2017-02-01

柄谷行人『世界共和国へ』




自由は強制である?

自由と平等は両立しない。人間の資質や環境が千差万別である以上、完全な機会の平等は望めないし、まして結果の平等はありえない。だが問題は不平等ではなく、貧困である。不平等をなくすために自由を縛れば、貧困はむしろ悪化する。

著者はチョムスキーに基づき、「統制と自由」をタテ軸に、「不平等と平等」をヨコ軸に、国家の形態を4つに分類。このうち「統制・平等」は共産主義、「統制・不平等」は社会民主主義、「自由・不平等」は新自由主義に当たるという。

最後の「自由・平等」な国家を、著者はアソシエーショニズムと呼ぶ。現実的には存在しえないが、近づこうと努める理念になりうると言う。しかし自由と平等の両立は、丸い三角形と同じく論理的に不可能だから、理念にはなりえない。

不可能を可能にする一つの方法は、言葉の歪曲である。アソシエーショニズムでは「互酬」によって富の格差が生じないようにするという。ところがその互酬の例は、未開社会では得た富を贈与で消費するよう「強いられる」というものだ。

「強いられる」とは強制だ。もしこれがアソシエーショニズムの「自由」だとすれば、そんなオーウェルの『1984年』みたいな国にはあまり住みたくない。富をすべて消費する国では技術開発も設備投資もできないから、極貧は必至だ。

著者がアソシエーショニズムの理念実現をめざし、かつて企てたNAM(New Associationist Movement)という運動が挫折したのは、直接の原因はともかく、論理的に必然だったといえる。

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