自壊というウソ
2008年のリーマン・ショック直後に出版され、反資本主義ブームのはしりとなった本。著者は、資本主義が「世界経済の不安定化」「所得や富の格差拡大」「地球環境破壊」といった問題を引き起こしたと非難し、政府による規制強化を求める。だがそれらの問題はいずれも、自由放任的な資本主義ではなく、政府の市場介入が招いたものである。
まず、世界経済の不安定化について著者は、金融市場で借りた低利の資金を元手に高い収益をめざす「レバレッジ経営」や、巨額の投資で相場が上がるとそれに煽られてさらに相場が上がり、自分が期待した収益が実現する「予言の自己実現」がバブルにつながったと批判する(第二章)。
バブルに酔った金融機関や企業の軽率な経営判断は、とがめられなければならない。しかしバブルのそもそもの原因を作ったのは、政府・中央銀行である。リーマン・ショック以前に米国の金利を長期にわたり低く引き下げたのは中央銀行である連邦準備制度だし、人々の期待だけで株式相場が上がり続けることはできない。株を買うにはカネがいる。連邦準備制度によるマネーの氾濫がバブルを可能にしたのである。
しかも自己責任を問われるべき金融機関や企業は、一部を除き、政府の判断で国民の血税により救済された。これはどうみても自由放任的な資本主義ではない。
次に、所得や富の格差拡大について著者は、国境を超えるグローバルな資本主義においては、ローカルな資本主義の場合と違い、政府による利益の再分配ができない。したがって企業のCEO(最高経営責任者)や大株主のような「持てる人たち」は巨額の利益を獲得するかもしれないが、その「おこぼれ」は労働者には回ってこないと主張する(同)。
しかし著者は、政府による再分配が始まったのは、産業革命以降、自由放任的なグローバルな資本主義によって経済が発展した後だということを忘れている。富を再分配するためには、まず富を生み出さなければならない。政府にそれはできない。
所得や富の格差は、それが自由な競争の結果である限り、何も悪いことはない。消費者の望む商品・サービスを多く提供した生産的な企業家・投資家が報われ、手にした資金を再び事業に投じることで、経済をさらに繁栄させる。
格差を過剰に拡大させるのは、ここでも政府・中央銀行である。中央銀行が社会にマネーをあふれさせると、とくに生産的な活動が行われていないにもかかわらず、土地や株式といった資産の価格が上昇する。これが富裕層の富を膨らませる。一方で資産をもたない庶民は、インフレで生活コストが上がり、相対的に貧しくなる。
最後に、地球環境破壊について著者は、グローバルな資本主義においては、ローカルな資本主義と違い、どれだけ環境を汚染し、資源を無駄遣いしようとも、周辺住民・消費者の反発を招きにくく、直接に企業の経営にマイナスに働くとは限らない。また政府による規制もかけにくい。したがって環境破壊に歯止めがかからないという(同)。
しかし、現在よりずっとローカルだった高度成長期の日本も、環境破壊によりさまざまな公害が発生していた。グローバル経済から閉ざされたかつての社会主義国で、資本主義国以上に激しい環境破壊が行われていたこともよく知られる。環境破壊の原因は、資本主義がグローバルかローカルかとは関係がない。
環境破壊の本質は、経済学でいう「共有地の悲劇」である。財産が特定の個人によって所有されるのではなく、不特定多数者によって共有されていると、財産を大切に扱う意欲もわかないし、傷つけまいとする注意も怠りがちになる。このため財産が無駄遣いされたり、ダメにされたりする。
ポイントは個人の所有権にある。したがって、大気汚染を防ぎたいのであれば、空にも所有権を認めればよい。たとえば私有地の上空は、その土地の所有者のものとする。自分の空はどれだけ汚しても構わないが、他人の空を汚してはいけない。現実には汚染を自分の空だけにとどめるのは無理だから、所有者は汚染物質を無害化するサービスを利用し、最初から空を汚さないようにするだろう。
荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、センサー技術などの発達した現代では、それほど難しいこととは思われない。上空を飛行機などが通過する場合は、所有権を売買するなり、使用権を認めるなりすればよい。
やや脱線したが、ようするに、環境破壊が起こるのは自由でグローバルな資本主義のせいではない。領空、領海、国有地、あるいは公空、公海といった名目で、政府が個人の所有権を排除しているためである。
なお著者は、日本には古来自然を慈しむ文化があったとして、鎮守の森と呼ばれる古くからの原始林は「聖なる土地として樹を伐ること自体が禁止されていた」(第五章)と述べる。だがそれは誤りである。鎮守の森には頻繁に人がかかわっており、近隣の農民が落葉や枝葉を肥料や燃料として採取したり、マツタケを収穫する権利を売買したりしていた。社殿の修理などに必要な木材を得るために植栽することも少なくなかった。鎮守の森に手が入らなくなったのは、戦後、薪や堆肥を使わなくなり、伐採や落葉の採取の必要がなくなったからにすぎない(田中淳夫『森と日本人の1500年』第一章)。
以上述べたとおり、反資本主義ブームの嚆矢といえる本書のおもな主張は、どれも事実に反する。資本主義は自壊したのではない。政府によって破壊され、今も破壊されつつあるのだ。
最近量産される反資本主義本の数々は、ほとんど本書の延長線上にあるといってよい。なにしろ本書では最近流行のピケティやカール・ポランニー、ベーシックインカムまですでに言及されているのだから。その主張が的外れなところも共通している。
長年信じた新古典派経済学を疑い、大胆な「転向」を遂げた著者の態度には、知的良心を感じる面もある。しかし、もし新古典派経済学が間違っているとしても(実際、多くの部分で間違っているのだが)、政府による規制強化が正しい答えということにはならない。誤った診断に基づいて正しい処方箋は書けない。
(アマゾンレビューにも投稿)
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