国家財政が苦しくなると、政治家や評論家はそれを解決できる方法があるとして、魔法のような妙案を売り込む。最近話題のMMT(現代貨幣理論)などはその一つだろう。もっとも、それらが実施され、一時効果があるように見えても、長期でうまくいくことはまずない。
今から約六百年前、室町幕府が捻り出した財政対策は、日本の歴史上、とくにユニークな「奇策」と言える。結局一時しのぎでしかなかったことは、他のあらゆる奇策と同じなのだが……
中世の「小さな政府」
そもそも室町時代を含む日本の中世は、他の時代に比べれば、政府の財政規模は小さかった。「小さな政府」の時代だったのだ。
後醍醐天皇は建武の新政で大内裏造営を計画し、その資金を賄うため新しい貨幣の発行を計画した(結局実現せず)。けれども後醍醐以外、中世の天皇で貨幣の発行を思い立つ者はいなかった。
中世の天皇は、為政者が大宮殿に住んだ中国と違い、里内裏(さとだいり)と呼ばれる市中の仮皇居に居住し、将軍の住まいにしてもその規模は同じようなものだった。わざわざ貨幣を発行しなくても、中国から輸入される銭を利用すればよかった。
また、日本は中国のように異民族との戦争が慢性的に財政を圧迫することもなければ、朝鮮やベトナムのように中国の軍事的な脅威にさらされることもなかった。蒙古襲来は一過性に終わったし、国内の合戦にしても当時は武士たちが自弁で戦うのが原則だったから、国家が大規模な財政を持つ必要はまったくなかった。
ところが室町幕府第8代将軍、足利義政(在位1449〜1473年)の時代には、幕府の財政は悪化の一途をたどった。おもな課税対象だった高利貸の土倉・酒屋が借金帳消しを命じる徳政令の頻発で衰退したこと、中国が日明貿易の方針を転換して朝貢の返礼として銭を下賜しなくなったこと、相次ぐ飢饉に見舞われたことで収入が減少。それにもかかわらず、東山殿(現在の銀閣寺)の造営など支出の膨張が続いたためだ。
寺院からの贈り物を修理費に流用
このため幕府は財政危機を打開しようと、新たな財源の確保に乗り出す。
そこで活用されたのが、贈答品だった。中世の日本社会では市場経済が発達し、それに伴って贈り物の習慣が広がる。公家や武士など中世の人々はほとんど毎日のように膨大な量の贈答を繰り返していた。受け取った贈答品は自家で消費したり親しい者に分配したりするほか、装飾品や美術品、馬などは売却や贈答品への再利用もされた。
室町幕府とその周辺でも、贈り物は活発だった。幕府はここに目をつけた。
将軍が京都五山などの寺院を訪問(御成=おなり)した際に、寺院から引出物(献物)が献上される。「寺家御成引物」「寺院進物」などと呼ばれ、将軍はこれらをいったん受け取るが、すぐに修理を必要としている別の寺院に寄付する。将軍はもらった物を右から左に流すだけなのだが、見かけ上は気前よく修理料を寄付したことになる。
寺院の造営・修理費の支出は将軍の大任だったが、ただ物を右から左に動かすだけで、その任を果たすことができたのである。この贈答儀礼の財政利用について、歴史学者の桜井英治氏は「幕府の財政当局者が発見したもっとも巧妙な錬金術」と評する(『室町人の精神』)。
献物の内容は品目・数量ともにだいたい決まっており、換金する際の相場もほとんど確定していた。つまり幕府にとって寺院への御成は、1回で得られる収入が予測できる確実な集金活動だった。寺院の修理費があといくら不足しているから、あと何回御成を増やせばよいという計算もできた。
将軍義政は京都五山などの寺院に足しげく通ったが、これは信心深さによるのではなく、幕府財政を支えるための世俗的な努力だった。義政は「もし必要とあれば毎日御成してもいい」と周囲に漏らしたという。
コレクションの絵軸や太刀で支払い
だが結果的には、幕府の政治的な求心力の低下とそれに伴う財政悪化には歯止めがかからず、1460年代に入ると、次の手段に踏み切る。「将軍家御物(ごもつ)」と呼ばれる将軍家の美術品コレクションの放出である。
これは当時、「売物」と呼ばれた。売物による支払方法には、幕府が自らオークションを開いて希望者に買い取らせ、そこで得た現金で支払う方法と、献物と同様、そのまま物納し、換金は支払先に委ねてしまう方法があり、より手間のかからない後者が一般的だった。
たとえば1465年(寛正6)6月の第6代将軍足利義教二十五周年忌仏事料300貫文は絵軸と打刀(うちがたな)で、同年8月の義政生母日野重子三回忌仏事料100貫文は太刀十一振で、1466年(文正元)4月の足利基氏百回忌仏事料30貫文と同年6月の景雲院卵塔・桟敷造営料114貫715文は盆三枚でそれぞれ支払われている。
売物と並んで、義政時代に目立ち始めたのは寺院からの借り入れである。すでに第4代将軍足利義持の時代から見られた現象だが、財政悪化に伴い寺院への経済依存度は高まった。
目利きの技能を発揮した同朋衆
ところで献物にせよ売物にせよ、物納を行うには、それぞれの品にどのくらいの値打ちがあるのかがあらかじめ把握されていなければならない。その任に当たったのが、将軍のそば近くに仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる人々だった。
同朋衆には時宗の徒が多く、僧形で、能阿弥、芸阿弥など名前に「阿弥」が付くのが特徴である。身分は低いにもかかわらず、貴人と交わることができる特異な存在で、文学、美術、芸能など文化のさまざまな方面に足跡を残すとともに、将軍家の美術品コレクションの管理や鑑定にも当たった。彼らの「目利き」の技能は、献物や売物の実施に大いに生かされた。
けれども同朋衆が力を発揮した将軍家コレクションの放出は、幕府とそれに仕える同朋衆自身の衰退を意味していた。室町時代に生まれた同朋衆は、この時代で消える。
室町幕府が財政難を乗り切ろうと繰り出した、贈答品の流用や美術品の放出といった苦肉の策は、結局、小手先の対応にすぎず、問題の本質を解決することはできなかった。財政上の奇策をもてはやす現代にとって、貴重な教訓となるだろう。
<参考文献>
- 桜井英治『室町人の精神』(日本の歴史12)講談社学術文庫
- 桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中公新書
- 本郷恵子『蕩尽する中世』新潮選書
- 村井康彦『武家文化と同朋衆 ――生活文化史論』ちくま学芸文庫
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