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「反インフレ経済勉強会」開講のお知らせ

インフレは税の一種です。しかも普通の税よりも悪質な税です。ところが、この事実はよく理解されていません。それどころか、多少のインフレはむしろ良いことだという嘘が、現在主流の国家主義的な、誤った経済学(ケインズ経済学)や、そこから派生した極端な説 (MMT=現代貨幣理論など) によっ...

2018-07-16

現金廃止論の矛盾

現金廃止論の矛盾
現金は犯罪者が利用するから廃止せよといわれる。しかし紙クリップや歩道、弁護士だって犯罪者に使われるが、誰も廃止せよとはいわない。資金洗浄(money laundering)やテロ支援に一番利用されるのは銀行で、二番目は会計事務所。現金は三番目にすぎない。なぜ銀行や会計事務所を廃止しないのか。
The War on Cash Is Even Worse than It Seems | Mises Wire

現金放逐への懐疑
キャッシュレス先進国のスウェーデンで懐疑論。世論調査で70%近くが現金を選択肢に残すのに賛成。「通貨が完全にデジタル化されたら、システムを止められたとき自分を守る術がない」と反対派。他国に侵略されるリスクに加え、自国政府がいつも割合善良(benign)である保証はない。
'Being cash-free puts us at risk of attack': Swedes turn against cashlessness | World news | The Guardian

現金は監視されない
日本とともに現金使用率の高いドイツ。キャッシュレス化に反対する議員(緑の党)は「現金は監視されないから」。ナチスと東ドイツの恐怖政治の記憶が背景に。資金洗浄に悪用されるとの意見には、だからといって現金を廃止するのは「小鳥を撃つのに大砲(cannon)を使うようなもの」。
Germany Is Still Obsessed With Cash - Bloomberg

現金廃止で起こること
現金廃止で起こること。⑴経済のプライバシーが危うくなる。政府が銀行に顧客の身元確認や取引記録の提供を求めれば、丸裸にされる⑵マイナス金利による法に基づかない課税から逃れられなくなる⑶現金取引に頼る中小事業者に不便を強い、取引コストの上昇で貧困層を苦しめる。
The Curse of the War on Cash | Cato Institute

2018-07-15

お金は市場が育む

私たちは子供の頃から、お金は政府が発行するから信頼され、通用するのだと教えられてきました。しかしそれは正しくありません。

人類の歴史上、長らくお金として使われた金(きん)は、政府が作ったものではありません。他の金属や布、穀物などもお金として一時使われましたが、金が一番愛用され、最後に残りました。お金は市場が生み、競争によって育まれたのです。

政府・中央銀行が発行する紙幣は、金との引換券にすぎませんでした。この仕組みを金本位制といいます。金本位制は1971年のニクソン・ショックまで続きました。つまり、お金が政府の権威以外に何の裏付けもない紙切れ(不換紙幣)になってから、まだ50年も経っていません。

そして今、市場がお金を育む時代が、再びやって来ようとしています。仮想通貨の隆盛です。民間で発行されたさまざまなお金がしのぎを削る姿は、少し前まで想像もしなかったものです。記事が伝える激しい値動きや、発行方針の対立による分裂の危機に不安を感じる人も少なくないでしょう。

しかしだからといって、政府に仮想通貨の規制や「ルール」の整備を求めるのは正しくないでしょう。政府が市場経済を規制してうまくいったためしはないからです。政府自身、わずか半世紀足らずの不換紙幣の時代に大量のお金を刷りまくり、その価値をおとしめたことを思えばなおさらです。

経済学者ハイエクはニクソン・ショックの5年後、市場競争は「政府がこれまで生みだしてきたよりも良い貨幣を生みだすように思われる」(『貨幣論集』春秋社)と述べています。仮想通貨の時代は始まったばかり。目先の動きに一喜一憂せず、その進化を見守りたいものです。(2017/07/15)

2018-07-14

資本主義は女性にやさしい

資本主義は女性にやさしい
フェミニズムは男性上位(patriarchy)を資本主義や欧米社会と結びつけたがる。実際には資本主義の発達した国ほど女性差別は少ない。女性差別の少ない上位20カ国のうち19カ国は欧米諸国(1カ国はシンガポール)。女性差別の多い20カ国のうち15カ国はイスラム諸国、5カ国はアフリカ諸国だ。
Western Capitalist Countries are the Best Places to be Born a Woman | Mises Wire

女性を解放する資本主義
世界中のどの個人も他人と同じではない。この違いのおかげで、人はそれぞれ最も素質と関心のある分野に専念できる。資本主義の下ではこの分業が高度に発達する。その結果、女性は伝統的な家事から解放された。男女の心身の違いを法律で否定しようとせず、違うことを楽しもう。
The Liberation of Women | Mises Wire

資本主義は共感を育む
資本主義は弱肉強食ではない。むしろ共産主義社会のほうが他人を気にかけない。資本主義は共感の範囲を他人に広げる。誰もがある日、友人になりうる。ビジネスを行うにはよそ者を信用しなければならない。だから資本主義が発達するほど見知らぬ人への共感と利他主義が強まる。
https://fee.org/articles/people-are-less-selfish-under-capitalism/

愛される資本主義
マクドナルドは世界で毎日6800万人のお客があり、200万人近い従業員が働く。英国で従業員の平均年齢は20歳で、うち43%は21歳以下。多くの人々が初めて働く職場の一つだ。大きな富をもたらし、若者には次の仕事への足がかり(stepping stones)ともなっている。自由な資本主義が若い起業家を生む。
Millennial entrepreneurs understand the power of profit - CapX

2018-07-13

庶民を苦しめる安売り規制

政治家はよく、政治は庶民や貧しい人の味方だと大見得を切ります。しかしもしそれが本当なら、どうして安売りを禁じ、庶民や貧しい人を苦しめるような規制を行うのでしょうか。

記事によれば、1~6月のビール系飲料(ビール、発泡酒、第三のビール)の課税済み出荷量は、前年同期比1.3%減の1億9025万ケースでした。原因は、6月に施行された酒類の安売り規制でビール系飲料の小売価格が大幅に上昇したことです。

今回の規制は、大手量販店などの安売り攻勢に苦しむ中小の酒店を守るため、自民党の「街の酒屋さんを守る国会議員の会」が中心となり、昨年の参院選直前に議員立法で実現させたものです。つまりは選挙対策です。

量販店などとの競争で中小の酒店の多くが経営不振に陥っていることは事実でしょう。しかしだからといって、政府が市場に介入し、量販店などに安売りをやめさせれば、安価な発泡酒や第三のビールを楽しむ庶民や貧困層の暮らしが苦しくなります。

中小酒店の経営も苦しいかもしれません。しかし自分が苦しいからといって、他人を犠牲にして自分が救われていいということにはなりません。

政治家はよく、市場原理は庶民や貧しい人を不幸にすると言います。しかし不幸にするのは市場原理ではありません。市場原理を無視した政治です。(2017/07/13)

人道的介入の偽善

人道的介入の偽善
シリアのアサド政権に対する攻撃が人道的に不可欠なら、なぜ米国はサウジアラビアがイエメンの子供を飢えさせるのを助けるのか。人道的介入という善意はリビアを混乱に陥れ、イスラム原理主義をはびこらせた。ウクライナへの介入の結果内戦となり、米ロの不吉な対立を招いた。
The Humanitarian Trap | The American Conservative

軍事行動のコスト
トランプ米大統領は、化学兵器の使用に「何かしたい」と考え、シリアの空軍基地に巡航ミサイルを59発打ち込んだ(費用は8900万ドル)。空爆はせいぜい象徴的な意味しかなかったが、確かなことが一つ。軍事行動のコストは膨大だ。
The American Way of War Is a Budget-Breaker

意図とは逆の結果
アフガン、イラク、シリアなどでの壮絶な軍事行動は、意図とは逆の結果をもたらしている。「テロとの戦い」の目的が欧米でテロをなくすことだったとすれば、完全な失敗とみなさなければならない。英仏独など欧州全域でテロは拡大している。
The ‘War On Terrorism’ Isn’t Working

軍事介入政策の帰結
欧米は中東で他国民を攻撃し、血生臭い混乱を起こしている。自業自得の事態(blowback)を招いてもおかしくない。欧米は自分の外交政策についてよく考えなければならない。シリア、リビア、イラク、アフガニスタンなどの争乱になぜ関わる必要があるのか。
Manchester Arena attack: ‘We caused bloody chaos, not surprising there’s blowback’

2018-07-12

ロボットは仕事を奪わない

ロボットは仕事を奪わない
今ある職業の半分以上は、20年前には知られてさえいなかった。140年間以上のデータによれば、技術は破壊するより多くの雇用を生み出す。高い技能を必要としない仕事が消え去るとは嘘で、他の仕事が生まれる。技術が取って代わるのは、最もつまらなくて危険できつい仕事だ。
Robots Do Not Destroy Employment, Politicians Do | Mises Wire

知識人の本音
知識人(intellectuals)は進歩が嫌いだ。自称「進歩派」の知識人ほどそうだ。進歩の成果が嫌いなわけではない。その証拠に、大半の評論家やその支持者は筆と墨ではなくPCを使うし、麻酔抜きの手術など望まない。彼ら口舌の徒が嫌いなのは、人間は自分で世界を理解し良くできるという考えだ。
Quotation of the Day... - Cafe Hayek

再分配はいらない
機械の所有者が富の再分配(redistribution)に反対すれば、ほとんどの人がひどい貧困に陥るだろうと述べた、故ホーキング博士。しかし機械の所有者が富を手にするのは、人々が求める物を機械によって安く作り、売るから。だとすれば人々は貧困に陥るのでなく、むしろ豊かになるはず。
It Doesn't Take a Genius to Understand Economics | Mises Institute

国家の嘘
政府の言葉に要注意。企業は商品を「投げ売り(dump)」しない。消費者が欲しい値段で売る。品不足の際、企業は「便乗値上げ(price gouge)」しない。需給に応じた値を付ける。公共事業は「雇用創出(create jobs)」しない。民間で生まれるはずだった雇用を減らす。ニーチェいわく、国家が何を語ってもそれは嘘だ。
Statism’s First Casualty Is the Truthful Use of Language

転売ヤーは許せない?

歴史上、商人はしばしば不当に軽蔑・差別されました。アリストテレスは利潤目的の商業を非難に値する職業と述べましたし、荻生徂徠は商人を「骨折らずして、坐して利を儲(もうく)る者」と批判しました。農民と違い、商品を右から左に動かすだけで労せずして利益を得る、非生産的な存在として憎まれたのです。

今でもこの時代錯誤な偏見は消えていません。よく非難の対象になるのは、「転売屋」「転売ヤー」とさげすまれる、コンサートやイベントのチケットを転売する企業や個人です。記事によると、総務省とぴあは2018年にも、マイナンバーカードの認証機能を使ってチケットの高額転売を防ぐ新システムを稼働するそうです。このニュースに対し、SNSでは人々が「転売屋完全終了」「転売屋ざまぁ」などと快哉を叫んでいます。

とても市場経済の国とは思えません。チケットの転売は、それがいくら高値であろうとも、違法ではありません。違法でない限り、当事者の自由に委ねるのが市場経済の鉄則です。コンサートなどの主催者が正規の購入者以外の入場を禁止するのは勝手ですが、それに政府が肩入れするのはおかしなことです。

音楽業界の中には「チケットはアーティストがかかわる特殊な商品」と言い、だから高値転売は許せないと憤る人がいます。しかしゴッホやモディリアーニの絵画だって、「発売」当初をはるかに上回る値段で取引されています。それが画家をおとしめることにはならないでしょう。

安く入手した商品を高く転売することは、いつの時代も一定の人々にとって不道徳で許しがたい行為なのかもしれません。しかしもしそうなら、自分が転売を利用しなければいいだけの話です。自由を許さない、不寛容で息苦しい社会では、やがて文化そのものがやせ細ってしまうでしょう。(2017/07/12)

経済はグラフで表せない

経済はグラフで表せない
現実の経済はあまりに複雑で、単純な需給曲線では正しく表現できない。グラフは不確実性や起業家の思惑、市場の絶え間ない変化を考慮しない。ところが政府や中央銀行はその単純な枠組みに基づき、さまざまな政策を立案する。そしていつも現実の経済が予想外の動きをして驚く。

主流経済学の落とし穴
現在主流の新古典派経済学は19世紀物理学の模倣である。エネルギーの概念を効用に置き換え、浪費の最小化という同じ原理を当てはめる。そして資本主義の「無駄」をなくそうとする。しかし現実には経済を取り巻く資源や技術は一定ではなく、起業家の創造により絶えず変化する。
Four Hundred Years of Dynamic Efficiency | Mises Institute

経済学と物理学
人間はロケットを宇宙に送ることに成功したが、経済政策は有害無益のまま。人間は分子と違い経験から学ぶので、政策に対する反応は時とともに変化する。経済学は物理学とは異なる。人間はロケットを操作できても、人間を操作することはできない。それが経済学の教える原理だ。
Economics Is Not Rocket Science — It's Even More Complicated | Mises Wire

迷走する擬似科学
主流のマクロ経済学には深い欠陥があり、〔ポール・ローマーなど〕マクロ経済学者の一部ですらそれを認め始めている。その特徴は非常識なほど過度の集計、とっぴな政策提言、現実の人間に関係あるとは思えない高度な数学モデルなどだ。
3 Ways the Critics Get Praxeology Wrong

2018-07-11

自由が特権になる国

日本国憲法第22条は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」として、経済の自由を保障しています。「公共の福祉」による制限がどこまで認められるかは議論があるものの、間違いなくいえるのは、「自由が原則、制限は例外」ということです。

ところが日本の現実を見ていると、まるで逆に「制限が原則、自由は例外」であるかのような錯覚にとらわれることがあります。その典型が、地域を限定して規制緩和を進める「国家戦略特区」です。

加計学園問題では、特区の枠組みで同学園のみ獣医学部新設が認められたプロセスが不透明だと野党側は批判し、政府はこれを否定します。しかしそもそもこのような問題が起こるのは、教育、医療、農業といった分野を中心に規制の蔓延を許し、例外的にしか経済の自由を認めていないからです。

特定の分野とはいえ、規制が当然視され、自由がある種の特権になってしまっているともいえます。特権は必ず政治的腐敗の温床になります。

加計問題をきっかけに規制緩和を悪者扱いする風潮には、危うさを感じます。大切なのは、自由が特権になってしまっている日本のおかしな現状に気づくことです。(2017/07/11)

2018-07-10

人災としての河川氾濫

天災にはたいてい、人災の側面があります。しかも皮肉なことに、災害から国民を守るはずの政府が原因であることが少なくありません。九州北部を襲った豪雨災害も例外ではなかったようです。

記事によると、今回、福岡、大分両県を襲った記録的豪雨に伴う河川の氾濫は、2012年の「九州北部豪雨」と同じく、流倒木が川をせき止めたことが原因となりました。流倒木の多くはスギです。針葉樹のスギは根の張り方が広葉樹より浅く保水力が低いとされ、大雨が降ると山の表層ごと崩落します。

これらのスギは自然に生えたものではありません。スギの植林は戦後の国策でした。木材需要の増加を見越し、政府が補助金を出して山主に植林を推奨したのです。その結果、針葉樹林が全国各地に広がりました。

ところがその後、安い輸入材との競争が厳しくなり、日本の林業は衰退。森林の多くが間伐されないまま放置され、これも山の地表が崩れやすい要因になりました。

国土交通省の九州地方整備局や福岡県は5年前の豪雨災害後、川幅拡幅や川底掘削など公共工事で対応を進めていますが、いまだに完成されていない場所が多いそうです。「想定外」の豪雨に工事だけで対応するのは、費用も時間もかかりすぎます。

根本の原因である、スギ植林という国策がもたらした山の地盤の劣化を食い止めない限り、悲劇はまた繰り返されるでしょう。林業に対する政府の介入を減らし、もっと自由な産業にすれば、大切な資産である山を保全する意欲は自然に高まるはずです。(2017/07/10)

自治体サービスはなぜ改善しない

自治体サービスはなぜ改善しない
もし行きつけのバーガーキングでサービスや値段が気に入らなくなれば、近くのマクドナルドやウェンディーズに乗り換えればいい。自治体の公共サービスだとそうはいかない。町を引っ越すコストは大きいから「足による投票」はできない。だから公立学校はサービスを改善しない。
Voting with Our Feet? Local Government "Services" and the Supposed Tiebout Effect | Mises Institute

人を幸せにしない組織
今の社会でただ一つの組織だけ、他人を幸せにせず、自分だけを幸せにできる。それは政府である。政府は税を強制的に集め収入を得る。建前上、政府は市民に公共財(public goods)を供給するが、その価値が払った税を上回る保証はない。現実には税の方が公共サービスの価値をしばしば上回る。
Quotation of the Day... - Cafe Hayek

もう一つの民主主義
もう一つの民主主義がある。2〜4年にわずか1度でなく、24時間365日投票できる民主主義。それは市場経済だ。完全に自発・自律的で、重大な決定に優れる。経済の民主主義で投じた票は商品・サービスに直接影響を及ぼすが、政治の民主主義は長い目でほとんど物事を変えない。
The Marketplace — America's Other Democracy | Mises Wire

義務教育という牢獄
ドラマ「13の理由」で、主人公の女子高生はいじめから逃れる手段がなく、自殺に追い込まれる。米国で高校は義務教育のため、いじめられる生徒には事実上の牢獄だ。親の同意や屈辱的なお役所手続きなしには、学校やクラスを替われない。
Thirteen Other Reasons Why Schools Are Creating a Lost Generation

2018-07-09

「濡れ手に粟」は悪くない

「濡れ手に粟」は悪くない
相場変動などによる「棚からぼたもち」の利益はしばしば不労所得、不公正と批判される。しかし予想外の利益は未来の不確実性から生じるもので、生産のリスクに自分の財産をさらした株主に帰属するのが当然。予想外の利益や損失を否定すれば、起業家と市場経済は存在できない。
"Windfall Profits" Aren't a Problem | Mises Wire

起業促す政策を
高齢化が進むにつれ、起業に最も適した年齢層(20代後半〜40代前半)の割合は減る。その中で起業を増やすには政策が必要。個人・法人減税、キャピタルゲイン課税の軽減や撤廃、起業や事業拡大を楽にする規制緩和、資金調達を容易にする金融制度改革、移民規制の緩和などだ。
Demographics and Entrepreneurship: Mitigating the Effects of an Aging Population | Fraser Institute

商人の経済
慣習や命令に基づく原始経済には農民、兵士、行政官はいるが、商人(traders)はいない。一方、現代の経済には商人があふれる。原材料の商社、株取引のブローカー、多数の部品やサービスの提供業者、海運会社、ネット通販や家電量販店。取引が自発的である限り、あらゆる人に利益となる。
The Beauty of Trade, Contributing Guest | EconLog | Library of Economics and Liberty

資本主義なくして起業なし
アンケート調査によれば、起業には前向きなのに、資本主義は嫌いな米ミレニアル世代。この相反する感情(ambivalence)は、資本主義が価値の創造ではなく搾取だという誤解から生じる。資本主義とは自由な市場経済のこと。資本主義に対する過剰な規制は起業を促さず、むしろ妨げる。
More Proof Millennials Are Deeply Confused About Capitalism - Foundation for Economic Education

2018-07-08

マルクスの反動思想

マルクスの反動思想
マルクス主義とケインズ主義は社会変革をめざす進歩的運動ではなく、自由に向かう運動を阻止し国家の支配を再建しようとする反動的試みだった。ケインズ主義は(輸出は善、輸入は悪とみなす)新重商主義であり、マルクス主義は実際に、さらに容赦ない国家の支配を特徴とした。

社会主義という反動思想
社会主義は進歩思想ではない。産業革命がもたらす変化に対する反動思想だ。工場で多くの女性が働いて経済的に自立し、古風な道徳観の持ち主を不安にさせた。社会主義者エンゲルスは、妻が稼ぎ夫が家事をするのは馬鹿げているだけでなく、男らしさ、女らしさを奪うと嘆いた。

ナチズムの恐怖、社会主義の恐怖
ハンガリーの首都プダペストにある博物館「恐怖の館」は、ナチスドイツとソ連社会主義政権それぞれの占領時代に使われた拷問器具など、恐ろしい残虐行為について展示する。ここではあらゆる国家主義が悪だと学ぶことができる。どのように名乗ろうと大きな政府は人を抑圧する。

大義の代償
2012年に死去した英国の著名な歴史家、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)は1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、共産党員であり続けた。もしもソ連による社会主義の実験が成功していたら1500万〜2000万人といわれる犠牲者は正当化できるかと問われ、「できる」と答えたのは有名である。

資本主義を責めないで

ドイツ・ハンブルクで開催中の20カ国・地域(G20)首脳会議に対し、反資本主義を掲げるデモが過激化しています。記事によると、デモ隊は「格差だけを生む資本主義は機能しない」などと怒りの声を上げたそうです。しかし、もし彼らが本当に貧しい人々の立場から発言しているとしたら、資本主義に責められる理由はないはずです。

なぜなら資本主義は少なくとも産業革命以降、庶民の生活水準を大幅に向上させてきたからです。資本主義は富裕層を生みましたが、庶民の暮らしも豊かにしました。格差を生んだかもしれませんが、絶対的貧困も減らしています。問題は格差ではなく、貧困のはずです。

産業革命当時の工場労働は過酷だったかもしれません。しかしそこで働くことを選んだ人々は、農村でもっと貧しく、苦しい暮らしをしていたのです。資本主義は彼らを救いました。

資本主義における産業構造は、消費者、つまり私たち自身の必要や好みに応じて、絶え間なく変化します。企業には栄枯盛衰があり、その過程で賃金が下がったり職を失ったりする労働者も出てきます。それはたしかにつらいことです。しかし、だからといって政府が企業に賃下げや人員整理を禁止しても、解決にはなりません。むしろ将来払うツケを大きくするだけです。

痛みを小さくし、つらい期間を短くする最善の道は、企業がすみやかに成長分野に転じられるよう規制をなくし、労働市場を柔軟にすることです。すなわち、資本主義をさらに徹底することです。資本主義を責めたり恥じたりするのでなく、擁護しなければなりません。(2017/07/08)

2018-07-07

ベーシックインカムの桃源郷

ベーシックインカムとは、すべての人に無条件に、基本的な生活を営むためのお金を一律に支給する社会政策の構想です。メリットとして、生活保護の対象に含まれないワーキングプアの救済のほか、社会保障の簡素化による行政コストの節約などが主張されています。しかし、そううまくいくのでしょうか。

今週、「やさしい経済学」で連載されている「ベーシックインカムを考える」(萱野稔人・津田塾大学教授)が参考になります。大きな壁は財源です。すべての日本国民に1人当たり毎月15万円を支給すると仮定した場合、15万円×12カ月×1億2000万人で、総額216兆円もの財源が毎年必要となります。

これは現在の社会保障給付費(2016年度予算ベースで118.3兆円)の2倍近い額です。萱野氏が述べるとおり、これだけの財源を今の日本政府が確保するのはほぼ不可能でしょう。あらゆる社会保障の給付をベーシックインカムに一本化し、行政コストを減らしても、せいぜい2兆円程度しか節約できないといいます。

補足すると、貧しい人が本当に必要とするのはお金ではありません。豊かに暮らすために必要なのは、衣食住をはじめとする物やサービスです。お金はそれらを手に入れる手段にすぎません。お金を着たり食べたりはできません。

ベーシックインカムの財源を確保するために企業や個人に対し増税すれば、その分、経済の生産力は落ちます。物やサービスを生み出すのは企業だし、企業に必要な投資資金を直接・間接に提供するのは個人だからです。生産力が落ちれば、物やサービスの供給は減り、物価は上がり、同じ額のお金で買える物やサービスの量が少なくなります。

貧しさをなくすのに必要なのはお金ではなく、物やサービスであり、それを生み出す生産力だということを、ベーシックインカムを推進する論者は忘れています。ベーシックインカムに限った話ではありませんが、お金をばらまいてもユートピアはやって来ないのです。(2017/07/07)

貿易を戦争とみなす人々

関税は下がっても
TPP11関連法が成立、年内にも発効。農作物や工業品の輸出入の関税を引き下げる一方で、関税引き下げで「打撃」を受ける畜産農家への補助を条文に明記。関税引き下げで肉や野菜が多少安くなっても、農家への補助金のために増税されたら、果たして国民の暮らしは楽になるのか。
TPP11関連法が成立 国内手続き完了、年内にも発効:日本経済新聞

貿易を戦争とみなす人々
対米報復関税、7カ国とEUで3兆円に拡大。1930年代、恐慌に陥った米国はスムート・ホーリー法で2万品目の輸入関税を平均60%まで引き上げ。欧州などが一斉に報復関税を発動し米国の輸出は3年で半減。歴史の教訓を忘れ、政治家は貿易を戦争とみなす政策で世界を混乱に陥れる。
「自国第一」の連鎖 対米報復関税、7カ国・地域3兆円:日本経済新聞

貿易赤字は損という嘘
中国から米国への輸出額が全品目中トップでも、追加関税の標的にならないスマホなど携帯電話。付加価値の大半を商品企画・設計、販売・アフターサービスを押さえる米国が握るため。貿易赤字を損失とみなし非難するトランプ大統領の主張が、実は正しくないと知っている米政府。
深まる相互依存 国際分業、亀裂に身構え:日本経済新聞

貿易摩擦の行方
米中貿易摩擦で市場に緊張。上海株は1月の直近高値から2割超下落、日本株も連れ安。今後のシナリオ。⑴株安を食い止めようと金融緩和に走りバブル崩壊を招く⑵トランプ米政権がさすがにまずいと保護主義を撤回し世界経済危機を回避--。歴史上、⑵の劇的展開の例はあまりなし。
米中貿易摩擦、身構える世界 米制裁関税6日発動期限:日本経済新聞

2018-07-06

自由貿易って何?

自由貿易とは、国語辞典「大辞林」によれば、「国家が商品の輸出入についてなんらの制限や保護を加えない貿易。輸入税・輸入制限・為替管理・国内生産者への補助金・ダンピング関税などのない状態」をいいます。日欧が大枠合意への道筋を付けたという経済連携協定(EPA)は、どう見ても、この定義には当てはまりません。

記事によれば、交渉が難航していたチーズは、日本側が一定枠を設け15年かけて関税を無税にするそうです。15カ月ではありません。15年です。そのとき日本がどんな政権になっているか見当もつきませんが、チーズ好きとしては、政治環境の変化で関税ゼロが反故にならないことを祈るばかりです。

一方で、政府・与党は農業団体などの反発を和らげるため、今秋をめどに支援策をまとめ、12月の補正予算案編成をめざすそうです。15年間もかける関税撤廃に対し、あきれるくらい電光石火の早業です。しかも、もし15年後に関税がゼロにならなくても、このお金は返ってきません。

政治的事情に基づいて、政府が関税や輸入制限など多数の規制をかけるようでは、とても胸を張って自由貿易とは呼べません。むしろ次のように表現するのが適切ではないでしょうか。「国家が輸出入品目・数量・相手国・決済方法などを指定して貿易を統制・管理すること」。これは「管理貿易」の定義です。(2017/07/06)

2018-07-05

社会保険はなぜ行き詰まる

社会保険制度には「保険」という言葉が使われています。しかし政府が運営する社会保険は、本来の意味では「保険」ではありません。保険はもともと民間で発達したもので、経済合理性にかなった原則に基づいています。ところが民間保険をまねて作られた社会保険は、その原則を無視しています。これが先進国の多くで社会保険が機能せず、行き詰まっている理由です。

記事によれば、米国のオバマケア(医療保険制度改革法)が消滅の危機に瀕しています。収支悪化で民間医療保険会社の撤退が相次いでいるためです。全米で無保険者が急増する恐れがあるといいます。

日本を含め、民間の保険会社が販売する医療保険は、持病や既往症を持つ人は加入できなかったり、健康な人より高い保険料を支払ったりするのが原則です。病気が悪化・再発する恐れのある人と、健康な人が同じ保険料で加入できるのは不公平だからです。これを「保険技術的公平の原則」といいます。

ところがオバマケアでは、既往症による保険加入の拒否や、保険料の引き上げを禁止しました。その結果、健康状態の悪い保険加入者が増え、保険金支払いが急増。医療保険会社の収支は悪化し、オバマケア撤退が相次いでいるのです。

日本は国民皆保険制度の下、公的医療保険への加入が義務づけられているため、米国と違い、無保険者の増加という形で問題が表面化してはいません。しかし経済合理性を考慮しない本質は同じです。事実、健康な人も高い保険料を取られることに不満が強まっています。政府が運営する社会保険という20世紀型のスキームそのものが問われています。(2017/07/05)

2018-07-04

資本主義と宗教

資本主義と宗教
ウェーバーの主張と異なり、資本主義の隆盛をもたらしたのはプロテスタントの信仰ではなく、宗教離れである。江戸時代の日本が新教国オランダの商人を歓迎したのは、宗教色が薄かったから。プロテスタントの元祖ルターを生んだドイツはオランダの繁栄をよそに貧困に苦しんだ。
The Role of Calvinism in the Dutch Golden Age | Mises Wire

資本主義を生んだカトリック
プロテスタントが資本主義の精神を築いたというウェーバーの見解には問題がある。近代資本主義が始まったのは18〜19世紀の産業革命期ではなく、中世、特にイタリアの都市国家においてである。これら都市国家で複式簿記は生まれた。むろんプロテスタントではなくカトリックだ。
The Economics of Calvin and Calvinism | Mises Institute

カルヴァンの寛容
宗教改革の指導者ルターもカルヴァンも自由主義者ではなかったものの、国家権力と道徳の間に一線を引く役割を果たした。カルヴァンはプロテスタント他宗派に比べ商業に寛容な態度を示し、私有財産権を擁護した。拠点としたジュネーブには多くの商人が住みつき、商業が栄えた。
From the Reformation to Austrian Economics | Mises Wire

宗教的無関心の利点
宗教改革がもたらしたのは三十年戦争をはじめとする恐ろしい長期の戦争。近代の寛容な世界に至る道がこれしかなかったかは疑問だ。フランス、スペイン、イタリアで力を持ち続けたカトリック教会を打ち負かしたのは他の宗派ではなく宗教的無関心で、まったく血を流さなかった。
Hard Questions About the Protestant Reformation – Econlib

米原発閉鎖の教訓

米スリーマイル原子力発電所が運転許可の期限まで15年を残し、2019年に閉鎖されるそうです。退場を迫ったのは、安価なシェールガスの増産です。日本と同様、米国でも原発は政府の後押しで推進されてきましたが、目算が狂った格好です。ここから学ぶべき教訓は何でしょうか。

記事によれば、米国の原発の発電コストは2014年までの12年間で約35%上昇する一方、卸電力市場での取引価格の低下で、既存原発でも競争力の維持が難しくなっています。米国は世界最大の原発大国ですが、2010年代に入り、経済性の悪化を理由に閉鎖を決める原発が相次いでいます。

米国でも原発は自由な市場経済に基づいて経営されてはいません。政治力のある大企業が政府から融資保証の形で多大な支援を受け、建造します。それでもシェール革命のような市場の変化に対応できず閉鎖に追い込まれ、これまで直接・間接に投じた税金を無駄遣いすることになりました。政府を通じて原発に回したお金を民間で有効に使っていれば、エネルギーやその他の産業がより発展したでしょう。

日本でも米国のように電力自由化が進めば、発電コストの高い原発はさらに苦境に立つ可能性があります。エネルギー安全保障の観点から、政府が支援し続けるべきだという意見もあるでしょう。しかし結局、経済合理性を無視した事業は行き詰まり、利用者や納税者に負わなくてもよかったはずのコストを押しつけ、国の経済力を弱めます。これがスリーマイル原発の教訓ではないでしょうか。(2017/07/04)

2018-07-03

金密輸増が映すマイナス金利のひずみ

金の密輸入が急増しています。密輸であげた利益は反社会勢力の新たな資金源ともなっており、税関当局は監視を強化しているようです。しかし、取り締まりの強化だけでは解決できないかもしれません。今の財政・金融政策の方針が背景にあるからです。

密輸入が増えた原因は(1)消費税率の引き上げ(2)金価格の上昇--の2つとみられています。記事にあるように、日本国内の貴金属販売店では、金の投資用地金や金貨は消費税込みの価格で取引されるので、消費税を払わないで金を密輸入して国内で売却すれば、消費税分がもうけになります。2014年に消費税率が5%から8%に引き上げられ、密輸の「うまみ」が増した格好です。

今後、消費税率がさらに引き上げられたり、金価格が高騰したりするようだと、密輸はさらに増える可能性があります。どちらもその可能性は小さくありません。政府は消費税率引き上げを2019年10月に実施する方針に変わりはないとしています。金価格上昇を支える世界的な金融緩和は、米国が利上げに転じてはいるものの、地政学リスクもあり、先行きは不透明です。

密輸が増えるのは、国内で金の需要が高まっているからでもあります。銀行に預けていても手数料を差し引けば実質マイナス金利なら、金購入に回してみようと考える人が増えるのは無理もないことです。本人確認の基準などをさらに厳しくすれば、購入者の利便を損ないかねません。金密輸の増加は、出口の見えない金融緩和のひずみを映しているように見えます。(2017/07/03)

2018-06-30

輸入を許したら負けなのか

貿易交渉に関する政府の言い分を聞いていると、ある間違った考えが頭にすり込まれそうになります。それは「輸入は悪」「輸入を許したら負け」という考えです。

日経電子版によれば、日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)交渉で、EU側がチーズに対する関税の早期削減・撤廃を要求するのに対し、日本政府は「環太平洋経済連携協定(TPP)以上の譲歩はできない」と反論しているそうです。「譲歩」という表現が示すのは、「輸入を増やしたら負け」という考えです。

しかしもちろん、この考えは正しくありません。消費者の立場からみれば、購入できるチーズの選択肢が広がるのは、良いことです。悪いことでも負けでもありません。

消費者ではなく、国産チーズの生産・販売にかかわる農家や企業からみれば、チーズの輸入拡大は、たしかに「悪いこと」でしょう。しかし、だからといって政治の力に頼って輸入を妨げ、消費者の選択肢を奪う権利はないはずです。日本が市場経済の国なら、輸入を認め、市場競争で勝負するのが筋でしょう。

日本政府が欧州案を突っぱねられない場合、チーズの成分などをもとに関税上のチーズの区分けを細かくし、国産と競合しにくい品目のみ関税を撤廃する案が浮上しているそうです。やれやれと言いたくなります。

こうした政治的事情による細かい無数のルールを盛り込むから、貿易交渉は長い時間がかかり、協定の文書はとても読み通せない膨大なものになるのです。(2017/06/30)

2018-06-29

タンス預金は悪なのか

ビットコインなど仮想通貨が金融の最先端として話題となる昨今、タンス預金というといかにも時代遅れのダサいもののように思われています。それどころか最近は、マイナス金利政策の効果をそぐので、経済にとって悪だという意見も目にします。タンス預金って、そこまで責められなければならないものなのでしょうか。

本日付日経の「経済教室」(白井さゆり・慶応義塾大学教授)は、この問題について考えるヒントになります。マイナス金利政策の効果が今一つな日本と対照的に、スウェーデンでは効果が出ているそうです。その理由の一つは、スウェーデンはデジタル通貨社会への移行が進み、そもそもタンス預金にする現金が少ないからだといいます。

もし日本政府が通貨のデジタル化を推し進め、極端な場合、現金を廃止してしまえば、タンス預金はできなくなり、マイナス金利政策の効果は今より大きくなるでしょう。

ただし、それが私たち市民にとって良いことかどうかは別問題です。銀行が預金金利をマイナスにしたり、諸手数料を引き上げて実質マイナスにしたりしても、黙って耐えるしかないのですから。

言うまでもありませんが、お金は私たちの大切な財産です。金融政策に都合が良くないとか、ダサいとかいう理由だけでタンス預金を厄介扱いする風潮には、ちょっと待ったと言いたくなります。(2017/06/29)

2018-05-22

政府の嘘は国を滅ぼす

政治とは結果責任を問われる冷徹な行為であり、個人間の道徳を単純にあてはめることはできないという主張をよく目にする。しかしそれは浅はかな考えである。なぜなら政治も詰まるところ人間の営みであり、それゆえ人間普遍の道徳と無縁ではありえないからである。

米政治学者ジョン・ミアシャイマーの著書『なぜリーダーはウソをつくのか』(中公文庫)を読むと、そのことがよくわかる。

個人が嘘をつくことは不道徳な行為とされる。これに対し国際政治に関しては、政治指導者が嘘をつくのは賢いことであり、必要悪であり、状況によってはむしろ望ましいものであると考えられることが多い。

この場合の嘘とは、政治指導者が他国に対してつく嘘だと多くの人が想像することだろう。ところがミアシャイマーは意外な事実を明らかにする。筋金入りのリアリスト(現実主義者)を自認する彼は、最初は一般人と同じく、国際政治では国家間の嘘が日常的に見られるものだと信じていた。ところが調べてみたところ、「国家のリーダーや外交官たちは、思ったほど互いにウソはつかない」ことがわかったという。

その代わり、政治指導者は自国民に対しては嘘をつくことが多いとミアシャイマーは指摘する。たとえば米ブッシュ政権はイラク戦争の際、米国民に対し「イラクは大量破壊兵器を持っている」「サダム・フセインはオサマ・ビン・ラディンと密接な関係を持っている」といった嘘をついていた。

「中国や韓国は嘘を並べて世界に反日思想をまき散らしている」といった報道を読んで中韓けしからんと憤る人は、ミアシャイマーの指摘を噛み締めておくがよい。日本人に対して嘘をつく可能性が一番高いのは外国政府ではなく、日本政府なのである。

これに対し、政府が自国民に対してつく嘘は自国の「国益」のためだから構わないと擁護する向きもあろう。しかし、そこには二つの落とし穴がある。

第一に、嘘は国にとって利益になるのではなく、その反対に害を及ぼす危険もある。イラク戦争に際しブッシュ政権がついた嘘は、米国を泥沼の戦争という大災害に導いた。

第二に、嘘の使用が国内政治に飛び火し、重大なトラブルを起こす恐れがある。たとえば政治家やリーダーたちの行動について真実を知るのが不可能になってしまえば、有権者は彼らに説明責任を追求できなくなる。

中国の軍拡や北朝鮮の核ミサイル開発などについて日本政府は危機感を煽る。しかしそれがミアシャイマーのいう「恐怖の煽動」という嘘でないかどうか、冷静に見極めなければならない。国益を口実とした嘘の横行は道徳を腐敗させ、国を内側から滅ぼす。

(2018年2月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿。この号で連載終了)


>>騎士コラム

2018-05-21

人は誰でも残酷になる

評論家の石平が数年前に刊行した『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)という本がある。文化大革命や天安門事件、権力闘争、異民族征圧に際して生じた虐殺を暴露し、日本人と比べ人殺しが好きな中国人の真実を明らかにするという。

アマゾンに投稿された読者のレビューはどれも評価が高く、「やっぱり中国人の残虐さは日本人の比ではないようです」「ただ殺す人数が多いというだけではなく、その殺し方も非常に残虐で、特に女性に対するそれは想像するだけで吐き気がします」などと優越感に浸っている。

中国共産党をはじめ、支那人が多くの残虐行為を行ってきたことは事実である。しかしだからといって、日本人が支那人よりも残酷でないとは言えない。それを確かめるには「南京大虐殺」について調べる必要などなく、日本の歴史を少し知っていればよい。

戊辰戦争で明治政府軍は錦の御旗を掲げて会津若松に殺到し、会津戦争となった。だが官軍の所業は、とても正義にかなうとは言いかねるものだった。

星亮一『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)は郷土史家、宮崎十三八の描写を紹介している。

それによれば、若松城下に襲いかかった薩摩、長州、土佐、肥前の西軍は土佐兵を先頭に城下の各町に殺到し、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺され、あるいは砲弾の破片に当たって死んだ。

屋敷のなかは煙が充満し、火の手が迫る。そこにまた砲弾が炸裂した。至るところで阿鼻叫喚、修羅場はたちまちこの世の地獄となった。攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば、撃ちまくったという。まるで伝えられる「南京大虐殺」の有様そのものである。

戦後処理も非道だった。明治新政府が「賊軍の死骸には手をつけるな」と厳命したため、千数百の遺体が城下に放置され、野犬や鳥の餌食になった。

それだけではない。会津藩士とその家族は戦後、遠く青森県の下北半島に流され、老人や子供が飢えのためにバタバタと命を落とす。

大正時代に入っても日本政府は会津に冷淡で、鹿児島や山口には旧制高等学校が設置されたが、会津若松には高校はおろか専門学校もできなかった。「これほどの差別があるだろうか」と宮崎は憤る。

人間の残酷性は国籍、民族、宗教を問わない。時と場合により、誰もが残酷になりうる。日本人だけがその本性と無縁でいられるわけがない。他国人の残酷性をあげつらい、自国人のそれに気づかない底の浅い人間観にはあきれるしかない。

(2017年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-20

文化は政治で守れない

保守派の政治家はよく、日本の伝統文化を守れと言う。しかし文化とはつねに海外の異なる文化を吸収して発展していく本質的にグローバルなもので、伝統文化もその例外ではない。

先日の衆院選で、希望の党の小池百合子代表は「伝統や文化や日本の心を守っていく保守の精神」を強調した。日本のこころの中野正志代表は、伝統や文化を後の世代に引き継ぐため、対北朝鮮などで「強い日本」にしようと訴えた。

だが文化を政治や軍事の力で守ることはできない。政治や軍事にできるのはせいぜい国境の守りを固めることだが、文化は国境を越えるし、海外の文化を吸収しなければ豊かな文化はできない。

日本の伝統文化も例外ではない。大塚ひかり『女系図でみる驚きの日本史』(新潮選書)によれば、今でこそ日本古来の伝統の町とされる京都は、桓武天皇が都を遷した当時、朝鮮半島や支那から移住してきた渡来人であふれていた。7世紀の畿内の人口のほぼ30%が渡来人だったという。

朝鮮半島と日本の関係は古く、3世紀半ば、百済から多くの技術者や物資が渡来したとされる。さらに5世紀後半、秦の始皇帝の末裔と称する秦氏が嵯峨野・太秦周辺に居住。7世紀後半、百済と高句麗が滅亡すると、とりわけ日本と深い関係にあった百済からの亡命者が大挙して渡ってきた。

天皇の御所である大内裏自体、渡来人の秦河勝の邸宅だったという伝承もあり、広隆寺、伏見稲荷、松尾大社など秦氏の関わる寺社は京都に多い。

桓武天皇はそんな京都に長岡京、平安京を造営・遷都した。この造営・遷都も渡来人と関わりが深く、責任者だった藤原種継、藤原小黒麻呂はそれぞれ秦氏の母や妻を持つ。

桓武天皇が旧都・奈良から離れた渡来人の街、京都に都を遷した最大の理由も、母が百済の王族の末裔である渡来人だったからだ。桓武天皇は渡来人の血へのこだわりが強く、百済系や漢系など渡来人を六人も妻に迎えた。

妻の一人、百済永継はもともと藤原内麻呂の妻として真夏や冬嗣を生んだ後、桓武天皇に女官として仕えるうちに愛されて皇子を生む。歌人の僧正遍昭はその息子だ。冬嗣は藤原道長の先祖に当たる。

小倉百人一首で有名な遍昭、『源氏物語』の作者である紫式部の主人筋で愛人でもあった道長には、大塚が指摘するとおり、ともに百済系の血が流れているわけだ。

もし古代の日本が国境を閉ざし、朝鮮や支那からの渡来人を排除していたら、今の政治家が守れと叫ぶ伝統文化はそもそも生まれていなかっただろう。文化は政治で作ることも守ることもできない。

(2017年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-19

正義は一人で行え

勇ましい保守派知識人は、戦争などで公の義に殉じる者を称え、私利に拘泥する態度を軽蔑する。しかし生身の人間はそのように単純ではない。

幕末の桑名藩といえば、会津藩と並び、新政府軍から特に目の敵とされた藩として知られる。藩主松平定敬は戊辰戦争に身を投じた藩士たちを励ましながら各地を転々とし、苦難を味わう。

しかし森田健司『明治維新という幻想』(洋泉社)によれば、残された桑名藩の人々も同じように苦汁を嘗めた。

藩士たちは当初恭順を拒む。薩長率いる明治新政府の暴力は理不尽だと考えたからである。この考えは間違っていない。

新政府は定敬ら旧幕府の中で主導的立場にあった藩主から官位を剥奪して朝敵の汚名を着せたうえ、領地や財産を没収し、祖先の墓を祭ることさえ禁じた。旧幕臣の榎本武揚が怒りを込めて述べたように、「強藩の私意」に基づく不当な行為である。

屈服を潔しとしない桑名藩士たちは、城に籠もって戦い討ち死にする「守」か、開城して江戸に向かい、定敬と合流して再起する「開」のどちらを選ぶか神籤を引き、「開」に決定する。

ところが評定に参加できなかった下級藩士たちから「猛烈な反対意見」が寄せられる。その背景は、江戸に向かうにせよ、それを拒絶して藩に残るにせよ、藩から手当は一切出ないことだった。

「武士であっても、家族があり、生活がある。手当も出ないのであれば、目ぼしい私財のない下級藩士たち、そして家族は、野垂れ死ぬしかない」と森田は書く。背に腹は代えられず、幼い藩主を立て、新政府に恭順することを決める。

家老の酒井孫八郎は新政府の許しを得るため、箱館で抵抗を続けていた定敬を自ら訪ね、粘り強く説得した結果、降伏させることに成功する。

さてこの桑名藩の決断について、我が身や家族の安泰という私利を優先し、理不尽な暴力への抵抗という大義をかなぐり捨てた道徳的堕落だとは、さすがの勇ましい保守派知識人も言わないだろう。

もちろん自分の判断で公の義を優先し、それに殉じたければすればよいし、現にそうした桑名藩士もいた。箱館で最後まで抵抗し、藩の全責任を背負って切腹させられた森常吉は「なかなかに惜しき命にありながら君のためには何いとふべき」と辞世の句を遺す。

だが一度しかない自分の人生や家族のために命を惜しみ、強者に膝を屈することもまた、間違ってはいない。

正義は一人で自発的に行うものである。桑名藩はそれを理解していたように見える。個人の判断による不参加を許さない戦争は、正義の名に値しない。

(2017年10月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-18

「テロとの戦い」の欺瞞

主要国政府は首脳会議(サミット)などの場で毎度のように、「テロとの戦い」に向け結束を訴える。しかしテロの撲滅にはつながりそうにない。政治家や官僚にとって「テロとの戦い」とは、他の大義名分と同じく、権力闘争や利権確保の口実にすぎないからである。

青山弘之『シリア情勢』(岩波新書)によれば、「今世紀最悪の人道危機」と言われ、多数の難民を生み出す中東のシリア内戦は、「内戦」と呼ぶのは必ずしも適切でない。米露をはじめとする諸外国が軍事干渉を繰り返し、シリアの人々に代わって同国の行方を決定する存在となってしまったからだ。干渉の名目として掲げられるのが「テロとの戦い」である。

米国が主導する有志連合は2014年8月から9月にかけて、イスラム過激派「イスラム国」を殲滅するとして、イラク、シリア領内で空爆を開始した。しかし欧米諸国は最初からイスラム国に対し厳しい姿勢で臨んだわけではない。イスラム国は前年からアサド政権に対抗し活発に活動していたが、同政権を退陣に追い込みたい欧米諸国はこれを黙認した。

欧米諸国がイスラム国への対処に本腰を入れたのは、イスラム国がシリアからイラクへと勢力を拡大し、2014年6月に北部の都市モスルを制圧して以降だった。欧米諸国への石油の主要な供給地の一つであるイラクをめぐる経済安全保障が脅かされるに至り、ようやく腰を上げたのである。

米国はイスラム過激派以外の武装集団を「穏健な反体制派」と呼び、イスラム国と戦うよう積極支援した。ところがこの「穏健な反体制派」は、戦う相手であるはずのイスラム過激派と共闘関係にあった。

たとえば、米中央情報局(CIA)はヨルダンやシリア国内での「穏健な反体制派」への軍事教練を極秘で敢行し、ハック旅団、第十三師団、山地の鷹旅団といった組織を支援した。しかしこれらの勢力はイスラム過激派と共闘関係にあった。

「穏健な反体制派」支援は、「テロとの戦い」を根拠として正当化されていた。だが米国が支援した勢力はイスラム過激派と表裏一体の関係をなしていた。米国の政策は「テロとの戦い」のためにテロ組織を支援するという「マッチポンプ」だったと、青山は批判する。

先頃、イスラム国は有志連合が支援するイラク軍にモスルを奪還され、最高指導者バグダディが死亡したと報じられた。しかしもしイスラム国が滅びても、テロの脅威は消えない。むしろ欧米が支援した「穏健な反体制派」から新たな脅威が生まれる恐れがある。かつてCIAがソ連に対抗するためアフガニスタンで育てたムジャヒディン(イスラム聖戦士)が、テロ組織アルカイダになったようにである。

(2017年9月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿) 

2018-05-17

政治は道徳に干渉するな

日本を含め、経済大国と言われる国でも、国民が経済の道理を正しく理解しているとは限らない。それはやむを得ない面もある。私益の追求が社会を良くするという経済の道理は、人間の直感に反するからだ。

音楽ライブなどのチケットの高額転売が社会問題になる中、購入済みのチケットを定価で譲れるサイトを、音楽関連4団体が6月1日に開設した。同日の新聞各紙朝刊には意見広告を出し、「チケットは、お金もうけの道具ではありません」と転売業者を批判したという。

自分自身がチケットの販売収入で生計を立てていながら、「お金もうけの道具ではありません」などと宣言するのが滑稽だとは、どうやら思わなかったらしい。

もっとも転売業者が業界団体からだけでなく、一般のファンからも目の敵にされているのは事実である。どうしても行きたい公演のチケットを手に入れたり、行けなくなった公演のチケットを売ったりと、恩恵にあずかったことのあるファンは少なくないにもかかわらず、聞こえるのは非難の声がほとんどだ。

それは経済学者の蔵研也が『18歳から考える経済と社会の見方』(春秋社)で述べるように、マンデヴィルやアダム・スミスが明らかにした「私的な悪徳こそが実は公益につながっている」という逆説が、人間の直感に反するからである。

洋の東西を問わない。キリスト教社会ではかつて利子が禁じられ、イスラム教社会では今も禁止されている。重農主義など初期の経済学では農業だけが真の価値を生み出すと考え、江戸時代には士農工商の序列があった。蔵によれば、これは単に場所を移転して利益を得る商業活動は本質的に非生産的で、卑しく劣った拝金主義的な活動だという直感に基づく。

普通の人には、私益の追求が良い社会を作るという論理は不道徳だと感じられる。だからこうした論理は近代になるまで一般化しなかっただけでなく、学校で経済学を教わったはずの現代人も本心では納得していない。その感情がチケット転売問題などをきっかけにあらわになる。

この素朴な道徳感情を延長すれば、政治家が徳に基づき社会を監督すべきだという考えが導かれる。プラトンの理想とした「哲人王」の世界だ。

しかし具体的にどういった行為に徳があるかは、人の考えによってさまざまである。自由貿易か保護貿易か、大家族の復権か女性の社会進出か、市場競争か格差反対か、等々。答えを無理に一つに決めようとすれば、強い政治権力が必要となり、極端な場合、独裁政治に行き着く。

個人の価値観によって意見の分かれる問題に政治は干渉せず、自由に任せる。この近代の知恵を忘れないようにしたい。

(2017年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-16

右翼左翼の本性は同じ

右翼と左翼は正反対と世間では信じられている。たしかに表面上、異なる部分は多い。しかし本性は変わらない。一言でいえば、国家主義者である。

安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相はタカ派の右翼政治家として知られる。だが姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』(講談社学術文庫)が記すように、社会主義の強い影響を受けた。

戦前から戦中にかけ経済統制や総動員計画を立案・推進した、いわゆる革新官僚は、岸をはじめ、だいたい第一次世界大戦後から大正末にかけて帝国大学を卒業し、共産主義の全盛期に学生生活を送っている。岸以外では星野直樹、奥村喜和男、迫水久常らである。

これら革新官僚グループに共通するのは、若き日の彼らが「一般的風潮としてのマルクス=レーニン主義的な社会科学の影響」のもとにあったことだと同書は指摘する。

彼ら革新官僚は、マルクス・レーニン主義に由来する「歴史と時代とを社会科学的に分析する素養」を身につけ、世界史的な「全般的危機」に対応する「全機構的把握主義」の思考様式に慣れ親しんでいた。

後年、「反共の闘士」として名を馳せた岸は、マルクス主義や共産主義にいかれることはなかったと何度も断っている。しかし若き岸がかりにマルクス主義そのものに傾倒しなかったとしても、社会主義から強い影響を受けたのは間違いない。ただし社会主義は社会主義でも、北一輝の国家社会主義である。

岸は北の著作『国家改造案原理大綱』を、夜を徹して筆写したという。発禁となるこの著作は、クーデターによって日本を平等な社会にするシナリオが描かれている。私有財産制度を制限する一方、労働省新設で労働者の待遇を改善し、児童の教育権を保全するなどである。天皇大権を認める点を除けば、普通の社会主義と大差ない。

やがて岸は商工省から満州国に渡り、産業開発を推進する。そこで採られたのは、まさしく北一輝が示したような、国家社会主義的な立場に基づく統制経済モデルだった。「満州国経済建設要綱」は四つの眼目の一つとして、「経済統制(重要産業部門の国家的統制)」をあげている。

しかし利潤追求を否定したために、資本家が投資に尻込みし、産業開発は遅々として進まないという事態を招く。

岸の国家社会主義的な志向は戦後も続く。岸内閣では国民皆年金・皆保険など社会保障の基礎を築く。しかし現在、社会保障が財政危機の元凶となっているのは周知の事実である。

国家主義者は経済の道理に無知で、社会のさまざまな問題は政府が描いた設計図どおりに解決できると信じている。その浅はかさは右翼も左翼も変わりない。

(2017年6月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-15

軍事同盟の空論

保守派言論人は左翼の防衛論議を非現実的だと批判する。それはおおむね正しい。ところが困ったことに、保守派自身の防衛論議も同じくらい現実離れしている。

軍事アナリストの小川和久は『日本人が知らない集団的自衛権』(文春新書)で集団的自衛権を子供のケンカにたとえ、次のように説明する。

小学校の六年一組にガキ大将がいて、だれかれ構わず暴力をふるっていた。最初はみんな、自分一人で殴り返すなど反撃していた。これは「個別的自衛」である。

しかしガキ大将と一対一でケンカをしても、いつもやられてしまう。そこで一組のある少年が、どうすればよいか考えた末、信頼できそうな仲間を十人募り、六年一組の仲間にこう宣言する。

「今後、十人のうち誰かがガキ大将からいじめられたり殴られたりしたときは、十人全員がいじめられたり殴られたりした、と考えることにする。ガキ大将に対しては、十人全員でやり返すことに決めた」

十人の一人一人を十人全員とみなして、十人の集団としてガキ大将に対抗する。これが「集団的自衛」である――。以上が小川の説明だ。

しかし少し考えればわかるように、これは現実離れした空論である。

ケンカの相手はいつもガキ大将一人だけとは限らない。学校生活を送るうち、十人の仲間にそれぞれケンカの相手ができるだろう。仲間全体では十人分の「敵」を相手にしなければならない。

仲間の誰かがケンカを始めたら、自分に直接関係なくても、助太刀に駆けつけなければならない。その可能性が自分以外に九人分もある。学校の目的は勉強なのに、ケンカに忙しすぎて勉強どころではあるまい。

しかも小川によれば、「十人のうち体の弱い子や風邪気味の子は、『今回はやめておく』と遠くから見ているだけでもよいのです」という。間違いなく仮病が続出し、自衛集団はたちまち機能しなくなるだろう。

そもそも小川のこの方式に本当に効果があるなら、とうの昔に全国の小中学生が多数の自衛集団を作り、日本の学校からいじめはなくなっているはずだ。もちろん現実は異なる。小川の空想と異なり、右に述べたような理由により、学校における「集団的自衛」はうまく機能しないからだ。

学校に限らない。現実の軍事同盟でも、トランプ米大統領が北大西洋条約機構(NATO)などを批判するとおり、タダ乗りが横行しやすい。それ以上に厄介なことに、敵の数をいたずらに増やし、国の安全をむしろ危うくする。

現実を無視した軍事同盟の称賛はたくさんだ。「他国の問題に巻き込まれるような同盟関係をどの国とも結ばない」というトーマス・ジェファーソンの言葉を噛みしめたい。

(2017年5月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-14

怪物退治の愚行

感情的な反米論は間違っている。米国から学ぶべき点は多い。しかし問題は、米国の何を学ぶかである。最近の米国の行動の多くは、米国自身の良き伝統に反しているからだ。

評論家の小谷野敦は『なんとなく、リベラル』(飛鳥新社)で米国のイラク戦争を人道的に支持し、反対派に「ではフセインの独裁、反対派やクルド人への弾圧を放置しておいていいのか」と問う。ヒトラーによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を放置すべきだったのかと問う。

米国の伝統に学ぶなら、答えは「放置すべきだった」である。

自衛に無関係な「人道的」戦争はしないのが、米国の伝統である。第六代大統領ジョン・クインシー・アダムズは「諸外国が米国の志向する理念や理想に反する内政を行っても、他国の問題に干渉するのを慎んできた」と述べ、「米国は倒すべき怪物を探しに海外へ行ったりしない」と戒めた。

しかしその後、米国は戒めを破り、人道的戦争に乗り出す。結果は意図と違った。民主主義の大義を掲げ第一次世界大戦に参戦し、英仏がドイツに過酷なベルサイユ条約を強いるのを結果的に手助けし、ヒトラーの台頭を招く。ホロコーストはその帰結である。

それだけではない。ヒトラーを倒すために組んだスターリンはヒトラー以上の大虐殺をやってのけ、ヒトラーから救うはずだった東欧を事実上支配し、ナチス・ドイツに劣らぬ恐怖政治を行った。

イラン・イラク戦争では、米政府はイランのイスラム原理主義は許せないとして、イラクのフセインを支援する。軍事介入が独裁者フセインを育てたのだ。その後イラク戦争でフセインを倒したところ、政治的不安定から過激組織イスラム国(IS)の台頭をもたらした。

小谷野は現実を見ない九条護憲論を批判する。それは正しい。しかし軍事介入で世界を平和にできると信じる今の米国の外交政策は、同じくらい現実離れしている。しかも世界の人々にかける迷惑は、比べものにならないほど大きい。

独裁者はその国の人々を苦しめる。しかしだからといって、独裁者を倒すために米国民に戦争を強いるのは正しくない。政府の役割は国民の生命・財産を守ることであって、自衛に無関係な独裁者打倒はその役割を超え、むしろ本来の使命に反する。

独裁者に虐げられる人々を助けたいと思う米国人は、個人として義勇兵や資金援助の形で加勢すればよい。他の米国人は自分の意思に反して生命や財産を失わずに済む。戦争はそのような選択の自由を奪う。

軍事不介入の伝統を忘れ、怪物退治の愚行を繰り返す米政府を批判することは、反米ではない。日本政府の誤りを批判することが反日でないようにである。

(2017年4月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-13

もう一つの平和ボケ

自衛権は国家の権利だから、軍隊を持つのは当然と言われる。もしそうならば、国民は主権者なのだから、個々の国民にも自衛のための武装の権利があるはずである。むしろ個人の自衛権は国家の自衛権に先立つと言える。

ところが個人の武装を当然の権利として認める米国と違い、日本の保守派文化人はその道理を理解しない。自衛といえば国家の専売特許と思い込み、その結果、筋の通らない珍妙な小説を書いたりする。それが百田尚樹『カエルの楽園』(新潮社)である。

蛙の国の寓話で左翼の平和主義を揶揄した本作には、重大な矛盾がある。楽園ナパージュに住む蛙は体に毒腺があるが、争う力を持つことを禁じる「三戒」に従い、子供のころに潰してしまうという。無防備につけ込み、隣国から凶暴な牛蛙が襲う。そこまではいい。

問題はその後だ。牛蛙は楽園の蛙を次々に食う。しかし食われた蛙の体内には、毒腺を潰しても、毒があるはずだ。

現実の世界でも、毒のある蛙を犬や猫が食うと、呼吸困難、麻痺、痙攣などを引き起こし、死ぬこともある。まして楽園の蛙の毒は、巨大な鷲の目を潰すほど強烈という。

ところが楽園の蛙を食った牛蛙は何ともない。本来なら毒にあたって死ぬか弱るかして、他の者は恐れをなして逃げ帰り、楽園は無事守られるはずだ。

もちろんそんなハッピーエンドにしてしまっては、「平和ボケ」の左翼を嘲笑したい作者の意図に反する。だから楽園の蛙が毒蛙であるという設定を無視し、牛蛙に勝たせなければならない。矛盾であり、物語として破綻している。

おかしな点はまだある。楽園の蛙たちは牛蛙の襲来を前に、反撃すべきか否か国会で激論を交わす。この描写は無意味だ。国会で決めようが決めまいが、体には反撃の毒があるのだから。

作者は政府が防衛を独占し、個人に丸腰を強いる日本社会の現実に引きずられ、自身で考えた物語の設定を忘れたらしい。これは、自衛は政府に任せてさえおけばいいという、別の意味での「平和ボケ」にほかならない。

自衛は政府に任せておけばいいという考えは、なぜ平和ボケか。理由はおもに二つある。

まず、個人が銃などで武装しなければ、治安の悪化する昨今、凶悪犯から身を守れない。警察はあるが、呼んでも間に合わない。腕力のない女性や老人には特に武器が必要である。銃を持った民間ボディーガードに任せてもいい。

次に、個人の安全に脅威となるのは外国の軍隊とは限らない。歴史を見れば、むしろ自国の軍隊や警察に生命・財産を脅かされる場合が少なくない。個人が武装すれば、政府の暴虐を未然に防げるだろう。むろん外敵の侵入にも有効である。

(2017年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

著者 : Andrew F Branca
Law of Self Defense LLC
発売日 : 2016-04-26

2018-05-12

正義に他人を巻き込むな

正しいと信じることは、自分一人で行うべきである。しかし世間には、自分の正義を他人に無理強いし、巻き込まなくては気の済まない厄介な人物が少なくない。

歴史上、そうした厄介な人物の中でも最悪な部類の一人を選ぶとしたら、アレクサンドロス大王だろう。歴史学者の森谷公俊は『アレクサンドロスの征服と神話』(講談社学術文庫)で飾らぬ実像を描く。

アレクサンドロスは自らの出生を最高神ゼウスに結びつけ、それゆえ神と人間の間に生まれた伝説の英雄たちと同じ血を引くと信じていた。アレクサンドロスはこうした英雄たちに憧れ、模倣し、凌駕しようとした。

特に憧れたのは、トロイ戦争の英雄アキレウスである。あるとき、アキレウスの有名な行為を模倣する機会が訪れた。ガザの町を降した際、生け捕りにしたペルシャ人指揮官のかかとに皮紐を通し、戦車につないで町の周囲を引きずらせたのである。アキレウスはトロイの大将ヘクトルを討ち取った際、同じ残酷な仕打ちをしたとされる。

アレクサンドロスはまた、強烈に名誉を求めた。インド遠征からの帰途、ゲドロシア砂漠の横断を決行し、二カ月に及ぶ死の行進を繰り広げる。過去に横断を成し遂げた、ペルシャ建国の父キュロス二世などの偉大な先人に対抗意識を燃やしたからである。アレクサンドロスの名誉心は満たされるだろうが、付き合わされる兵士たちはたまったものでない。

同書で紹介されるオリバー・ストーン監督の映画『アレクサンダー』で、アレクサンドロスは遠征がすでに八年に及ぶにもかかわらず、インダス川の前で兵士たちにさらなる前進を呼びかける。

側近は「まだ東へ進み、蛮族どもと戦い、象という怪物のいる地で百もの川を渡れと?」とたしなめるが、アレクサンドロスはきかない。「お前たちは実直さを失って堕落した」と部下を叱りつけ、「私は歩み続ける」と言い切る。

進むことが正義だと信じるのであれば、一人で行けばよい。しかしもちろん、アレクサンドロスはそうしない。反対者を処刑して不満を抑えつけ、帰還を望む兵士たちを無理やり道連れにするのである。

カントが説いたように、道徳的行為は自由意志に基づく。どれほど崇高な目的のためであろうと、強制された行為は道徳的といえない。まして目的が正義の名を借りた名誉心の満足でしかないとしたら、明らかに道徳に反する。

森谷はアレクサンドロスを「途方もないエゴイスト」と正しく断じるが、近代以降、多くの知識人は東西文明融合の旗手などと持ち上げた。政治とは他人への強制であるにもかかわらず、政治指導者を道徳的英雄と崇める浅はかな言論は後を絶たない。

(2017年2月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-11

国家の虚構

他人の財産を個人が奪えば窃盗犯だが、国家は税の名目で堂々と行う。国家には自衛権として武力の所持・行使が認められるのに、国家の主体であるはずの個人には許されない。これらの差別に合理的な根拠はない。

今年生誕九十年だった作家の星新一は、生涯に千一篇を超えるショートショート(超短編)を著した。子供にもわかるやさしい言葉で書かれているが、ユーモアに包み、右に述べたような国家の虚構を暴く作品が少なくない。『マイ国家』(新潮文庫)の表題作はその一つだ。

預金勧誘の銀行員がある家を飛び込みで訪ねると、家の主人からしびれ薬を飲まされ、お前は捕虜だと言い渡される。とまどう銀行員に主人は宣言する。「ここは独立国なのだ」

主人は大まじめに語る。「国家はどういうものか知っているか。一定の領土と、国民、それに政府つまり統治機構。この三つがそろっているもののことを言う。領土とはこの家、国民とはわたし、政府もわたし。小さいといえども、立派な国家だ」

小説でしかありえない話ではない。国際的に国家と承認されてはいないものの、欧州の北海に浮かぶ「シーランド公国」は人口4人。1967年、英国の退役軍人が公海上にある英国の海上要塞を占拠し、独立を宣言した。人口1人の国家があながち現実離れしているとはいえない。

「マイ国家」の主人、いや国家元首は、銀行員に日本の最近の「国情」を尋ねる。銀行員が政府は生活保護や健康保険、年金などに金を出していると話すと、「元首」は「まったく、ばからしくてならない」と言い、こう続ける。

「政府とは、ていさいのいい一種の義賊なんだな。しかも、おっそろしく能率の悪い義賊さ。大がかりに国民から金を巻きあげる。その親分がまずごっそりと取り〔略〕末端まで来る時には、すずめの涙ほどになる。それを恩に着せながら、貧民や病人や気の毒な人にめぐんでやるというしかけだ」

政府とは国民の財産を奪う盗賊だというこの考えも、突飛なものではない。インド仏教では、国王を泥棒と同列に見たという。人の物を取り上げる点で変わりないからだ。泥棒が非合法に取る一方、国王は税金という形で合法に取るのが違うにすぎない。

刃物を持ち出す「元首」に銀行員が凶器はしまえと言うと、こう答える。「凶器とはなんだ。軍備と言え。自衛権は国家固有のもので、そのためには必要な軍備の所持と行使とがみとめられている」

国民の代理にすぎない政府が武力を独占し、国民自身が丸腰を強いられる矛盾を衝いている。国家は自衛のために軍隊を持てと言う論者はまず、米国のように、個人の武器所有も認めなければならない。

(2016年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-10

家族の偶像

子供の虐待や離婚の増加などが報じられるたびに、「家族の絆が薄れている」「家族の伝統を取り戻せ」という声が巻き起こる。しかし今の私たちが思い描く「古き良き日本」の家族は、過去の現実とは大きくずれている。

大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(新潮社)は、古典文学に描かれた昔の日本人の日常を紹介し、家族をはじめとする「古き良き日本」がいかに美化された虚像であるかを浮かび上がらせる。

江戸時代は子供を大切にするどころか、捨て子が盛んだった。捨て子を育てた者にお上や共同体から養育料が払われる制度があり、これを悪用する「貧困ビジネス」がはびこった。養育費を受け取り、ろくに乳を飲ませずに死なせてしまう。井原西鶴『日本永代蔵』にも「乳呑子を養ひてほし殺し」という「身過」(世渡り)について記述があるという。

児童虐待も日常茶飯事だった。鶴屋南北『東海道四谷怪談』の主人公、民谷伊右衛門の母であるお熊は、わずか五六歳の継孫を一日中蜆売りに出し、売上が少ないと言って怒ったりつねったりする。

このお熊は三度も結婚を繰り返しているが、実は当時は非常に離婚が多かった。それも死別によらない離婚が目立つという。

江戸時代初期、日本のキリスト教信徒向けに書かれた『どちりなきりしたん』で、秘蹟を授けられる際に守るべき七つの決まりのうち、「ひとたび結婚したら離婚してはいけない」という決まりに対してだけ、弟子は「是あまりにきびしき御定也」と他に例を見ないほど強く反発する。

「当時の日本人にとって『離婚』を禁じられることはこれほどまでに納得できないことだったのです」と大塚は述べ、「江戸時代の家族のもろさ」が捨て子や虐待の多さの一因ともなっていたのだろうと記す。

江戸時代の家族が「もろい」というと意外かもしれないが、そもそも結婚して夫婦で子育てするといった「家族」を多くの人が作れるようになったのは17世紀頃(江戸時代初期)からという。それ以前、結婚できる人は限られていた。

『一寸法師』『ものくさ太郎』など多くの物語で、「結婚して子供もたくさんできました、めでたしめでたし」と終わるのは現代人には陳腐に見えるが、特権階級しか家族を持てない時代にあっては「究極のハッピーエンド」だったと大塚は指摘する。

昔から、人が家族を持ち、維持するのは生半可なことではなかったのである。ありもしない「古き良き日本」の偶像に縛られるより、結婚は難しいのがあたり前で、結婚できても夫婦や親子のごたごたはあって当然とわきまえ、肩の力を抜くほうが、幸せな人生が送れるに違いない。

(2016年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-09

「日本人」の幻想

民進党の新代表に蓮舫参院議員が選出されたが、代表選の最中、同議員に日本と台湾の「二重国籍」疑惑が持ち上がり、騒動になった。お粗末な話だ。蓮舫氏ではなく、騒いだ保守派メディアや言論人がである。

蓮舫氏が二重国籍にあたるかどうかは、日本が台湾(中華民国)を国家として承認していないことも絡み、判定が微妙である。しかし、かりに二重国籍だったとして、何が問題だと言うのか。世界では政治家の二重国籍は珍しくない。

米カリフォルニア州のシュワルツェネッガー元知事は米国とオーストリア、英国のジョンソン前ロンドン市長(現外相)は英米のそれぞれ二重国籍者だし、ペルーのフジモリ元大統領(ペルーと日本)、タイのアピシット元首相(タイと英国)など一国のトップもいる。

批判者の一部は「嘘をついているから経歴詐称だ、公職選挙法違反だ」と主張した。しかし選挙で「二重国籍ではない」と明言していない以上、経歴詐称にはあたらない。

二重国籍をことさら問題視し、叩く根底には、二重国籍者は「純粋」な日本人ではなく、だから信用できないという感情があるように思われる。だがこの感情は、国民というものに対する誤解に基づく。

東京経済大学准教授の早尾貴紀は『国ってなんだろう?』(平凡社)で、「日本人」とは明治以降、国民国家が形成される中で形づくられ、それ以降「日本人」という民族があるかのように思われるようになったと述べる。別に偏向した見方などではなく、西洋の国民国家にも共通する歴史的な事実である。

明治政府は誰が「国民」なのかはっきりさせるために、初めて全国的な戸籍を作った。明治5年の壬申戸籍である。登録対象とされたのは、横浜や神戸の居留地の外国人を除く皇族以外で、そのとき日本に居住していた全員だった。

当時の日本の範囲は、北海道から本州、四国、九州まで。その中には朝鮮半島や中国大陸、東南アジアなどから来ていた人々とその子孫も多数いた。江戸時代もアジアとは交易などで人の往来があったからである。これらの人々も無差別に戸籍に登録された。

その後の戸籍の継続は、戸籍を持つ親の子が戸籍に登録されるという血統主義の考え方がとられた。しかし最初の壬申戸籍に登録された「元祖日本人」は、住んでいた者全員だった。だから血筋としての純粋で均質な「日本人」の起源というものはないし、「日本人」という民族があったわけでもないと早尾は指摘する。

つまり「日本人」とは政治の産物であり、純粋な日本人とは幻想なのである。政治がすべての世の中では、人々は政治の産物を崇める。それは誤りであり、危うい。

(2016年10月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-08

歪められた武士像

文学や歴史の古典は、現代人の見落としがちな人間の真実を教えてくれる。ただし、そうした書物の内容は後世の政治イデオロギーによって歪曲されて伝わる場合が少なくないから、注意が必要である。

リオデジャネイロ五輪の報道で「武士」や「武士道」という言葉をしばしば目にしたが、武士ほど真の姿が歪められたものも少ないだろう。清水多吉『武士道の誤解』(日本経済新聞出版社)は、そうしたさまざまな歪曲・捏造の例を挙げる。

「七生報国」は、楠正成兄弟が湊川で討死した際の言葉が由来とされる。『太平記』によれば、自害に先立ち兄正成が弟正季に何か言い残すことはないかと尋ねると、正季は「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。この言葉が「七度生まれ変わっても国に奉公したい」と改められ、戦前・戦中を通じてもてはやされることになった。

しかし実は、切り捨てられた言葉がある。弟正季の右の言葉を聞いた兄正成は同感しつつも、「罪業深き悪念なれども」、つまり「罪業にまみれた悪い考えではあるけれども」と釘を刺すのである。

仏教思想に影響されたこの言葉は、殺生を生業とする武士の自省を示し、物語に深みを増す。だが国民を戦争に駆り立てる軍国主義イデオロギーにとって、殺生が「罪業」などという考えは邪魔でしかない。かくて「七生報国」だけが高らかに謳い上げられたのである。

武士道を語るうえで必ず取り上げられる著作が山本常朝『葉隠』である。しかしこの書物は江戸時代には佐賀一国を出ることはほとんどなく、一部を除いてその存在すら知られていなかった。したがって、相良亨(東京大学名誉教授)のように『葉隠』で江戸中期の武士道を論ずるのはまったくの見当違いと清水は批判する。

『葉隠』が世に広まるのは、太平洋戦争直前に和辻哲郎らの校訂で岩波文庫に入ってからである。「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」という言葉が有名だが、文中に何度も出てくるにもかかわらず、和辻が『葉隠』論で無視した別の側面があると清水は指摘する。

それはこういう発言が示す側面である。「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなことなり」

主君のために死ぬのも人間かもしれないが、「好いた事」をして暮らしたいと願うのははるかに人間臭い。常朝は「我は寝ることが好きなり」とまで述べている。

国家主義や軍国主義のイデオロギーにとって、古典の権威は便利でも、そこに描かれた人間の真実は都合が悪い。だから歪曲がなされる。騙されないようにしたい。

(2016年9月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-07

「文明の衝突」の嘘

イスラム過激派によるテロや難民問題をきっかけに、かつて米政治学者ハンチントンが唱えた「文明の衝突」は避けられないとの説が勢いを増している。しかしそれは誤りである。文明・文化の衝突と呼ばれる現象は、実は国家・政治の衝突にすぎない。

現在最も深刻な国際問題の一つであるアラブとイスラエルの対立は、「イスラム教とユダヤ教の宗教的対立」「聖書時代に遡る宿命」などと言われる。だがそれは間違っていると、中東政治を専門とする臼杵陽は『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)で指摘する。

1948年のイスラエル建国以前、アラブ世界の圧倒的多数派はアラビア語を話すスンナ派イスラム教徒だったが、少数派の中に同じくアラビア語を話すユダヤ教徒が存在した。つまり同じアラブ人(アラビア語を話す者)でも異なる宗教を信仰する者がおり、しかも暴力的な紛争につながることはなかった。

この事実は、アラブとイスラエルの対立が決して二千年来の宿命の対立などではないことを示している。それでは、現在の対立をもたらした原因は何か。それは近代になってナショナリズムのイデオロギーで形成された民族意識だと臼杵は述べる。

本来の宗教文化と近代ナショナリズムは異質である。臼杵によれば、次のような史実がある。

エルサレムにはイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の共通の聖域があるが、7世紀にイスラム教徒がエルサレムにやって来たとき、この聖域は荒れ放題だった。なぜなら離散を前提に形成されたユダヤ教の信仰によれば、聖域に入ることは神によって禁じられていたからである。

敬虔なユダヤ教徒からすれば、聖域を排他的に占有することは意味のないことだった。このため、聖地を巡る争いが現在のような領土問題的な紛争をもたらすことはなかった。

ところが民族と領土を結びつける19世紀的な新しい考え方であるナショナリズムが登場すると、特定の土地は特定の民族あるいは国家に属さねばならないと考えられるようになる。イスラエルを建国したシオニストと呼ばれるユダヤ人たちからすれば、イスラム教徒が後からやって来てユダヤ教の聖地を占拠するのはけしからんという話になってしまう。

これが現代のアラブとイスラエルの対立をもたらした。文化の違いが暴力的な「衝突」を引き起こすわけではない。土地を領土として排他的に囲い込むナショナリズムこそ、真の原因なのである。

日本でも、シナ人には中華思想があるから侵略者だという言論を目にする。しかし少なくともこれまで、シナが日本を侵略したことはない。文明論を粧った法螺話に惑わされてはいけない。

(2016年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-06

沖縄独立という選択

大東亜戦争はアジア諸国の独立を助けたと、保守派言論人は胸を張る。その当否はともあれ、もし独立を望む人民を助けることが義にかなうと信じるのであれば、今こそ助太刀すべき人々がいる。沖縄県民である。

周知のように同県では先月、うるま市の女性会社員の遺体を遺棄した疑いで元米海兵隊員の米軍属が逮捕される事件が発生。米軍基地の集中を改めない中央政府への不満があらためて強まっている。

これに伴い注目されるのが、かねて一部で主張される沖縄独立論である。沖縄タイムズが3月に報じたところによると、現役大学生への意識調査で、政治、経済、安全保障が成り立つならば沖縄独立に賛成と答えた学生の割合が38%を占めたという。

沖縄独立など荒唐無稽と思うかもしれない。しかし少なくとも歴史的、法的には根拠のある話である。琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』(高文研)に詳しい。

ところが維新後、明治政府は武力を背景に、琉球を沖縄県として強制的に日本へ併合する(琉球処分)。琉球側は密航して清国政府に直訴するなど救国運動に手を尽くし、一時は国際問題にまで発展するが、日清戦争での清の敗北で万策尽きる。約500年続いた琉球王国は滅んだ。

この琉球併合は法的にどう評価すべきか。同書によれば今日の国際法研究者は、琉球が3カ国と結んだ修好条約を根拠に「国際法に照らして不正だ」との見解を示す。

それによると、3条約締結の事実から、琉球は国際法上の主体であり、日本の一部ではなかったといえる。その琉球に対し、軍隊や警察が首里城を包囲し、沖縄県設置への同意を尚泰王に迫った日本政府の行為は、当時の国際慣習法が禁じた「国の代表者への強制」に当たる。

しかも、慣習法を成文化したウィーン条約法条約51条を基に、さかのぼって主権の保障を要求できるという。つまり沖縄独立論には十分な正当性がある。

もちろん政治的には困難だろうし、沖縄内でも独立論はまだ少数にとどまる。しかし沖縄の意思が無視される状況が続けば、現実味を増す可能性はある。スコットランドの独立運動など世界にも同様の潮流がある。

かつてアジア諸国が独立を果たした歴史を称えるなら、沖縄が自らの意思で同じ道を選ぶことに反対する理由はないはずである。

(2016年6月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-05

不偏不党は正しいか

放送法問題をきっかけに、ジャーナリズムの「政治的公平」が注目されている。日本ではこの標語やマスコミの「中立」「不偏不党」は当然と思われているが、海外ではそうではない。そればかりか、日本でもかつてはなじみのない考えだった。

国連人権理事会が任命した特別報告者のケイ米カリフォルニア大アーバイン校教授が先月、訪日調査を終え、放送事業者に「政治的公平」を求めた放送法4条の規定を根拠に高市早苗総務相が放送局の電波停止に繰り返し言及した問題について、「大いに懸念を抱いている。4条を廃止すべきだ」と述べた。

ジャーナリズムの「政治的公平」が絶対だと信じる日本人は、ケイ教授の発言に驚いたことだろう。しかし海外では、「政治的公平」やそれに似た「中立」「不偏不党」は、ジャーナリズムにとって必ずしも良い意味の言葉ではない。

まず「政治的公平」はもともと、電波帯域の有限希少性に支えられた、放送ジャーナリズム特有の原則である。このためデジタル時代に入り、その必要性が薄れている。米国では規制緩和の一環として、連邦通信委員会による「公平原則」が撤廃された。

次に「中立」は、西洋で市民革命後、各新聞が政治抗争の中間に立ち位置を求めるため標榜した。しかし中間が真ん中だとすると、世の中が左に寄れば真ん中も左に傾き、右に寄れば右に傾くことになる。20世紀に入りこのことが反省された。早稲田大学ジャーナリズム教育研究所編『エンサイクロペディア現代ジャーナリズム』(同大学出版部)によれば、19世紀ロンドンでは多くの新聞が「中立」を掲げたが、現在ではほぼ皆無という。

日本の新聞に多い「不偏不党」は、当初から存在したわけではない。明治前期までは自由民権運動を背景に、政治的立場をはっきり主張する「大新聞」が力をもっていた。だが政府の厳しい言論統制で衰退していく。

それを決定的にしたのが、大正7年に起こった白虹事件である。米騒動の報道禁止に抗議し論陣を張る大阪朝日新聞に対し、寺内正毅内閣は記事中の「白虹日を貫けり」の一句が皇室の尊厳を冒瀆するものとして告発。鳥居素川編集局長や長谷川如是閑社会部長が退社に追い込まれた。

同紙がこのとき公表した「編集綱領」に「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し……」という文言があった。「不偏不党」とはジャーナリストの志を謳う理念ではなく、権力に恭順の意を示す転向声明だったのである。

国連の圧力で放送法が改正されたとしても、「中立」「不偏不党」の誤りに気づかない限り、日本のジャーナリズムは権力の監視という役割において半人前のままだろう。

(2016年5月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-04

演歌は日本の伝統か

前号の本欄で、「江戸しぐさ」という偽りの伝統文化について書いた。同様のインチキや誤りは後を絶たない。

自民、民主、公明など超党派の有志議員が3月、演歌や歌謡曲を支援する議員連盟を結成したという。産経新聞が「日本の伝統文化の演歌を絶やすな! 超党派『演歌議連』発足へ」という見出しで報じた。

発起人会合では、今村雅弘元農林水産副大臣が「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲をしっかり応援しよう」と呼びかけ、出席した歌手の杉良太郎が「演歌や歌謡曲は若者からの支持が低い。日本の良い伝統が忘れ去られようとしている」と危機感を表明し、支援を求めたという。

しかし、伝統が「ある集団・社会において、歴史的に形成・蓄積され、世代をこえて受け継がれた精神的・文化的遺産や慣習」(大辞林)だとすれば、演歌を日本の伝統文化と呼ぶのは正しくない。その事実を、輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)は詳しい調査に基づき明らかにする。

たしかに、演歌という言葉そのものは、明治時代に生まれた古いものである。しかし輪島によれば、本来の演歌とは自由民権運動の流れをくむ「歌による演説」であり、社会批判と風刺を旨とする「語り芸」だった。現在のように、演歌という言葉を「日本的」「伝統的」なレコード歌謡を指すために用いるようになったのは、昭和40年代(1960年代半ば)以降にすぎないという。

輪島によれば、レコード歌謡の一ジャンルとしての演歌を「発明」したのは、1966年にデビューし70年代にかけて若者を中心に人気を誇った小説家の五木寛之である。最初期の作品「艶歌」は、五木が小説家デビュー前に作詞家として専属契約していたレコード会社をモデルとしている。

また輪島によれば、演歌は「日本的」な要素のみで成り立っているものではない。森進一のしわがれ声はジャズの大御所ルイ・アームストロングを意識したものだし、都はるみの「唸り節」は驚くことに、ポップスの女王と呼ばれた弘田三枝子の歌唱法に由来するという。

だから演歌はダメだと言いたいわけではない。輪島の指摘から学ぶべき教訓は、文化を守るという大義名分のために、誤った事実に基づく権威づけをしないことである。それは守ろうとしている文化そのものに対する誤解を広めることになる。

もう一つ大切なのは、日本文化を守るという名目で、外国文化の流入を妨げないことである。日本文化は私たちが想像する以上に、さまざまな外国文化を取り入れて豊かに実っている。偏狭なナショナリズムにとらわれて外国文化を排除すれば、日本文化はやがてやせ衰えてしまうだろう。

(2016年4月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-05-03

偽造された伝統

保守派の政治家や言論人は、「日本の伝統を守れ」と言う。この主張には二つの問題がある。

まず、伝統はつねに正しいとは限らない。かつて奴隷制は多くの国で大昔から続く伝統だった。次に、巷間いわれる伝統には、近現代の産物にすぎないものが少なくない。今回はこの二番目の問題について記す。

近年喧伝された伝統の一つに、「江戸しぐさ」がある。江戸時代の商人・町人から伝わるとされる作法で、小中学校の道徳教材にも掲載されている。ところがこの江戸しぐさなるもの、たかだか三十数年前に創作されたものだったのである。

江戸しぐさが歴史偽造であることは、歴史研究家の原田実が二冊の著書『江戸しぐさの正体』『江戸しぐさの終焉』(ともに星海社新書)で明らかにしている。

たとえば、江戸しぐさを代表する仕草の一つに、「傘かしげ」がある。雨の日に狭い路地ですれ違うときに、お互いの傘を反対方向に傾けることで雨水が相手にかかるのを防ぐ動作である。

しかし原田によれば、浮世絵や歌舞伎に傘が出てくるのは贅沢品だからで、庶民の雨具はおもに蓑笠や合羽だった。傘にしても、スプリングのある現代の洋傘と違ってすぼめやすいので、傾けるのでなく、すぼめて相手とすれ違うほうが楽だった。

そもそも江戸の商家や職人の家は、店頭や作業場として使う土間が道に面していた。傘かしげをやると、人の家の中に水をぶちまける恐れがある。

また「こぶし腰浮かせ」は、乗合の乗物などで席についてから、こぶし一つ分腰を浮かせて横に動いて席を詰める動作である。渡し舟や茶店の縁台で座る場所を作るための心遣いとされる。

だがこれも歴史的根拠がない。江戸の渡し舟に座席はなかった。現代のバスや電車と異なり、馬や荷物も一緒に運んだからである。茶店の縁台はくつろぐために湯呑や茶菓子を置いたから、きつく詰めて座ることはなかった。

原田によれば、江戸しぐさは1980年代、芝三光という人物によって生み出された。その手本は、芝が米軍施設でアルバイトとして働いた学生時代、将校用クラブで教わった英米式マナーではないかと原田は推測する。日本の古きよき作法の正体が英米式マナーだったとすれば、これ以上の皮肉はあるまい。

ここで思い浮かぶのは、最近議論となっている選択的夫婦別姓制度である。反対する保守派は、同姓は日本の伝統だと主張する。しかし実際には同姓制度は、明治政府が西洋化政策の一環として法律で強制したものである。

ある制度や習慣が大切だと思うのであれば、堂々と理を説けばよい。わざわざ偽造した伝統で権威づけようとするのは、何かやましいことがあるからではないか。

(2016年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2018-04-30

道徳は政治を超える

道徳は政治を超える。たまたまある行為が道徳的にも政治的にも正しいとされる場合はあっても、つねにそうなるとは限らない。ある行為が道徳的には正しく、政治的には正しくないとされるときこそ、人は道徳について真剣に考えることができる。

昨年大晦日の産経新聞電子版で、同日限りで引退する知覧特攻平和会館の松元淳郎氏という87歳の「語り部」が紹介された。記事では「家族や恋人、地域を守るため、命を懸けた若者がいたことを覚えていてほしい」という同氏の談話を伝えていた。

ある行為が道徳的であるためには、自発的な意思に基づかなければならないから、特攻が道徳的といえるかどうかは疑問である。しかし少なくとも記事を載せた産経新聞はそう考えているのだろう。一方、特攻は当時の政府によって企てられたのだから、政治的に正しい行為であったことはいうまでもない。

道徳的な行為がつねに政治的にも正しければ、私たちは道徳と政治の対立という厄介な問題を考えずに済む。しかし現実はそうではない。

たとえば第一次世界大戦中に起こった「クリスマス休戦」である。開戦から5カ月後の1914年12月24日から25日にかけて西部戦線各地で生じた一時的な停戦状態をこう呼ぶ。

最前線で対峙していた英国とドイツの兵士たちが銃を置き、ともにクリスマスを祝った。戦死者の遺体を回収し合同埋葬式を行ったほか、煙草やサインを交換し、写真を撮った。サッカーの親善試合にまで興じたという。

だが政府や軍の上層部には快く思わない者が少なくなかった。独陸軍参謀総長は、「持ち場を離れ敵陣に向かおうとした者は撃て」という旨の命令を発した。クリスマス休戦は、政治的に正しくなかったのである。

しかし、道徳的にはどうだろうか。多くがキリスト教徒である兵士たちにとって、聖夜を祝うことは道徳にかなうだろうし、友愛の徳にもかなう。なにより、「汝殺すなかれ」という宗教的・普遍的な戒めを守ることにもなる。

クリスマス休戦を題材としたマイケル・モーパーゴの絵本『世界で一番の贈りもの』(評論社)で、英国の兵士は故郷の妻にこう書き送る。「今日のできごとで、どちらの軍の兵士も、どんなに平和を願っているかがよく解った。きみのもとに帰れる日が、もうすぐくる。私は、そう信じている」

評論家の福田恆存は「勇気や自己犠牲の様に戦争状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふものも存在します。しかし、だからといつて戦争自体を価値と見倣す訳には行きますまい」と書いた。言い換えれば、戦争を否定する勇気や自己犠牲もありうる。道徳は政治に左右されない。

(2016年2月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2017-09-10

エセ清貧の厚顔

物質文明の恩恵にたっぷり浴していながら、それを罵り、蔑んでみせる知識人ほど、愚かで厚顔無恥なものはない。そのような偽りの清貧を気取る知識人は、洋の東西を問わず大昔からいるが、いまだにいなくなる気配がない。

京都大学名誉教授の佐伯啓思は『さらば、資本主義』(新潮新書)で、典型的な似非清貧の議論を繰り広げている。

まず佐伯は、大店法改正・廃止による規制緩和で地方都市の郊外に出店した、大規模なショッピングモールを非難する。便利なショッピングモールの出現により、雑多な店が立ち並ぶ昔ながらの街が失われてしまったという。

ところが佐伯は一方で、小都市に住んでいた子供の頃、親に連れられて大都市のデパートを訪ねた思い出を懐かしそうに書く。「デパートは、人とモノに溢れ、『文明』の香りを発散する舞台装置でした」「日常をこえた『体験』だったのです」

しかしいうまでもなく、かつてデパートは今のショッピングモールと同じく、古い商店街を破壊する元凶として出店・営業が規制されていた。その証左に、大店法の前身は百貨店法という法律である。自分はデパートの利便を享受しておきながら、他人がショッピングモールに行くのは商店街を衰退させるから認めないというのは、身勝手である。

また佐伯は、インターネットを利用したショッピングを批判する。人はかつて商店街などでの買い物を通じて「他人と関わり、社会と接していた」のに、インターネット販売は消費を「ただ個人の欲望充足へと還元」し、社会的で公共的な側面を失わせたという。

ところがこの『さらば、資本主義』を含め、佐伯の著作はいずれも、インターネット書店で売られている。もちろん著者自身の承諾の下にである。

佐伯の主張に従えば、本はインターネット書店ではなく、街の本屋で買わなければ、社会との接点を失い、単なる「個人の欲望充足」へと堕してしまうはずである。ところが佐伯は自分の本はインターネットで堂々と売らせている。言行不一致もいいところである。

さらに佐伯は、「より安く、より早く、より便利」な商品・サービスの追求を是とする「消費者絶対主義」が「衝動の支配する社会」をもたらしたと嘆いてみせる。

ところがあとがきでは、本書の内容を連載した雑誌の編集者が「ほとんど毎月のように打ち合わせに京都まで足を運んでくださ」ったと礼を述べる。

編集者はおそらく、東京から新幹線を利用したのだろう。もし佐伯が本心から「より早く、より便利」なものを求める態度が間違いと信じるのならば、次回からせめて在来線を半日かけて乗り継いで来るよう頼んでもらいたい。

(2015年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2017-09-03

武士道が日本を滅ぼす

マンション杭工事の偽装、巨人の選手による野球賭博などをきっかけに、今の日本人は古き良きモラルを失ったと嘆いてみせる声がまたぞろメディアをにぎわせている。だが昔の日本人が今よりも特別に道徳的だったというのは嘘だし、昔の道徳を復活させれば今の日本が良くなるわけでもない。

昔の日本人の道徳としてしばしば称揚されるのは、武士道精神である。一橋大学特任教授の山岸俊男は『「日本人」という、うそ』(ちくま文庫)で、社会心理学の成果に基づき、武士道に関する思い込みの誤りを暴いている。

武士道精神の一つの特徴は滅私奉公の精神とされる。しかし戦国時代の武士たちは、現代の米国社会と同じように、実力主義の原理で働いていた。自分の能力をきちんと評価してくれない「上司」ならば、さっさと見限って「転職」した。

これに対し、江戸時代の武士は滅私奉公だったといわれる。しかし、これには合理的な理由があった。「転職」がいくらでもできた戦国時代と違い、江戸時代では主君を替えるわけにはいかない。子孫の代までも同じ殿様に仕えることになるから、常日頃から忠義ぶりを示していたほうが得策だったにすぎない。終身雇用制で事実上転職できないサラリーマンと同じだと山岸は指摘する。

江戸時代の武士の行動に少なくとも表面上、打算や私心が一切見られず、人に感動を与えることは事実である。しかしだからといって、その精神を今の社会に持ち込むとおかしなことになる。主君や国家に対する忠誠を何より尊ぶ武士道精神は、近代社会を支える商業道徳とは共存できないからである。

たとえば商業道徳では正直を重視する。ところが武士道では、主君のためなら嘘をついても許される。企業不祥事の背後にある、会社を守るためならば消費者を騙していいという考えは、「武士道的なメンタリティ」であると山岸は述べる。だからこの手の不祥事を武士道精神の復活によってなくそうなどと考えるのは、的外れである。

教育で幼い頃から武士道流の「利他の心」を教え込めという意見もよくある。だがそれはかえって「利己主義者たちの楽園」をもたらしかねないと山岸はいう。教育をまじめに受け止め利他的な精神を身につけた「お人好し」を、利己的な者がいいように利用できるようになるからである。愛国教育が盛んだった戦時中、愛国者のふりをした一部の利己主義者たちが権力を握ったり、不正な利益を得たりしたのはその実例である。

鎖国時代に戻るような武士道復活は日本を滅ぼしかねない。開かれた近代社会にふさわしい商人道こそが求められるという山岸の意見に同感である。

(2015年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)