2021-04-30

価値は心が決める⑤幸せは足し算できない


主観価値説によれば、商品の価値は人々がどれだけ大きな効用(満足度)を得るかによって決まる。今、「大きな」と書いたけれども、効用は人の主観に基づく心理的なものだから、物理的な大きさと違って、ある効用が他の効用よりどれだけ大きいかはわからない。わかるのは、どちらが大きいかだけだ。

数量を示す数字を基数といい、順序を示す数字を序数という。効用の大きさは、基数で示すことはできない。序数でしか示せない。

たとえば、Aさんは小説のジャンルで一番好きなのが推理小説、二番目がSF小説、三番目が歴史小説だ、と言うことはできる。けれども、推理小説による満足がSF小説の何倍か、SF小説による満足が歴史小説の何倍かは、他人にはもちろん、本人にもわからない。もし誰かが「歴史小説より推理小説のほうが百倍好き!」と言ったとしても、正確に計算して言ったわけではない。

また、効用は数量で表せないから、足し合わせることはできない。Aさん、Bさん、Cさんで構成するXというグループ全体の満足度がどれだけか、構成メンバーの満足度を足し合わせて計算することはできない。Pさん、Qさん、Rさんで構成するYというグループとで、どちらが満足度が大きいか、比較することもできない。

世界各国の幸福度に関する調査がよく話題になる。主観的に自分が幸せだと思う人の割合を調べており、満足(幸福)は主観だという考えを取り入れている。ただし、ランキング一位のフィンランドの人たちが、五十八位の日本の人たちより幸せだと、客観的に示しているわけではない。幸せは足し算できないし、割り算して一人当たりの平均値を出すこともできないからだ。あくまで一種のお遊びと考えたほうがいい。(この項おわり)

2021-04-29

価値は心が決める④コロナ自粛で失われたもの


価値は手に入れるときばかりではない。失う場合もある。他人の故意や過失で価値が失われたとき、その大きさをどう測るかが問題になる。

たとえば、ある女性が、亡くなった夫の形見の腕時計を友人に貸したところ、いつまでたっても返してくれない。催促したところ、ひどいことに形見の品と知りつつ転売してしまったという。時計は高級品で、時価で五十万円程度。この分は当然賠償を求めることができる。けれどもそれ以外に、額は限られるものの、形見の品を転売されたことによる精神的損害の賠償も求めることができる。いわゆる慰謝料だ。

形見の時計を転売されたことによる損害、つまり失われた価値には、単純な経済的価値だけでなく、精神的な価値も含まれる。少なくとも個人と個人の争いについては、法はそのように認めているわけだ。

それでは、政府と個人の争いではどうだろう。政府のダム建設で山奥の村が水没し、離村・転業を余儀なくされた場合、私有財産制限の条件を定める憲法二十九条三項に基づき、水没した家屋や田畑の市場価値のほか、移転料や営業上の損失などの付帯的損失は原則補償の対象となる。だが、愛着のある土地を失う悲しみや喪失感といった精神的損害は、補償の対象にならない。

政治家は口を開けば、日本人は金銭以外の価値を大切にしなくなったなどと嘆いてみせる。けれども政治のせいで精神的な価値が失われても、補償しようとはしない。二枚舌もいいところだ。もっとも補償するにしても、税金を使うだけだが。

コロナ騒動の中、大臣や知事は効果の疑わしい自粛要請を繰り返し、国民の経済活動に打撃を与えた。そこでは金銭的な価値だけではなく、仕事の喜びや生きがいといった精神的な価値が奪われた。政治家たちはもちろん、何の責任も取らないだろう。(この項つづく)

2021-04-28

価値は心が決める③エッセンシャルワーカーの賃金はなぜ安い


水とダイヤモンドの逆説は、他の経済事象にも当てはまる。たとえば、いわゆるエッセンシャルワーカーの賃金が安い理由だ。

コロナ騒動をきっかけに、医師、看護師、保育士、教師、ゴミ収集業者、コンビニエンスストアの店員、トラック運転手など生活維持に不可欠とされるエッセンシャルワーカーへの注目が高まり、医師など一部を除き、その賃金が低いとして問題視されている。

昨年ベストセラーになった『ブルシット・ジョブ』で、著者のデヴィッド・グレーバー氏は「わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである」と述べた。

具体例として、社会に不可欠な看護師やゴミ収集人、整備工、教師や港湾労働者の得る対価が少ないのに対し、必要かどうか疑わしいハゲタカファンドの経営者や法律コンサルタントの収入は高いと指摘する。

エッセンシャルワーカーの賃金が低い背景には、政府の規制など特殊な要因もある。しかし、かりに規制が撤廃されたとしても、看護師や保育士の所得がファンド経営者や法律コンサルタントより高くなるとは考えにくい。なぜだろうか。

ここで水とダイヤモンドの逆説を思い出そう。エッセンシャルワーカーの仕事は水と同じように、生命の維持に欠かせないにもかかわらず、その対価は安い。一方、ファンド経営者や法律コンサルタントの仕事はダイヤと同じように、なくても命に別状はないにもかかわらず、その対価は高い。なぜなら、エッセンシャルワーカーの数は、高収入を得る一流のファンド経営者や法律コンサルタントの数に比べ、はるかに多いからだ。

エッセンシャルワーカーが人手不足であれば、それを反映して賃金を引き上げられるよう、政府の規制をなくさなければならない。けれどもグレーバー氏のように、エッセンシャルワーカーの収入が高所得のビジネスより少ないのはおかしいと主張するのは、おかしい。(この項つづく)

2021-04-27

価値は心が決める②水とダイヤモンドの謎


商品の価値をめぐる「謎」の一つに、「水とダイヤモンドの逆説」がある。水は生きるために欠かせないのに対し、ダイヤモンドはなくても済む贅沢品だ。ところが一粒のダイヤはペットボトル一本の水よりもはるかに値段が高い。いったい、なぜなのか。

アダム・スミスら古典派経済学者は、その理由をまともに説明できなかった。苦し紛れに、価値には「使用価値」と「交換価値」の二種類あるという理屈をひねり出す。水はダイヤより使用価値が高いけれども、何かの理由で交換価値は低いという。

この誤った考えは、のちの世界に悪影響を及ぼした。「市場経済は利益を求めて高く売れるものばかりを作り、人間にとって本当に役立つものを作らない」という、いわれのない非難をもたらしたからだ。

一方、個人の心理に着目したオーストリア学派は、水とダイヤの謎を解き明かした。ある人が砂漠をさまよい、喉の渇きに苦しんでいれば、ボトル一本の水を手に入れるのと引き換えに、持っていた一粒のダイヤを手放すだろう。つまり、ダイヤよりも水の価値が高いと判断するだろう。もし水がふんだんに手に入る都会の日常なら、そんな取引はしないはずだ。

日常生活で水の値段がダイヤより安いのは、手に入る水の量がダイヤよりもはるかに多いからだ。そのため、個人にとって、ボトル一本あたりの水の価値は、一粒あたりのダイヤの価値よりはるかに小さくなる。だから水のボトルを手に入れるのと引き換えにダイヤを手放す人は、まずいない。(この項つづく)

2021-04-26

価値は心が決める①労働量とは関係なし


商品の価値はどのように決まるのだろう。よくある誤りは、その商品の生産に費やされた労働の量によって決まるという考えだ。経済学では労働価値説という。

労働価値説が間違っていることは、同じ労働時間をかけても、要領の良い人と悪い人では商品に出来不出来があり、同じ値段では買ってもらえないことから明らかだ。

たとえば、私が十年かけて大長編小説を書き上げても、まったく売れなければ、そのためにどんなに努力したとしても、経済的には価値がない。

労働価値説はアダム・スミスら古典派経済学者によって唱えられ、カール・マルクスに引き継がれた。資本主義のスミスと社会主義のマルクスでは正反対のようだが、意外にも、理論の根幹にある価値についての考え方は共通していた。

けれども最初に述べたように、労働価値説は理屈として無理がある。そのため労働価値説を前提とする古典派経済学はしだいに行き詰まった。このとき登場し、行き詰まりを打破したのが主観価値説である。

主観価値説とは、商品の価値は消費者が個人としてそれぞれ主観的に判断する効用(満足度)によって決まるという考えだ。1870年代、英国のウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、フランスのレオン・ワルラス、オーストリアのカール・メンガーによって別々に唱えられた。とくにメンガーを祖とするオーストリア学派の主張は、主観価値説の代表とされる。

主観価値説はその後の経済学発展の基礎となったが、一般の人には必ずしも十分理解されていない。価値は心が決めるという主観価値説がわかれば、経済に関する頭のもやもやがすっきり晴れる。(この項つづく)

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2021-04-25

ハリウッド誕生秘話


映画の都ハリウッドはどうして米西海岸の辺鄙な土地につくられたのか? ヒューマンプログレスの記事によると、天候や地形、安い人件費のほかに、もう一つ大きな理由があったとか。それは東海岸のニュージャージー州を拠点とする発明王エジソンから逃れることだ。

エジソンは映画製作・上映に必要な技術を、千を超す知的財産権で押さえ、正式な訴訟だけでなく、暴力団員を雇い、知財を侵すライバルを脅し、痛めつけていたという。発明王のもう一つの顔だ。西の果てのハリウッドなら東海岸のギャングはやって来ず、裁判官もエジソンに忖度しないので安心というわけ。

このエピソードは、知財が悪用される弊害を物語るとともに、それならと新天地に旅立ち、新ビジネスに取り組んだ起業家たちのたくましさを示している。

皮肉なことに、現在、巨大企業に成長したハリウッドの映画会社は、かつてのエジソンのように作品の知財をがっちり押さえ、その特権にあぐらをかいている。政治圧力によって著作権の保護期間をたびたび延長させているのは、周知の事実だ。

しかし因果はめぐる。最近はネットフリックスに代表される動画配信会社がディスラプター(破壊者)として台頭し、ハリウッドの牙城を脅かしている。今年のアカデミー賞では、配信系会社の作品が過半の部門で受賞する可能性が高いという。

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『コロナ自粛の大罪』〜コロナ禍は人災である


経済ジャーナリストのヘンリー・ハズリットは「経済学というものはたった一つの教えに還元することができ、それはたった一つの文章で表すことができる」と述べている。たった一つの教えとはこうだ。「経済学とは、政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また、一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える学問である」

ハズリットに言わせれば、経済学的に見て、新型コロナに対する政府の政策は完全に落第だろう。短期的影響ばかりを見て長期的影響を考えず、一つの集団だけを気にかけてすべての集団への影響を顧みない。ジャーナリスト鳥集徹氏が医師七人への興味深いインタビューで構成した『コロナ自粛の大罪』(宝島社新書)を読むと、それがよくわかる。

まずは新型コロナについて基本的な事実を押さえておこう。本間真二郎氏(小児科医・七合診療所所長)が述べるように、「昨年(2020年)一年間の日本での死亡者は3459人です。関連死も含めると一万人から四万人ほども亡くなるインフルエンザに比べたら多くはありません」。そのうえ、PCR検査で陽性だった人は全員コロナ死とカウントされており、「純粋にコロナで亡くなった人はもっと少ない」。

今年(2021年)の死亡者は4月22日時点で6338人(東洋経済オンラインより算出)だが、夏から秋に増加ピッチが鈍る季節性からみて、今後インフルエンザを大きく上回るとは考えにくい。

しかも死亡のリスクには人によって偏りがある。高橋泰氏(国際医療福祉大学大学院教授)の分析によれば、新型コロナは要介護者や基礎疾患のあるハイリスクの人には致死率の高いウイルスだが、ほとんどの人の身体は風邪と同程度の対応で終わっているという。

高橋氏はこう述べる。「ローリスクの人が新型コロナに感染した場合、本人やその人からうつされた人が重症化や死亡に至る危険性はきわめて低いのに、その人を重症や死亡から守る、そして次の人に感染させないという名目で、隔離的処置が行われるようになりました。それによって保健所や医療機関の負担が膨大になったことが、医療崩壊的な状況を招いた一因です」

誤った基本認識に基づくコロナ対策は、社会・経済にさまざまな副作用をもたらす。

高橋氏は「ローリスクの人たちの社会活動を制限してしまうと、当然のことながら景気が悪化し、自殺者が増えてしまいます」と指摘する。過去の傾向からみて、コロナ死から三人を守るために自殺者を八人増やすことになりかねないという。

外出自粛の副作用は孤独だ。森田洋之氏(医師・南日本ヘルスリサーチラボ代表)は「実は人間の健康に一番影響があるのは孤独だということも医学ではよく知られています。健康を害する一番の要因は、タバコでも、酒でも、肥満でもなくて、孤独や孤立感」と指摘する。

和田秀樹氏(精神科医)は、飲食店の営業自粛に注意喚起する。「夜八時までしかお店が開いていないので、家飲みが増えますが、一人で飲むと止めてくれる人がいないので、酒量が増えがちです。終電を気にする必要もないので、夜眠るまで飲むようになってしまう」

とくに高齢者への影響は大きい。長尾和宏氏(長尾クリニック院長)は「閉じこもっているから、年寄りはどんどんやせ細っていく。出歩かないから疲れないし、日光にも当たらないから、体内時計がずれて不眠にもなる。眠れないと体調も悪くなるし、認知機能も低下していく」と話す。

和田氏も「おそらく五年くらいしたら、要介護者が激増するなどの影響が出てくるのではないでしょうか」と述べ、「介護財政が保たないかもしれない」と懸念する。

ある意味で高齢者以上に深刻なのは、子供への影響だ。萬田緑平氏(緩和ケア萬田診療所院長)は「子どもまでがコロナにかからないようにと、マスクや消毒をやらされているから、かわいそうですよね。免疫機能がどんどん弱くなって、何かに感染しただけで死んでしまうかもしれない」と警告する。

前出の本間氏は「子どもたちはコロナに対して最も安全な世代ですよね。二十歳未満はまだ一人も亡くなっていません」と指摘。それなのに「自粛生活によって一番危害を被っています」と批判する。

まるで当たり前のようになったマスク着用や手の消毒にも、良くない影響がある。「マスクを着け続けると酸素の取り込みが減り、二酸化炭素濃度が高くなるから、明らかに健康にはよくありません。手の消毒にしたって、皮膚を守っている皮脂や常在菌まで排除しているわけだし、手荒れの原因にもなる」。本間氏はこう警鐘を鳴らす。

現在の焦点はワクチンだ。本間氏は、ファイザーやモデルナのワクチンは「まったく新しいタイプのワクチン」であり、「とくにmRNAワクチンやDNAワクチンなどの遺伝子ワクチンを人に使うのは初めて」と注意を喚起。「病気の重症度から考えると、未知のワクチンを、リスクを冒してまで打つ必要はない」と、国民全員に打たせる勢いの政府や専門家を批判する。

前出の長尾氏は、子宮頸がんワクチンの副反応で自己免疫性脳炎になり歩けなくなった女性たちに言及し、こう警鐘を鳴らす。「そもそも科学の基本って、疑うことなんです。医療もそうです。それなのに、今回も何の疑いもなく外国からワクチンを大量に買い込んで、医者を使って人体実験しようとしている。こんな恐ろしいことをやっているのに、誰も何も言わないんです」

なぜ、このように愚かな政策しか出てこないのだろうか。一つには、政府に助言する専門家の視野の狭さがある。本間氏は「医者の使命は1%でもその病気を防ぐことです。でも、そこばかりにフォーカスしたら、他のものには目がいかなくなります」と話す。和田氏も「感染者を減らすことを目標にしている限り、どんな市民生活の制限もいとわないことになる」と指摘する。

しかし最大の問題は、政府自身の行動様式にある。

たとえば官庁の縄張り意識だ。木村盛世氏(医師・作家・元厚生労働省医系技官)によれば、コロナ対策の中心である厚生労働省のほか、大学病院は文部科学省、自衛隊ヘリによる患者搬送は防衛省、専用病棟を国有地につくるなら国土交通省、経済対策は経済産業省と管轄が異なる。厚労省は自分たちだけでできないことは各省庁に頼まなくてはいけないのに、それをしていない点で「厚労省の罪はものすごく大きい」。

それ以上に深刻なのは、自分の誤りを決して認めようとしない政府の体質だ。本書をまとめた鳥集氏はまえがきで、「コロナに対する態度を改めるなら、今が絶好のチャンスだ」と述べ、「自分たちの体面を保つために、何の罪もない飲食店や観光業などの人たちを追い詰め、未来ある若者や子どもたちにツケを回すのは、もうやめてもらいたい」と訴える。

鳥集氏が指摘するとおり、「コロナ禍は人災である」。政府を動かす政治家や官僚、専門家のもたらした人災である。彼らは無謬の神などではなく、一般の人々と同じく、過ちを犯す人間でしかない。

冒頭で引用したハズリットは、とかく人間というものは「政策の目先の効果あるいは特定集団にもたらされる効果だけにとらわれやすい」とも述べている。感染の押さえ込みという目先の効果だけにとらわれた緊急事態宣言は、その典型だろう。政府が自分たちで誤りを正さないのなら、国民がノーを突き付けるしかない。

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2021-04-24

『愛の不時着』〜闇市という希望


三度目の緊急事態宣言により、東京、大阪、京都、兵庫の四都府県では酒類やカラオケ設備を提供する飲食店に休業要請し、それ以外の飲食店には午後8時までの営業時間短縮を求めるという。協力金は出るとはいえ、それだけではとても家賃や人件費をカバーできない店も少なくないだろう。

以前からコロナ対策と称し、各地で飲食店の時短営業や酒類提供の制限が広がっていた。そうしたなか、飲食店の闇営業がひそかに人気を集めているらしい。マネーポストの記事によると、都内の飲み屋で、8時を過ぎて店をのぞいたところ、奥の従業員控室に通され、店員のふりをして酒や食事を楽しんだという。なるほど、その手があったか。

闇営業というと、コロナ騒動に伴う巣ごもり需要もあって、ネットフリックスの配信で視聴者数を伸ばした韓国ドラマ『愛の不時着』が思い浮かぶ。

舞台のひとつとなる北朝鮮では、市場の店先に並べている品物とは別に、「南の町」から届いた化粧品やシャンプー、おしゃれな下着などを隠していて、こっそり販売する。南の町とは、政治的理由から貿易を禁じられている制限されている韓国のことだ。ウェディングドレスを闇で売る店も登場する。

列車が停電のため立ち往生すると、飲食物などの商品を背負った人々が一斉に駆け寄り、乗客に売って回る。あれも一種の闇市だろう。主人公の北朝鮮の軍人ジョンヒョクは毛布を買い求め、韓国から迷い込んだ財閥令嬢セリに優しくかけてやる。闇営業がなければ、厳しい寒さで凍えていただろう。

『愛の不時着』はフィクションだが、実際に北朝鮮では闇市が人々の命や暮らしを支えている。国内総生産(GDP)の推計からは経済の停滞が続いているにもかかわらず、以前ほど多数の餓死者が伝えられないのは、国中に広がる闇市で食べ物が手に入るからだといわれる。

日本に戻ろう。コロナ下の飲食店の闇営業はけしからんと怒る人がいる。でも、なぜいけないのか。

危険だから? コロナによる死亡者の大半は高齢者だ。かりに居酒屋で若者や働き盛りの人が感染しても、彼ら自身の命の危険はまずないし、家族など身近に高齢者がいなければ、感染させる心配もない。

国が禁止しているから? たいていの人は国のルールを破ったりせず、心静かに過ごしたいと願う。でも、ルールに従うばかりでは自分や家族の暮らしを守れないときもある。だから北朝鮮の人々は国の禁じる闇市で物を買う。

北朝鮮の人々に、闇市に行くなと言う日本人はいないだろう。もしそうなら、なぜ居酒屋の闇営業やその客を責めるのか。居酒屋に行かなくても死ぬわけじゃないから? 北朝鮮でも化粧品やシャンプーが買えないからといって、死ぬわけじゃない。人々が闇市に行くのは、人間らしい生活がしたいからだ。

前出の記事で、飲食店の闇営業を利用した女性会社員は「仕事柄、打ち合わせが20時を過ぎることは多いので、“闇営業”だろうがなんだろうが、開いていてくれてありがたいです」と語る。

闇営業や闇市は、人間が人間らしい生活を営むための希望の灯だ。理不尽な政府や自粛警察に負けず、寒い夜の原野に燃えるたき火のように、人々にぬくもりを届けてほしい。

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2021-04-23

マネーの起源⑤お金の価値は市場が生む


お金に価値があるのは税金のおかげだというMMT理論では、説明のできない現象がある。米ドルへの国際的な需要だ。

現代の世界経済で、国際取引の大半は米ドルで決済されている。しかし、取引を行う企業や個人の多くは、米ドルで納税するわけではない。米国以外の企業や個人はそれぞれ自国通貨で納税するだろう。それにもかかわらず米ドルが国際取引で多用されている事実は、お金の価値は納税義務から生まれるというMMT理論の矛盾を示す

貨幣の価値を基礎づけているのは何かと掘って掘って掘り進むと、国家権力が究極的に貨幣の価値を保証しているという認識に至った——。中野剛志氏はMMTの貨幣理論をこう称える。国家を市場経済より優位に置く国家主義者には好都合な理論だろう。しかし、せいぜい社会主義経済にしか通用しない。社会主義は徹底した国家主義の一形態だから、当然ではある。

お金に価値があるのはなぜか。さまざまな商品やサービスを購入できるからだ。言い換えれば、お金に購買力があるからだ。もし購入できる商品やサービスがなければ、お金に価値はない。つまりお金に価値をもたらすのは、商品やサービスを豊かに生み出す市場経済である。自分では何も生まない国家権力ではない。

MMTは現代貨幣理論というその名前にもかかわらず、貨幣の本質を説明できない。看板に偽りありもいいところだ。権力に都合の良い、怪しげな理論を吹聴して回る学者や評論家にはご用心。(この項おわり)

2021-04-22

マネーの起源④お金の価値は税金のおかげ?


お金は市場の交換から生まれたのではなく、国家が生んだというMMTの貨幣理論は、社会主義のお金の仕組みには当てはまる。しかし、世界の主流である市場経済のお金の仕組みを説明することはできない。

MMT論者は、お金は国家が定めるから通用するという貨幣国制説をアレンジし、お金が価値を持つのは、納税手段として需要があるからだと主張する。中野剛志氏の言葉によれば、「人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるから」だという。

私たちがお金という便利なものを使えるのは、政府が税金をかけてくれるからというわけだ。もしそれが本当なら、毎朝、国税庁の方角に向かって感謝の祈りくらい捧げなければならないだろう。

けれども、考えるとおかしい。もしMMT論者が正しければ、税金の軽い国ほどお金の需要は減り、その価値は下がる。つまりインフレになるはずだ。中野氏自身、もし無税国家にしたら、お金は価値を失い、ハイパーインフレになると話す。

だが歴史上、事実上の無税国家や税金のきわめて軽い国は存在したが、いずれもハイパーインフレにはなっていない。それどころか大いに繁栄している。8〜13世紀のイスラム黄金時代、17世紀のオランダ黄金時代、ビクトリア朝時代の英国、19世紀後半「金ぴか時代」の米国などだ。

お金の価値を税金に求めるMMT理論の矛盾は、これだけではない。(この項つづく)

2021-04-21

マネーの起源③社会主義の貨幣理論


さて、現代貨幣理論(MMT)を支持する中野剛志氏は、お金が物々交換から生まれたという貨幣商品説を否定し、市場における交換が存在する前から、貨幣は存在していたと主張する。その例として挙げるのは、古代のメソポタミアやエジプトである。

メソポタミアでは、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収するとともに、財を再分配していた。その際、臣下や従属民との間の債権債務を計算したり、簿記として記録したりする計算単位として貨幣という尺度を使っていた。

市場経済が発達した現代の感覚からすると、これを貨幣と呼ぶには違和感がある。けれども、このような意味の貨幣は、近代にも実例がある。かつてのソ連や東欧の社会主義諸国だ。

これら社会主義諸国では、労働者に対し給与など各種の支払いを行うために貨幣を発行する一方で、労働者やその家族が国営店舗で買い物をしたり、国営アパートの家賃を払ったりする際に貨幣を回収した。従属民との債権債務を計算するために貨幣を使ったというメソポタミアそっくりだ。

古代メソポタミアエジプトも、市場経済が存在しなかったのであれば、一種の社会主義経済だ。つまりMMTの貨幣理論は、社会主義経済にならよく当てはまる。(この項つづく)

2021-04-20

マネーの起源②物々交換説は誤りか


まず、貨幣商品説に対するMMT側の批判をみてみる。中野剛志氏は、貨幣商品説のポイントを「みんながおカネがおカネだと思っているから、みんながおカネをおカネだと思って使っている」とまとめ、こう述べる

貨幣の価値は「みんなが貨幣としての価値があると信じ込んでいる」という極めて頼りない大衆心理によって担保されているということになります。そして、もし人々がいっせいに貨幣の価値を疑い始めてしまったら、貨幣はその価値を一瞬にして失ってしまうわけです。

そのうえで中野氏は「はっきり言って、苦し紛れの説明です」と切り捨てる。

しかしブランド品や美術品が端的に示すように、あるものの価値を決定するのは、結局のところ「極めて頼りない大衆心理」である。それは貨幣も変わらない。人々が一斉に貨幣の価値を疑い始め、その価値が一瞬にして失われる事実は、ハイパーインフレの歴史が示している。

中野氏によれば、貨幣の起源を研究した歴史学者や人類学者、社会学者たちも、今日に至るまで誰も、「物々交換から貨幣が生まれた」という証拠資料を発見することができなかったという。おそらくその学者たちは、ご苦労にも、わざわざ証拠の見つかりにくい古代を調査したのだろう。

大昔のことを調べなくても、貨幣が物々交換から生まれた事例はすぐ見つかる。第二次世界大戦中の捕虜収容所で、配給品の物々交換を通じ、タバコが貨幣の役割を果たすようになったエピソードは有名だ。最近、米国の刑務所では即席ラーメンが支払いの手段として使われている。

お金が市場での物々交換から生まれたことを否定するMMT論者は、遠い昔の話などでなく、身近な事象に目を向けたほうがいい。お金は自然発生的に生まれるのだ。(この項つづく)

2021-04-19

マネーの起源①MMTの奇妙な理論


お金(貨幣)がお金として通用するのは、そのお金がモノとしての商品価値をもっているからである——。お金の起源について、標準的な経済学ではこのように教える。貨幣商品説と呼ばれる。

この貨幣商品説に対立する説に、貨幣法制説がある。お金は権力が法律や命令でお金として定めたから流通するという。貨幣法制説が間違っていることは、民間で発行される仮想通貨の存在や、古代日本で朝廷によって発行された皇朝十二銭が失敗した事実などから明らかだ。

ところが最近話題の現代貨幣理論(MMT)では、この間違った貨幣法制説に固執し、独自のアレンジを加えたうえで、正しいと言い張る。独自のアレンジとは、お金がお金として価値を持つのは、それによって税金が払えるからという説だ。

MMTを支持する評論家の中野剛志氏は、ダイヤモンド・オンラインの記事でこう述べる

要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるから、というのがMMTの洞察です。貨幣の価値を基礎づけているのは何かというのを掘って掘って掘り進むと、「国家権力」が究極的に貨幣の価値を保証しているという認識に至ったのです。

けれども、マネーの起源に関するMMTのこの説は、その土台となる貨幣法制説と同じく、奇妙で間違っている。以下、検証してみよう。(この項つづく)

2021-04-16

『コロナパンデミックは、本当か?』〜狂気の計画


ドイツの感染症学者バクディとライス夫妻の共著『コロナパンデミックは、本当か?』は、世界保健機関(WHO)や各国政府、大手メディアの発するコロナ情報がいかに歪み、誤解を招くものかを丹念に述べる。

たとえば、感染を発症と同一視し、PCR検査の増加に伴う感染者数の急増を大きな脅威であるかのように伝えたこと。また、死亡者のうち、コロナウイルスに感染していたと確認された人全員を、たとえ癌で死亡した患者であっても、コロナによる犠牲者として公式記録したことなどだ。

注目したいのは、恐怖心を煽った背後に、政府の明確な意図があったことを明らかにしている点だ。機密扱いが解かれたドイツの政府文書によれば、同国のコロナ対策会議では、実際の死者数を発表しても「たいしたことがないという印象を与える」だけなので、数としては大きな感染者数を意図的にアナウンスしたという。

それ以外に、具体的な手法として①コロナによる死をゆっくりと溺れ死ぬイメージで詳細に記述する②子供たちが死のウイルスをまき散らし親を殺す危険な感染源だと人々に告げる③正式に証明されていなくても後遺症に関する注意喚起を拡散する——が挙げられていた。

著者らはこれを「狂気の計画」と呼ぶ。まさにそのとおりだろう。

ナチスに追われた哲学者ハンナ・アレントは、本書に引用されたように、「国民に不安と恐怖の念を抱かせる者は、彼らをどのようにでも操ることができる」と喝破した。政府は自分たちが正しいと考える目的のためなら、いつの時代も手段を選ばない。

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2021-04-15

不要不急の存在


コロナ騒動が始まって以来、「不要不急」という言葉を耳にタコができるくらい聞かされた。最近では、政府が東京、京都、沖縄への「まん延防止等重点措置」の適用を決め、大型連休の期間中も含め、都道府県をまたぐ不要不急の移動を極力控えるよう促す考えだという。

政府がそこまで不要不急の行動をなくしたいのなら、まっさきになくせばいいものがある。政府自身だ。

事実上の外出規制で職場や学校に行けない人々が頼りにしたオンラインの会議ツールは、政府が作ったものではない。米ズーム社など民間企業のサービスだ。マスクに感染予防の効果がどれほどあるかは別として、人々の需要に応じて製造・販売したのは政府ではない。日本や中国の企業だ。ワクチンは副作用のリスクも懸念されるが、いずれにせよ作ったのは政府ではなく、製薬会社だ。

政府がやったことといえば、補助金で企業を支援したり、マスクやワクチンを買い上げたりしただけ。これらのお金は政府のものではない。人々の税金だ。政府をわざわざ通さず、人々が直接企業に払えば済む。

マスクは政府が補助金を出したりせず、個々の消費者に購入を委ねれば、作りすぎて売れ残り、税金を無駄にするようなことはなかっただろう。ワクチンも国が買い上げるのではなく、個人に選択を任せれば、より安全で安価な製品が残っていくだろう。

衆議院の解散時期が注目されているが、いつもの解散ではなく、文字どおり、二度と集まらない解散でいい。政府ほど不要な存在はないのだから。

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2021-04-14

隷従への道


経済学者ハイエクは著書『隷従への道』の第十章で、全体主義者が支持者を増やす手口について述べている。それは「従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない人を根こそぎ支持者にするというやり方」である。

ハイエクによれば「こういう人たちは、耳元で何度も大声でがなり立てられれば、どんな価値観も受け入れてしまう」。こうして「ものごとを深く考えようとせずあっさり他人に同調する人」や「すぐに感情が昂(たかぶ)る人たち」が加わって、全体主義の支持者はあっという間に膨らむ。

新型コロナウイルス感染症をペストに匹敵する死病であるかのように言い募り、大衆を洗脳しようとする現在の政府を予見したかのような言葉だ。多くの人は「従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない」という事実も、残念ながら、今回のコロナ騒動で思い知らされた。

ハイエクはさらに、全体主義の指導者が大衆の結束力を強める狡猾な手口について述べる。「敵」に対する憎悪を煽ることだ。

ナチスドイツやロシア革命の時代、敵はユダヤ人や富農だったが、今はコロナウイルスが敵とされている。しかしウイルスは人ではないから、憎しみの対象としては不十分だろう。早晩、マスクや時短営業、ワクチン接種などに非協力的・批判的な個人や事業者が、敵として認定され、憎悪の標的になるだろう。いや、すでになっている。

隷従への道を、私たちはすでに突き進んでいる。

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2021-04-13

恐怖に騙されない法


政府は恐怖心を煽り、自分の都合のいいように国民を操ろうとする。恐怖にとらわれず、正常な判断力を失わないためには、どうすればいいだろうか。

米著作家コナー・ボヤック氏が、著書『恐怖による支配』(未邦訳)で、国民の側に立った対策を提案している。対策は五つの段階に分かれる。

第一段階。権力者に対する健全な懐疑心を養う。権力を委ねられた者はそれを濫用する恐れがあるから、つねに警戒する必要がある。

第二段階。情報の選別眼を育てる。政府当局やマスコミに対する懐疑心を養うと、メディアの構造がより客観的に見えるようになり、信頼に値する情報とそうでない情報を賢明に見分けることができるようになる。

第三段階。情報源を多様化する。偽りのニュースは蔓延している。多くの情報を集め、情報源を広げれば、政治家や評論家に騙される可能性を小さくできる。

第四段階。真実を知ったら、それを広める。信頼できる情報を入手することはそれだけで有益だが、知らない人たちに広く伝えてあげれば、もっと役に立つ。

第五段階。政府に反対する人々を悪魔に仕立て上げようとする政府のやり口に同調しない。人にはつねに愛をもって接する道徳心を忘れない。

ボヤック氏の提案を一言でいえば、正しい意味のメディアリテラシーだろう。政府広報やそれを広げる大手メディアの論調をうのみにせず、少数意見にも耳を傾けること。至ってまっとうな指摘だ。

ところが今は政府の公式見解に反することを言うと、それだけで危険視され、「陰謀論」とレッテルを貼られる。とても健全な言論とは思えない。

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2021-04-12

日本は女性差別社会か


世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数2021」で、日本が156カ国中120位にとどまったとして、批判されている。調査対象となった四分野のうち、点数が低かったのは「経済」「政治参加」で、男女の所得格差、女性管理職や女性政治家の少なさが響いたという。

しかし、それによって日本が女性差別社会だと結論づけることはできない。

進化心理学の知見によれば、男女差別と思われてきた現象の多くは、男女の生物学的な違いと、そこから生じる繁殖戦略の違いに起因する。

男性は金を稼ぎ、高い地位に就くために、がむしゃらに努力する。競争に勝って多数の女性と配偶関係を結べば、それだけ多くの子供を残せるからだ。一方、女性は高い地位に就いても残せる子供の数は増えないから、それほど高い地位を求めようとしない。

そうだとすれば、政治・経済における男女格差は、差別ではなく、男女の選択の違いから生じた可能性がある。

政治の男女格差の小さな国は、ランキング首位のアイスランドをはじめ、クオータ制によって女性に一定以上の政治参加を割り当てている。日本も見習えとの意見が多いようだが、法の下の平等に照らして疑問がある。

ジェンダーギャップ指数で、日本は「教育」「医療へのアクセス」については90%以上平等が達成できているという。もし日本が本当に女性差別社会なら、こうはならないはずだ。男女の生物学的な違いを認めず、あらゆることに結果の平等を求める発想には危うさを感じる。

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2021-04-11

朱印船貿易、30年間で終わった理由


江戸幕府を開いた徳川家康は、東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状と呼ばれる海外渡航許可書を発給し、政府公認の貿易を行わせた。1604年(慶長9)に始まった朱印船貿易である。しかし、その時代は約三十年で終わりを告げた。

家康は幕府を開いた前後、外交・通商上の重要な決定を次々に下している。その背景には、西国大名が貿易で利益をあげるのを抑え、幕府のみが貿易利益を独占するために、貿易を幕府の厳重な統制の下で管理する狙いがあった。

豊後(大分県)の臼杵湾に漂着したリーフデ号に乗り組んでいたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招いて外交・貿易の顧問とし、それぞれ本国との通商を斡旋させた。当時、欧州では毛織物工業が発達したイギリスと、スペインから独立したオランダの二カ国が台頭し、国家の保護の下に相次いで東インド会社を設立。スペイン、ポルトガルが優勢だったアジアへ進出しようとしていた。

その一方で、スペインとの貿易にも積極的だった。フィリピンのマニラにいたスペインのフィリピン諸島長官と交渉し、スペイン船を日本貿易に誘致している。

朱印船貿易は、こうした家康の外交・通商戦略の一環だった。

朱印船の総船数は約三十年間で三百五十六隻にのぼり、多い年には二十隻以上が渡航した。朱印状の受給者は総数百五人で、上位から商人、華人、ヨーロッパ人、大名、武士の順となる。少数ながら前出のヨーステン、アダムズら在留外国人、宣教師、女性なども含まれ、多彩な顔ぶれだった。

朱印船には中国やポルトガルなど外国人を船主とする船も含まれていたが、その実質的な担い手は京の角倉・茶屋・平野、大坂の末吉、長崎の末次・荒木など、朱印船貿易家として知られる豪商だった。

朱印船が日本の港で貿易に占めるシェアはトップで、ポルトガル船や中国船、オランダ船を上回り、輸出入とも四割を超えた。日本のおもな輸入品は生糸と絹織物、甲冑などの武具に使われる鹿皮や鮫皮、砂糖や薬種など。おもな輸出品は銀で、東南アジア、中国、欧州のどこでも需要が高かった(村井章介『分裂から天下統一へ』)。

朱印船は、中国のジャンク船に欧風・和風の造船技術を取り入れた五百トンから七百五十トンの船で、二百人程度が乗り込んだ。船を操る航海士には、おもに明人、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が雇われた。朱印船は長崎から出港し、長崎に帰港すると定められた。

倭寇や秀吉の朝鮮出兵の影響で明が日本船の来航を禁止していたこともあり、明の目が届かない場所が朱印船のおもな渡航地になった。高砂(台湾)、交趾(ベトナム中・南部)、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)などである。取引の中心は、明からの商船や密貿易船と日本からの朱印船とが港湾で中国産の生糸・絹織物と日本産の銀とを交換する「出会(であい)貿易」だった。

家康は海外に宛てて「朱印状を持参する船は海賊船ではないから、貿易に応じてほしい。朱印状を持たない船は海賊と判断してかまわない」という意味の手紙を出している。このため海外貿易を行なっていた人々は家康に接近し、朱印状を求めるようになった。「朱印船貿易の制度は、貿易統制だけではなく国内支配のうえでも大きな意味をもっていた」と東京大学教授の鶴田啓氏は指摘する(『大学の日本史 近世』)。

やがて幕府の通商政策にキリスト教が大きな影響を及ぼしていく。

家康時代の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものだった。しかし、キリスト教の禁教を進めるには、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるをえなくなった。

幕府がキリスト教の禁教を進めた背景には、対日貿易で後発のオランダ、イギリス人が、貿易と布教を一体化させたポルトガル、スペインの弱点を突き、キリシタンの恐ろしさを吹聴したこともあった。オランダ、イギリス人はともに政府から貿易独占を認められた特権的な東インド会社に属し、布教と切り離して貿易を行うことができた。その後、イギリスはオランダとの競争に敗れ、平戸商館を閉鎖している。また、ポルトガル系とスペイン系の教会会派が互いに相手を非難したことも、キリスト教や欧州勢力への警戒感につながった。

1616年(元和2)に開明的な家康が死去した後、秀忠、家光の下で幕府の貿易政策は保守化の一途をたどる。1624年(寛永元)、スペイン船の来航を禁じた。1633年(寛永10)には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635年(寛永12)、日本人の海外渡航を全面的に禁止した。この結果、朱印船貿易は約三十年間の短い歴史に終止符を打つ。

その後、1637年(寛永14)から翌年にかけて起こった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに強まり、1639年(寛永16)、ポルトガル船の来航を禁止した。さらに、平戸にあったオランダ商館を1641年(寛永18)に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止した。

幕府は中国船との私貿易も長崎に限定して統制下に置き、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる鎖国の状態となった。

幕府が天領の長崎に開港場を限定したのは、それまで東シナ海、南シナ海のネットワークによって経済力を強めてきた西国大名の力を抑制し、幕府が貿易の利益を独占する狙いからだった。アジアの海のネットワークが日本列島の西を通り越し、東の江戸幕府に結び付けられるという奇妙な状況が、幕府の権力により生み出されたと歴史学者の宮崎正勝氏は述べる(『「海国」日本の歴史』)。

家康は貿易を奨励したが、それでも幕府の権力を維持する必要から、統制は避けられなかった。家康の死後、統制はさらに強まり、鎖国に至る。自由貿易と政府権力は両立しがたいという事実を、朱印船貿易の短い歴史は物語っている。

<参考文献>
  • 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
  • 杉森哲也編『大学の日本史―教養から考える歴史へ〈3〉近世』
  • 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房

2021-04-09

国民操縦の手口


政府は戦争を欲する。民主主義政府であっても、それは変わらない。政府は自分では富を生み出せないので、富を手に入れるには、他人の富を奪うしかない。その対象が国内に向かえば課税であり、国外に向かえば戦争となる。

しかし自分や家族が戦場に送り込まれる普通の人々は、戦争を好まない。それでは政府はどうするか。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた直後に服毒自殺したナチスドイツの元国家元帥、ヘルマン・ゲーリングが米軍の心理分析官に語った有名な言葉がある。

国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。

ゲーリングの発言のポイントは二つある。一つは国民全体に対し、外敵から攻撃されそうだと恐怖心を煽ること。もう一つはそうした扇動にもかかわらず戦争を拒む平和主義者に対し、愛国心がないと非難することだ。

この手口は、コロナ対策への協力を強いる今の政府のやり方ときわめて似通っている。国民全体に対しては、感染への恐怖心を煽る。協力を拒む人々に対しては、時短営業の要請に応じない飲食店に東京都が突きつけた命令のように、「感染リスクを高める」と非難する。

あの世のゲーリングは現在の日本を見て、満足そうにうなずいていることだろう。彼は国民を操縦する秘訣を語ったさきほどの発言に、こう付け加えている。「このやり方はどんな国でも有効ですよ」

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2021-04-08

恐怖という道具


「リバウンドが懸念される」「第四波に入りつつある」。緊急事態宣言を解除した後も、政府当局者は新型コロナウイルスに対する国民の恐怖心を煽るような発言を繰り返している。

もしコロナ感染症が本当に危険な病なら、多少脅かすようなことを言われても仕方ないかもしれない。しかし、コロナ対策を担当する厚生労働省で職員二十三人が深夜まで飲み会を楽しんだというから、政府も本心では大したことないと思っているのだろう。

それではなぜ、政府は恐怖を煽り続けるのだろうか。恐怖は国民を支配するのにきわめて便利な道具だからだ。

恐怖という感情は、人の思考と行動に特別な影響を及ぼす。いつもは分別のある人でも、恐怖に駆られると、論理的な思考や思慮深い判断ができなくなる。かつて英国の思想家バークが「恐怖という感情ほど、精神からすべての行動力と思考力をみごとに奪い去るものはない」と述べたとおりだ。

恐怖によって正常な判断力を失った人々は、他人が提案する解決策を安易に受け入れやすくなる。場合によっては、大切な自由まで譲り渡してしまう。まるで蛇ににらまれ、身動きできなくなった蛙のように。

国民を恐怖によって思うままに操作したい政府にとって、コロナは簡単に手放したくない口実に違いない。たとえ感染者が減少しようと、経済規制で企業倒産や自殺者が増えようと、あれこれ理由をつけてコロナの恐怖を煽り続けるだろう。他にもっと効き目のある恐怖が見つからない限り。

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2021-04-07

放送外資規制は撤廃を


東北新社の認可取り消しに続き、フジテレビの親会社でも過去に放送法の外資規制に違反していた疑いが強まった。放送法では、外国の法人などが持つ議決権の比率を20%未満に制限している。

安倍政権下で大騒ぎになった加計学園の獣医学部新設問題もそうだったが、この種の行政スキャンダルではいつも、そもそも規制は必要なのかという論点が無視される。それどころか、逆に規制を強化しろという意見が勢いを増す。

株式会社アシスト社長の平井宏治氏がダイヤモンド・オンラインへの寄稿で、そうした規制強化論を展開している。外資規制は「放送が世論に及ぼす影響を考慮した安全保障上の理由」から必要だと強調し、「官民ファンドを設け、MBO(経営陣が参加する買収)を行い、外国人投資家を株主から一掃することは可能」などと提言する。

平井氏が見落としていることがある。国民の安全にとって、外国政府だけではなく、自国政府も同じくらい、いやそれ以上に脅威になりうるという事実だ。

もし大東亜戦争中、情報源が日本政府の大本営発表に偏らず、外国のもっと客観的な報道に接することができたら、戦禍があれほど甚大になる前に、戦争をやめることができたかもしれない。外国の宣伝工作を心配するより、兵士の多数を戦地で餓死に追いやるような自国政府の暴虐のほうがはるかに恐ろしい。

コロナ下の今も、大手放送会社は感染症に関し政府の公式見解を繰り返すばかりで、戦時中と五十歩百歩だ。外国人資本家を締め出し、政府が実質牛耳る官民ファンドに経営を委ねたりしたら、報道の多様性はますます失われる。

他のあらゆる産業分野と同じく、外資規制は不要で有害だ。撤廃するのが正しい。

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2021-04-06

自由より安全を求める人たち


政府のコロナ対策で自由が縛られたって、仕方ない。なんだかんだ言って、命が一番大事だから——。こんな風に思っている人は少なくないだろう。けれども、その考えは正しくない。

今、私たちが自分の健康や命を守るうえで頼りにしている科学や技術は、自由なしには成り立たない。研究の自由がなければ、感染症の原因や対策を知ることはできない。営業の自由がなければ、実用的な防止手段や治療方法を製品化し、人々に届けることはできない。

科学や技術の進歩は、つねに少数の意見や行動から始まる。それが多数派の考えに反するからといって禁止すれば、進歩の可能性はなくなる。

たとえば、海外でロックダウン(都市封鎖)の効果が疑問視されているにもかかわらず、日本は自粛要請をやめようとしない。自由に行動して集団免疫を獲得する方法は、もし有効なら経済や人の心への打撃が和らぐにもかかわらず、試すことさえ認められない。

一年以上にわたり自由が制限されているにもかかわらず、日本社会がなんとか持ちこたえているのは、過去に築いた有形無形の蓄えがあるからだ。しかしこのままだと、それもいつか底をつく。

「安全を得るために自由を放棄する者は、そのどちらも得られないし、得るに値しない」。このベンジャミン・フランクリンの言葉が、今ほど切実に感じられるときはない。

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2021-04-05

奴隷根性を乗り越える


テレビのニュースを見ていると、毎日のように、コロナ対策にいそいそと協力する善男善女の姿が流れる。花見のシーズンには、ベンチで隣同士に腰かけ、「横に座ってしゃべるようにしています」と笑顔で話すカップルや、「ちょっと早く来て、人が出てきたら帰るつもりです」と答える男性らが紹介された。もちろん全員マスクをしている。

それならいっそのこと、わざわざ花見なんかに来なけりゃいいのにとも思うが、それは違う。自粛要請のせいで世の中が真っ暗になるのではなく、それなりに楽しんでますとアピールすることに意義がある。それを善男善女はわきまえている。

なんだか北朝鮮のテレビみたいだって? とんでもない。だって強制されたわけではなく、みずから進んで行動しているのだから。そのほうが悪性かもしれないけれど。

恋人同士ならマスクなど外し、顔を見ながら話せばいい。人が来たら帰ったりせず、いっしょに桜を楽しめばいい。そうしたからって、健康へのリスクがどれだけ高くなるっていうのだ。

でも善男善女はそうしない。むしろお上の命令に進んで従うほうが、気持ちがいいと思っているに違いない。そうでなければ、あの笑顔にはなれない。

社会思想家の大杉栄は、「奴隷根性論」でこう書いた。

政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめる事は、なかなかに容易な事業じゃない。(『大杉栄評論集』岩波文庫)

奴隷根性を乗り越えることは、政治の仕組みを変えるより難しいかもしれない。しかし嘆いてばかりいても仕方ない。大杉栄は前を向いて、こう付け加えている。「けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ」

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2021-04-04

宗教改革と主権国家

ニュースを見ていると、「主権国家」という言葉に出会う。英国の欧州連合(EU)離脱をめぐり、英国がEUに対し「我々は主権国家として独自のルールを持つ」と主張するといったケースだ。

主権国家の登場は近世の欧州だ。当時、教皇や皇帝という、個々の国家を超越する権力が衰え、各国が独立性を強め、自国の領域内で最高の権力(主権)を主張するようになった。これが現在まで続く主権国家だ。今でこそ当たり前の存在と思われているけれども、歴史上、それほど古いものではない。

主権国家の形成を推し進める役割を果たした出来事がある。宗教改革だ。宗教というと、現代の欧米では国家とは距離を置いた存在になっているが、意外なことに、主権国家の成立と宗教改革は深いかかわりがあった。その歴史をたどると、宗教改革の明るい面だけではなく、暗い影の部分も浮かび上がる。


宗教改革は、ドイツの神学者マルティン・ルターが1517年に贖宥状(しょくゆうじょう)の効力に関する九十五カ条の論題を提起したことから始まった。贖宥状は、免罪符の呼び名でも知られる。罪を犯した者でも、教皇が発行するこの証書を買えば、罪が赦されるとされた。

かねて贖宥状に疑問を抱いていたルターは、教皇レオ十世がローマの聖ピエトロ大聖堂の改修費にあてるために認めた贖宥状の販売を批判した。人は聖書のみをよりどころにし、信仰のみによって救われると説いたルターの考え方は、教皇や教会の権威を否定することになった。

教皇はルターを破門するがルターは従わなかった。神聖ローマ皇帝カール五世が、1521年のヴォルムス帝国議会にルターを呼び出し、その教説の撤回を求めても応じなかった。皇帝の弾圧に抗議するルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれ、のちにこの言葉は、ローマ教皇の権威を否定する新教徒全体を指すようになる。

ルターはザクセン選帝侯フリードリヒの下に身を寄せ、そこで聖書のドイツ語訳を進めた。グーテンベルクが発明した印刷術により、聖書は民衆の間に広まり、ローマ教皇の権威をさらに揺るがしていく。

ルターが宗教改革を始めるのに先立つ四十年余りの間に、欧州は一つの転機を迎えていた。主権国家の出現である。

イングランドでは、1455年から三十年間続いたばら戦争ののち、テューダー朝が成立する。フランスでも、百年戦争と国内統治の強化によってイングランド王とブルゴーニュ公の勢力を排除した。一方、神聖ローマ帝国が君臨するドイツでは、バイエルン、プロイセン、ザクセンといった領邦(地方国家)単位での統合が進んだ。

こうした主権国家にとって最も障害となったのは、国内のローマ・カトリック教会勢力だった。教会は十分の一税で国の富の多くを吸い上げていたほか、教会や修道院は大地主として国土の多くの部分を所有していた。

なにより困ったことに、こうした教会の活動は国家を超越していた。教会の利害と国家の利害が衝突した場合、国家は国内の教会が国家の利害に沿って行動することを期待できなかった。

したがって、ローマ・カトリック教会当局と衝突して窮地に陥ったルターを、ザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。歴史学者の小泉徹氏が指摘するとおり、フリードリヒにしてみれば、「敵の敵は味方」、ローマ・カトリック教会の敵は味方だったのである(『宗教改革とその時代』)。

こうしてドイツの各地の領邦で、同じように領邦君主がプロテスタント聖職者を保護し、他方、プロテスタント聖職者が領邦君主の支配を正当化するという関係が生じた。1555年、アウクスブルクの宗教和議でルター派は公認されたが、宗派を選ぶ権利が認められたのは諸侯だけで、個人の信仰の自由が認められたわけではなかった。宗教改革の進展は、主権国家の支配強化という政治的な目的に支えられていた。

イングランドの場合はもっとはっきりしている。離婚問題でローマ教皇と対立したヘンリ八世は、1534年、議会の協賛を得て国王至上法(首長法)を定め、国王を最高の長とするイギリス国教会を創設し、教皇と絶縁した。しかし目的はローマ・カトリック教会の政治力排除にあり、ヘンリ自身はルターの教説には何の関心もなかった。

このように宗教改革と主権国家の形成の間には密接な関係があった。その関係が最も極端な形で現れたのは、修道院などカトリック勢力の財産の没収である。

宗教改革の当初から、北ドイツの領邦君主はカトリック勢力の財産に手をつけた。ルター派に改宗したホーエンツォレルン家のアルブレヒトは1525年、十字軍以来の歴史を持つドイツ騎士団国の土地を没収し、プロイセン公国を創設した。ヘッセン方伯フィリップ一世は領内にある修道院の土地をすべて没収し、収入の大半を自分のものにした。

イングランドには1530年におよそ八百の修道院があり、イングランド全土の五分の一から四分の一を所有し、総収入は王室に匹敵するといわれていた。ヘンリ八世はこの莫大な財産に目をつけ、1535年、政治的右腕であるトマス・クロムウェルを自らの代理に任命する。

クロムウェルは風紀の乱れを調査するという名目で各地に委員を派遣し、修道院を含む教会財産を綿密に調査し、目録を作成した。そしてまず翌年、規模の小さい修道院を対象に、とくに風紀の乱れが甚だしいという理由で解散を命じる。大修道院の抵抗をかわすため、弱い部分から手をつけたのだ。

イングランドの各地で修道院の解散が始まると、すべての旧秩序が変革されるのではとの不安からジェントリ(地方貴族)や農民が武装蜂起した。クロムウェルは、一部の大修道院がこれに加担したと難癖をつけ、関係者を処刑する。この事態におびえた各地の大修道院は雪崩を打って自ら解散し、1540年にはすべての修道院が解散してしまった(前出『宗教改革とその時代』)。

「抗議者」という言葉の由来から、プロテスタントは国家権力に抵抗する人々というイメージを持つかもしれない。だがプロテスタントが抗議したのはローマ教皇の権威であり、国家権力ではなかった。しかも主権国家の力を借りてローマ教皇に対抗した関係上、国家権力を否定する契機はほとんどなかった。

ルター自身、そうだった。1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模なドイツ農民戦争を起こした。ルターは初め農民の運動を支持したが、農民たちがトマス・ミュンツアーらの指導のもとに領主制の廃止や土地の共有などを要求すると、これに反対し、諸侯に一揆を鎮圧するため、妥協せずに徹底的に戦うよう説いた。

例外はあった。ルターと並ぶ宗教改革の旗手ジャン・カルヴァンの一派は、フランスではユグノーと呼ばれ、カトリックの王権から厳しく弾圧され、内乱を起こした。プロテスタント神学者テオドール・ベーズは、被治者の同意を欠く統治を行う者は「公敵」であり、すべての被治者はこれに対する武装抵抗権を持つとして、ユグノーの立場を擁護した。もっとも、このような抵抗権理論はプロテスタント思想に本来備わっていたものではなかった。

宗教改革は結果として、一つの国家に一つの宗教という形態を生み出した。国家と宗教はつねに協力関係にある。とりわけルターを生んだドイツでは、プロテスタントは今日に至るまで一貫して体制保持に協力してきた。20世紀のナチス政権に対しても、ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された神学者ディートリヒ・ボンヘッファーのような例外はあるが、全体として無批判だったとされる。

ナチスは、ルターが1543年に書いた「ユダヤ人とその偽りについて」という文書をユダヤ人の迫害や反ユダヤ主義のために利用した。宗教改革によってユダヤ人がキリスト教への改宗を始めるだろうという期待が外れ、その腹いせに書いたような文書だ。ルターはユダヤ人を厳しい言葉で批判した。ナチスに都合よく抜粋され、編集されたとはいえ、ルターの主張であることに違いはない。

このため第二次世界大戦中や終戦直後、連合国側の研究者から「ルターはヒトラーの先駆者だった」とまで批判されることになった。

だがヒトラーを滅ぼした米英などもその後、反共産主義や反テロリズムを旗印に、アジアや中東で十字軍を思わせる軍事介入に乗り出す。異なる宗教・文化の人々を暴力で苦しめ、今も苦しめている。

熱烈な信仰や思想は、それだけで平和を脅かすことはない。国家権力と結びついたとき、脅威となる。宗教改革と主権国家の歴史は、その危険に警鐘を鳴らす。

<参考文献>
  • 小泉徹『宗教改革とその時代』(世界史リブレット)山川出版社
  • 深井智朗『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』中公新書
  • 宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか: 宗教改革論集』新教出版社
  • Rothbard, Murray N., Austrian Perspective on the History of Economic Thought, Ludwig von Mises Institute.
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-04-02

MMTの矛盾⑤納税者の権利


MMTを支持する中野剛志氏も、お金を発行した結果、その価値が下がることは、次のように認めている

インフレとは物価が上がることですが、裏返せば、貨幣の価値が下がることです。つまり、ハイパーインフレになれば、お札はただの「紙切れ」になってしまいます。〔略〕ハイパーインフレはさすがに困ります。

ところがおかしなことに、中野氏が問題視するのはハイパーインフレだけだ。むろん、ハイパーインフレは良くない。けれども、国民にお金の価値の下落というコスト、つまりインフレ税を払わせる点では、そこそこ大幅なインフレはもちろん、緩やかなインフレ(マイルドインフレ)だって同じだ。

マイルドインフレは、ある意味では、ハイパーインフレよりたちが悪い。ハイパーインフレは誰が見ても異常なので、食い止めようとする意思が働きやすい。ところがマイルドインフレの場合、むしろ正常であり望ましいという考えが、政府や経済学者によって流布されている。だから長く続きやすい。これは政府にとって望ましい。インフレ税を長期にわたり、じっくりと搾り取ることができるからだ。

ハイパーインフレはさすがに困る、裏を返せばそれ未満のインフレは問題ないという中野氏やMMT論者の考えは、旧来のリフレ派と同じく、「百姓は生きぬように、死なぬように」と言い放つ封建領主と変わらない。納税者の権利という発想は一ミリもない。

最後に「今の日本はデフレだから、インフレ税の批判は当てはまらない」という意見にあらかじめ反論しておこう。論拠はいくつかあるが、ここでは一つだけ挙げる。「今の日本はデフレ」という認識がそもそも怪しい。アベノミクス以来の金融緩和を背景に、マンションや株式といった資産の価格は上昇が続いている。それが物価に反映されないのは、政府の統計に資産価格が含まれていないからにすぎない。(この項おわり)

2021-04-01

MMTの矛盾④インフレ税という悪税


政府がお金の発行量を増やすと、政府自身は新たなお金を手にする一方、人々はお金の価値を奪われる。実質、税金と同じだ。これを「インフレ税」と呼ぶ。

MMT論者は、政府の通貨発行権を活用すれば、コストなしでメリットを享受できるとまことしやかに語る。フリーランチを楽しめると甘くささやく。それは真っ赤な嘘だ。タダ飯だと信じて盛大に飲み食いしたら、インフレ税の支払いが待っている。

しかもインフレ税は普通の税に比べ、非常にたちが悪い。

そもそも課税は、法律の定めによらなければならない。これを租税法律主義という。マグナ・カルタに由来する近代法の大原則で、日本国憲法でも84条にうたわれている。具体的には、法律で課税対象、税率、課税方法、徴収方法などの条件を定めなければならない。

ところがインフレ税の場合、根拠となる法律が存在しない。課税対象も税率も、課税や徴収の方法も、どこにも定められていない。消費税なら税率は10%と法律に明記されているけれども、インフレ税の負担は国民一人一人ばらばらだ。税率は何%か、政府自身にもわからない。

普通の税金なら、国会で根拠となる法律を成立させなければならない。世論の反対があるから、すんなりとはいかない。下手をすると選挙で負ける。

インフレ税にそんな苦労はない。政府が中央銀行を使ってお金を増やすのに、いちいち国会の承認はいらない。「金融政策の一環」と言っておけばいい。メディアもインフレ税をほとんど問題にしないから、国民の多くは税金を取られている意識すらない。

近代法の精神を踏みにじる悪質な税金。それがインフレ税だ。(この項つづく)