映画と原作を比べると、興味深いことがある。映画では、物語の舞台はアグラバー王国という架空の国。砂漠に囲まれていることや街並みから、中東のどこかの国がモデルのように見える。
一方、原作では、主要な舞台は中国。中国のある町に住んでいた仕立て屋の息子アラジンの家に、ある日、亡き父親の弟を名乗る修道僧が訪れる。自分は40年前に祖国の中国を去り、インド、ペルシャ、アラビア、シリア、エジプトなどを旅し、その後アフリカに渡って長く住んでいたなどと話す。
修道僧は実は魔法使いで、魔法のランプを手に入れるためアラジンを利用しようとしていた。偶然のなりゆきからランプはアラジンの手に入り、アラジンはランプの魔神の力を借りて豊かになり、皇帝の娘と結婚し、中国に君臨して何不自由ない余生をまっとうする。
この物語から、当時のイスラム世界の人々にとって、中国が一種の夢の国だったことがうかがえる。中国に関する情報をもたらしたのは、西アジアから海に乗り出したイスラム教徒(ムスリム)の商人たちだった。
東側にインド洋、西側に地中海という二つの海が広がり、さらにユーラシアとアフリカの両大陸に挟まれた西アジア地域は、古くから東西交通と貿易活動のうえで重要な要衝にあった。8世紀中頃、バグダッドを都とするアッバース朝が成立し、シルクロードによって東の唐帝国と結ばれる。
シルクロードといえば,通常は中央アジアのオアシス地帯を通るルートを指すが、そのほかに、北寄りの草原ルート(草原の道)と南方の海上ルート(海の道)も、劣らず歴史的に重要な役割を果たした。このうち海の道の発展に大きく貢献したのが、アラビア系やイラン系のムスリム商人である。
ムスリム商人はダウ船と呼ばれる三角帆の縫合帆船を用いて、季節風に乗って縦横無尽に航行した。ダウ船は遠距離交易に適し、陶磁器や鉱物、木材などの重くてかさばる商品を持ち運ぶことが可能だった。なかには400~500人が乗り込む巨大なダウ船もあった。早ければ1年もかからずに、バグダッドからペルシャ湾を経て、インド、東南アジアに至り、さらに唐最大の海外貿易港である広州へと赴いた。
唐はムスリム商人の自治を認め、広州には商人が自治権を持つ外国人居留地(蕃坊)が誕生した。蕃坊は外国人の蕃長によって統括され、蕃長は外国人間の犯罪について裁判権を有した。
後述するように、航海には危険を伴った。それでも多くのムスリム商人が海に乗り出したのは、成功すれば莫大な利益という代償が見込めたからだ。海運は、ラクダなどを使う陸上輸送とは異なり、一挙に大量の商品を運べることから利益が大きく、なかには陸の貿易から海に乗り換える商人もいた。
ムスリム商人が中国に運んだ主な商品は、象牙、犀角、乳香、竜脳、銅塊、鼈甲などだったが、銅以外はインド洋交易圏で比較的安価に入手した商品だった。中継貿易で大きな利益をあげていたのである。
一方、ムスリム商人が中国から積み出した商品は、金、銀、真珠、錦、陶器、鞍、貂の毛皮、麝香、沈香、肉桂その他の香料だった。
海の道を通じて貿易量は増大し、中継する各都市に経済的な繁栄をもたらすとともに、中国の政情がいち早くイスラム世界に伝わるといった情報の流通をも促した。宗教指導者の活動範囲も拡大し、さまざまな地域で現地住民のイスラム教への改宗が起こる。
イスラム教といえば、「コーランか剣か」の言葉とともに、武力で信仰を押しつける宗教というイメージが根強い。たしかに武力による制圧はイスラムの拡大に重要な役割を果たしたものの、東アフリカ、インド、インドネシア、中国といった地域では、イスラムは商人や伝道師を通じ、平和のうちに広がった。
それにしても当時のムスリム商人は、旅の安全をどう確保したのだろうか。商人たちは海賊や遭難の危険に満ちた海洋を船で航海しただけでなく、異なる政治体系や支配権を持った国々の間を往来した。国境を超えた交通路の安全や交易の自由が保障されなければ、広大なイスラム世界を舞台とする活躍は望めなかっただろう。
イスラム社会経済史が専門の家島彦一氏によれば、交通ネットワークの安全を保つ仕組みは、大きく四つあった(『パクス・イスラミカの世紀』)。
第1に、強大な国家とその衛星国家との間に結ばれる条約・契約関係である。スンナ派、シーア派それぞれ共通の宗派に属するイスラム国家間には一種の帰属関係が成立し、その影響下にある国家間の安全が保障された。
第2に、宗教的原理に基づく秩序倫理と法的保障である。ムスリム商人が旅の途中で国家・支配者によって商品を押収されたり、死亡したために財産が不当な没収を受けたりしたときには、イスラム法による裁定が下され、その判定に従うことが義務付けられた。
第3に、交通路を確保するための独自の組織である。船団には多くの場合、私設の武装集団が組織された。
第4に、慣習法である。アラビア海や紅海を航海する船乗りや海上商人たちは、遭難の場合の相互救助、漂流物の処理、船団航海のルール、紛争の処理などに関する慣習法があり、海を共通の舞台に活躍する人々の安全が守られていた。国家が事細かく法令を定めなくとも、ルールは民間で自然に形成されたのである。
ムスリム商人はこれらの仕組みで商取引の安全・秩序を確保したうえで、送金・決済の国際金融ネットワーク、合資や共同を通じ集積した資本、倉庫や支店、私設の通信情報ネットワークなどを用い、より安全・確実に国際間の交易をおこなった。
当時の日本列島にはムスリム商人の情報は伝わっていないが、倭国(日本)の情報はバグダッドに伝えられていた。9世紀後半のイスラムの地理書は、倭国を「ワクワク」と呼び、「黄金の産出に富み、犬の鎖、猿の首輪までも金で造り、金糸を織り込んだ布を持って来て売るほどである」と紹介している。
遣唐使一行が奥州で産出された多くの砂金を唐に持参して滞在費用に充てたことが、背景にあるようだ。のちの「ジパング伝説」の原型になっている。
現代の日本はビジネスを通じ、中東や東南アジアのイスラム諸国と関係を深めている。イスラムと日本には、商人の精神という伝統を持つ共通点がある。ややもすれば西洋とイスラムの「文明の衝突」がクローズアップされがちな昨今、日本が両者の橋渡しに果たす役割は大きい。
<参考文献>
鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(新書イスラームの世界史)講談社現代新書
宮崎正勝『世界史の誕生とイスラーム』原書房
宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
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