昨年大晦日の産経新聞電子版で、同日限りで引退する知覧特攻平和会館の松元淳郎氏という87歳の「語り部」が紹介された。記事では「家族や恋人、地域を守るため、命を懸けた若者がいたことを覚えていてほしい」という同氏の談話を伝えていた。
ある行為が道徳的であるためには、自発的な意思に基づかなければならないから、特攻が道徳的といえるかどうかは疑問である。しかし少なくとも記事を載せた産経新聞はそう考えているのだろう。一方、特攻は当時の政府によって企てられたのだから、政治的に正しい行為であったことはいうまでもない。
道徳的な行為がつねに政治的にも正しければ、私たちは道徳と政治の対立という厄介な問題を考えずに済む。しかし現実はそうではない。
たとえば第一次世界大戦中に起こった「クリスマス休戦」である。開戦から5カ月後の1914年12月24日から25日にかけて西部戦線各地で生じた一時的な停戦状態をこう呼ぶ。
最前線で対峙していた英国とドイツの兵士たちが銃を置き、ともにクリスマスを祝った。戦死者の遺体を回収し合同埋葬式を行ったほか、煙草やサインを交換し、写真を撮った。サッカーの親善試合にまで興じたという。
だが政府や軍の上層部には快く思わない者が少なくなかった。独陸軍参謀総長は、「持ち場を離れ敵陣に向かおうとした者は撃て」という旨の命令を発した。クリスマス休戦は、政治的に正しくなかったのである。
しかし、道徳的にはどうだろうか。多くがキリスト教徒である兵士たちにとって、聖夜を祝うことは道徳にかなうだろうし、友愛の徳にもかなう。なにより、「汝殺すなかれ」という宗教的・普遍的な戒めを守ることにもなる。
クリスマス休戦を題材としたマイケル・モーパーゴの絵本『世界で一番の贈りもの』(評論社)で、英国の兵士は故郷の妻にこう書き送る。「今日のできごとで、どちらの軍の兵士も、どんなに平和を願っているかがよく解った。きみのもとに帰れる日が、もうすぐくる。私は、そう信じている」
評論家の福田恆存は「勇気や自己犠牲の様に戦争状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふものも存在します。しかし、だからといつて戦争自体を価値と見倣す訳には行きますまい」と書いた。言い換えれば、戦争を否定する勇気や自己犠牲もありうる。道徳は政治に左右されない。
(2016年2月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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