典型的に表れているのは、所得再分配と社会保障についての記述だ。西部はまず、米国リベラルの実態について「所得再分配や社会保障といった社会環境を改良する仕事を政府の肝煎で進めようと〔する〕ソフト・ソーシャリスト〔軟らかい社会主義者〕」と批判する。ところが別の箇所では「金持が貧乏人に最低の暮らしができる程度の援助をすればよい〔略〕政府が租税と社会保障の制度を使ってそれをやって社会を安定させる、それが平衡感覚というもの」と、米国左翼と同じく、政府による所得再分配と社会保障を擁護する。
さらにひどいのはここからである。西部は、今の日本で「古き良き価値・規範が破壊されつづけている」と慨嘆してみせる。そしてその責任は、経済のグローバリズムやIT革命をはじめとする技術革新にあると指弾する。悪いのは政府ではなく、民間というわけだ。
だがこれはまったくの誤りである。傍証の一つが西部自身の文章にある。上で引用した所得再分配に関する記述のうち、略した部分で西部はこう書いている。金持ちが貧乏人に直接金品を支援すると、金持ちを「傲慢」にし、貧乏人に「屈辱を味わわせる」かもしれない、と。だから間に政府が入り、金持ちから財産を取り上げ、貧乏人に与えればよいというのだ。
しかしこれは、貧乏人は助けてくれた金持ちに感謝しなくてよいと言っているのと同じである。施しを受けたなら、たとえ内心屈辱を感じようと、謝意を表す。これは代表的な「古き良き価値・規範」の一つであろう。ところが西部は政府を割り込ませ、感謝の習慣を社会から消し去ろうとする。
いや実際には、消し去る以上に悪い。なぜなら、支援を受けた貧乏人は金持ちに感謝する代わりに、金持ちの財産を奪い与えただけの政府に感謝を捧げるからである。本来感謝されるべき個人でなく、他人の金で善人を演じる政府が感謝されるよう、社会を(西部が左翼を非難する言葉を借りれば)「変革」する。これこそ「古き良き価値・規範」の破壊ではないか。もちろん破壊者は民間でなく、政府である。
自由主義者の経済学者ミーゼスは七十年前、政府崇拝を「新たな迷信(new type of superstition)」と呼び、その形態には社会主義と干渉主義があると指摘した。干渉主義とは戦後西側諸国で浸透し、西部が擁護する、再分配や社会保障を柱とする体制である。西部は政府崇拝という宗教の信者である点で、左翼と何も変わらない。
(2013年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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