を実施したほか、製糖業を中心に米・樟脳・木材などの産業振興策をとった(樟脳はクスノキから樹液を精製した薬品で、この当時は火薬の原料として使用された)。1897年には植民地における最初の特殊銀行である台湾銀行を設置し、日本本国からの資本導入の窓口とする。ただし、これらの産業政策の狙いは台湾の近代化というよりも、台湾統治の財政基盤を確保することにあった。

日本は朝鮮半島でも植民地化を進めた。韓国(当時朝鮮は「大韓帝国」と改称し、韓国と呼ばれていた)に対し、日露戦争開戦中の1904(明治37)年締結の第1次日韓協約によって、財政・外交に関する日本人顧問を韓国政府が任用することを認めさせた。続いて日露戦争終結直後の1905年、第2次日韓協約を結ばせて韓国を保護国とし、外交権を奪い、漢城(ソウル)に統監府を置き、伊藤博文が初代の統監となる。さらに1907年には、韓国皇帝(高宗)を退位させ、第3次日韓協約を結んで軍隊を解散させ、以降、司法・警察権も掌握するに至る。

このように韓国に対する支配力を強めたうえで、1910年、韓国併合条約を成立させ、韓国を朝鮮と改めて植民地とし、漢城を京城に改め、朝鮮総督府を置いて統治した。韓国併合である。

日本の進出・支配に対しては日清戦争中の1894年から農民主体の義兵闘争が始まり、日露戦争中にも朝鮮半島南部を中心に義兵闘争が広まった。1907年に韓国軍隊が強制的に解散されると、旧韓国軍の将兵たちの多くが蜂起して農民義兵に合流し、反日武装反乱が各地に広がった。日本軍はこれを厳しく弾圧する。

日本は朝鮮の土地支配のために、1908年に農業拓殖事業を行う国策会社である東洋拓殖会社を設立、1910年には朝鮮の土地調査事業を本格的に開始する。日本は朝鮮を食糧(米)と工業原料(生糸・綿花)の供給地と位置づけ、農民に作付転換などを強要した。

さらに鉄道網の整備、中央銀行の設置も進める。すでに台湾では中央銀行の台湾銀行を設置し「台湾銀行券」を流通させていたが、韓国では早くから日本の第一銀行釜山支店が活動しており、第1次日韓協約によってこの第一銀行が「朝鮮銀行券」の発行業務を行っていた。1909年には韓国銀行を設置し、中央銀行券の発行業務を第一銀行から継承する。総裁も行員も建物も、すべて第一銀行から引き継いだ(原朗『日清・日露戦争をどう見るか』)。

こうした日本の植民地支配は台湾・韓国に技術やインフラを導入することで、第二次世界大戦後の経済発展の土台を築いたといわれることがある。当たっている部分はあるものの、全般には誇張されているようだ。経済アナリストのリプトン・マシューズ氏はそう指摘する。

同氏が米シンクタンク、ミーゼス研究所のウェブサイトで公表した記事によれば、台湾・韓国で日本企業は政府官僚とのつながりを利用して特権を手に入れ、コネのない地元企業は排除された。一部の地元企業は恩恵にあずかったものの、大半は民需に基づくものというより、軍事的・地政学的な需要だった。

台湾・韓国の産業成長は、アジアの他地域と比較してそれほど急速ではなかった。日本の植民地はインフラの先駆者だと思われているが、ライバルより優れているというよりも、むしろ同等だった。どの植民地でも、植民地技術者は鉄道、道路、灌漑事業などの建設に、都市住民の専門知識を活用した。たとえば、オランダのジャワ島での成果は、日本の台湾での成果と似ている。オランダはジャワ島に大規模な灌漑網を建設し、それは現在も残っている。

健康面でも日本の植民地はアジアの日本以外の植民地と大差はなく、台湾の乳児死亡率は英領マラヤより少し低い程度だった。教育面では、台湾・韓国には学校が建設されたが、エリート主義であり、ほぼすべての台湾人が高等教育やホワイトカラーの仕事に就くことを拒否された。日本は韓国の初等教育に投資したものの、敵対的な文化政策をとり、韓国語の使用を制限し、韓国固有の教育制度を崩壊させた。1944年には韓国で学校教育を受けた人は14%未満、初等教育以上の教育を受けた人は2%となった。

日本の植民地政策は先進的に見えるかもしれないが、日本以外の植民地と比較すると、むしろ平凡だった。「韓国・台湾が戦後に遂げた目覚ましい発展は、植民地時代の後に加速した経済政策、起業家精神、人的資本への投資によるものだと推論できる」とマシューズ氏は指摘する。

<参考文献>
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社
  • 歴史教育者協議会編『日本の戦争ハンドブック』青木書店
  • 海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史)集英社
  • 原朗『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』NHK出版新書
  • Was Japanese Colonialism the Engine of Later Prosperity for Korea and Taiwan? Probably Not | Mises Wire [LINK]

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