選挙で有権者が政府を「選択」するという公式教義のいかがわしさは、あちこちに露呈している。2012年11月17日付読売新聞社説(電子版)は、選挙の争点として「脱原発」のほか「日本経済再生のための成長戦略、環太平洋経済連携協定(TPP)参加問題、社会保障、領土・主権問題、安全保障」を列挙し、有権者は「各政党、各候補の政策とその実行能力を厳しく吟味」せよと呼びかける。
しかしそれは無理な相談である。読売が挙げただけでも争点は六項目ある。かりに各争点の選択肢が2つしかないとしても、全部で64通り(2の6乗)の選び方がある。有権者に全選択パターンの受皿を用意するには、これと同数の政党が必要である。むろん争点や選択肢が多くなれば、必要な政党数は文字どおり乗数的に増加する。
本気で有権者の「選択」を尊重するなら、政党は星の数ほど必要だと言わなければ筋が通らない。ところがそんなマスコミは存在しない。それどころか毎日新聞の11月24日付コラム「憂楽帳」などは、政党数について「今度は14。7年前に比べるとほとんど3倍に増殖している」と、たかだか10やそこらで早くも音を上げている。
もちろん現実には、有権者のあらゆる選択パターンに対応する無数の政党が出現することなどありえない。言い換えれば、全争点に関する選択が既存政党の方針と完全に一致する希有な有権者を除き、国民の大半は、満足する政党を選ぶことができない。満足度を多少落としても、選択の単位を政党でなく個々の候補者にしてみても、選びたい政党や候補者がない状況はほとんど変わるまい。
こうくどくど書けば、大方の読者は「当たり前だ。民主主義とはそういうもの」と思うことだろう。けれどもそれは、国会議員が「全国民を代表する」という憲法第43条の想定がまやかしであることを意味する。
これは過激な思いつきではない。元東大総長で過激思想とは縁遠い政治学者の佐々木毅でさえ、民主主義が機能するには議員を代表者と「みなす」ことが不可欠と書く(『民主主義という不思議な仕組み』ちくまプリマー新書)。
平たく言えば、民主主義を正当化する根拠など存在せず、苦し紛れに作り話をこしらえたというわけだ。衆院選の結果、どこが政権を取ろうと、誰が総理になろうと、課税や規制で国民の財産や自由を奪う権利はないのである。
(2012年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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