「国民国家」という言葉をこのところよく耳にする。「グローバル経済の急速な進展が国民国家を揺るがす」「新自由主義が日本の国民国家に打撃を与えた」といった具合だ。
インターネット百科事典「コトバンク」によれば、国民国家とは「国家への忠誠心を共通のアイデンティティとしていると想定される人々を〈国民〉として持つ領域国家」を指す。18世紀の欧州に登場し、19世紀以降、欧州以外へ広まった。
日本では、明治維新によって誕生した大日本帝国が国民国家の始まりとされる。けれども、国民国家の起源はその四百年前にさかのぼるとの見方がある。戦国時代だ。
日本国とは別次元の「国家」
応仁の乱に始まった戦国の騒乱の中から、各地方では、守護・守護代・国人(国衆)などさまざまな階層出身の武士たちが自らの力で領国(分国)をつくり上げ、独自の支配を行う地方政権が誕生した。これが戦国大名であり、彼らが活躍した応仁の乱後の約一世紀を戦国時代という。
戦国大名は自身の領国を「国家」と称した。国家という言葉はそれまでもあったが、そこでは日本国を指していた。しかし戦国大名の国家は、日本国とは別次元である。戦国大名の国家は、それまでの国家とどのように性格が異なったのだろう。
戦国大名の領国は、実質的にも名目的にも、一個の自立した国家として存在していた。日本国の国家と対比・区別するため、地域国家と呼ばれる。戦国大名の領国だけではなく、大名に服属した国衆の領国も本質的にはそれと同様だ。戦国時代とは、列島各地に地域国家が乱立した時代といえる。
戦国大名の中には、領国支配の基本法である分国法を制定する者もあった。駿河の戦国大名、今川氏が定めた分国法「今川仮名目録」は、地域国家としての性格が端的に表現されている。
仮名目録には、領国内のトラブルに関する条文のほか、他の領国との関係を規定した条文、いわば国際関係法も多く見られる。たとえば、勝手に他国の勢力に加勢することを禁じ、他国出身の商人を一時的にも家臣として雇用することを禁止している。他国の紛争が今川領に波及することや、他国に今川家の機密が漏れることを警戒した条文だろう。
寺社の特権、実力で否定
のちに織田信長に敗れる今川義元の代になり、仮名目録を修正し、条文を追加する。その中で注目されるのが、寺社の守護使不入(しゅごしふにゅう)特権の廃止を宣言した条文だ。守護使不入というのは、室町時代、守護の使者が立ち入るのを拒否できる特権で、将軍から与えられた。条文にはこうある。
もともと守護使不入というのは、室町将軍家が天下を支配し、全国の守護職を任命していた頃の産物である。となれば、いくら守護使不入の特権をもっていても将軍の命令にだけは背けないはずではないか(不入権を与えたのは将軍だからだ)。それに対し、現在はすべてにおいてわが今川家が自分の力量で法度を定め、平和を保っている(つまり、いまこの国で今川家は将軍と同じ立場にいる)。だから守護使不入を理由にして今川家の介入を拒否できるなどと考えたら、とんでもないことだ。
守護である今川氏の介入を拒む寺社の特権は、修正前の仮名目録でも認められており、寺社の内部で犯罪が起こったとしても、今川氏はおいそれと捕縛吏を送り込むことはできなかった。まして、その特権が京都の室町将軍より認められたものだった場合、今川氏といえども簡単に介入することはできなかった。
ところが義元は仮名目録で、この領国の最高権力者は今川家なのだという理由に基づき、その特権を廃止した。日本中世史が専門の清水克行氏はこの条文について「実力主義とそれに由来する自信が漲(みなぎ)っている」と述べ、一時代を画する「戦国大名宣言」だと評する(『戦国大名と分国法』)。
「御国」の論理の登場
関東の戦国大名、北条氏の領国でも、それまでとは異質な国家の論理が登場する。「御国(おくに)」の論理である。
「御国」とは、具体的には北条氏の領国を指す。それまでの「国家」「分国」といった言葉とは別に、「御国」という言葉が新たに登場したのである。
この言葉が用いられたのは、1569年(永禄12)から1571年(元亀2)までの武田氏との戦争の際と、1587年(天正15)からの羽柴(豊臣)政権との対決前という、ともに北条氏が存亡の危機に立たされた時期だった。言葉を向ける対象となったのは、領国の村々である。
それはまず、臨時の普請役の賦課の際に用いられた。普請役は年間の負担数が明確に規定されていたが、武田氏との戦争では、とうに消化してしまっていた。しかし防衛体制を整えるには、どうしても普請役が必要である。そこで採られたのが、臨時の不審役の徴発だった。
北条氏はある村に宛てた書状で、「今回の臨時の普請役は、迷惑ではありましょうが、第一に『御国』のため、第二に村のためなのだから、百姓であっても奉公すべきです。戦争が終わったら、御憐愍(諸役の免除など)を行います」と述べた。
次いで「御国」の論理は、村の百姓を兵士として動員する際に用いられた。北条氏の言い分はこうだ。「来年(元亀元年)は、信玄との決戦をする。その際、軍役負担を義務付けている家臣や奉公人は、すべて前線に投入する。そうすると、領国内の諸城の守備兵がいなくなってしまう。だから出陣の間、諸城の守備兵を勤めて欲しい。これは『御国』にいるものの務めだから、家臣らと同じように働くべきだ」
翌年、兵士として動員されることが決まった村人に、あらためて動員を命令する書状が出された。そこでは「そもそもこのように戦乱が続く時世では、どうしてもその国にいる者は、出てきて働かないわけにはいかないでしょう」と述べた。
大名から領地も与えられていない、大名に何の義理もない村人を、村や地域の防衛ならともかく、大名の戦争に駆り出すなど、とんでもないことだというのが、この時代の通念だった。それだけに、大名が村人を戦争に動員するには、それなりの根拠がいる。それが「御国」の論理だった。
国民国家との共通点
「お国のために」という言葉は、現代でも、国家が国民を戦争に動員するときに、しばしば持ち出される論理である。じつはこの論理は、戦国大名が領国内の村々に、大名の戦争に協力させようと生み出したものだったのである。
歴史学者の黒田基樹氏は「村は、大名の存亡を賭けた戦争に際して、その領国に住んでいる、というそれだけで、大名の戦争に動員される事態に直面するようになった。ここにはじめて、人々は、自らが帰属する政治領域=国家というものを認識するようになった」と指摘する。
それまでにもあった日本国の国家は、在地の村とは直接には関係していなかった。村はその構成員ではなかったからだ。しかし、戦国大名の国家においては、村は直接の基盤に位置していた。黒田氏は「現代の私たちが認識する国家は、むしろこの戦国大名の国家から展開してきたものと考えられる」と述べる(『百姓から見た戦国大名』)。
たしかに、戦国大名の国家は、国家への忠誠心を「共通のアイデンティティ」としている点、排他的な領域国家である点、「御国の論理」を持ち出して国民を戦争に動員する点など、現代の国民国家と似通った部分がある。
戦争から生まれ、戦争に勝つために庶民に無理を強いた戦国大名の国家は、近代に誕生して以来、戦争をやめず、国民にそのための税金や兵役を課してきた国民国家の姿に重なる。その国民国家が今、揺らいでいるとしたら、悪いこととは言い切れない。
<参考文献>
- 清水克行『戦国大名と分国法』岩波新書
- 黒田基樹『百姓から見た戦国大名』ちくま新書
- 黒田基樹『戦国大名の危機管理』角川ソフィア文庫
- 藤木久志『戦国の村を行く』朝日選書
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