緒戦の勝利と危機の予兆
1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾などを奇襲攻撃し、マレー半島にも上陸して、米国・英国に宣戦布告して太平洋戦争が始まった。
その際、日本の軍部の謀略によって、日本から駐米日本大使館への電報が遅らされ、そのため日本大使館からの日米交渉打ち切りの通告が遅れた。米政府は日本のだまし討ちと国民に宣伝し、元来戦争に乗り気でない米国民を、日本やドイツ、イタリアとの戦争に熱狂的に駆り立てることになった。
太平洋戦争は、当時の米国での呼称(the Pacific War)であり、日本は大東亜新秩序を建設する立場から、この戦争を大東亜戦争と呼んだ。この戦争のアジアへの広がりを示すため、近年、アジア太平洋戦争(あるいはアジア・太平洋戦争)という呼称も使われている。
独伊も三国同盟にもとづき米国に宣戦し、戦争は世界的規模に拡大した。
開戦後の半年間は、日本軍が米英の植民地防衛軍の劣勢に乗じて、中部太平洋から東南アジアに及ぶ広大な地域を占領した。緒戦は日本軍の圧勝に終わったとはいえ、危機の予兆はすでに現れ始めていた。欧州情勢の変化である。
日本政府のシナリオでは、南方作戦によって戦略的自給圏を確保して不敗の体制を確立するとともに、中国・蒋介石政権への圧力を強化する、他方で、独伊と軍事的に連携しながら、まず英国を屈服させ、それによって米国民の戦意を喪失させて講和に持ち込む、という目論見だった。
当時、英国の強固な抵抗にあったドイツは英本土上陸作戦を断念し、矛先を東に転じて41年6月には独ソ戦を開始していた。日本のシナリオの前提は、独ソ戦は短期間のうちにドイツの勝利に終わり、ソ連は崩壊する、独ソ戦の勝利によって戦略態勢を強化したドイツは、続いて英国を屈服させる、というものだった。
たしかに、スターリン体制下での大量粛清の結果、ソ連軍が弱体化していたこともあって、ドイツ軍の進撃は急であり、11月末には、首都モスクワまで33キロの地点に到達していた。しかし、死にものぐるいの反撃によってドイツ軍の総攻撃を挫折させたソ連軍は、12月上旬には反撃に転じ、ドイツ軍を押し返し始めた。アジア太平洋戦争が始まったのは、まさにその時だった。「日本の軍事戦略の前提そのものが、静かに崩れ始めていたのである」(吉田裕『アジア・太平洋戦争』)
連合国軍の反攻
日本は緒戦の予想以上の大戦果を実力の差によるものと過信し、安易な情勢判断と作戦計画に走った。陸海軍間には統一した戦略が欠如していた。
陸軍は、石油などの戦略的資源の開発と日本本土への輸送に力を注ぎながら、南方戦線では持久戦の態勢へ移行することを重視した。北方で対ソ戦を開始することを計画していたからである。一方、米国との国力の大きな格差から長期戦に自信の持てない海軍は、積極的な攻勢作戦の連続によって米国に短期決戦を強要し、米国民の戦意を喪失させることを基本戦略としていた。
その結果、1942年3月に決定された「今後採るべき戦争指導の大綱」は、戦略的重点のあいまいな折衷案となった。また同月決定された「世界情勢判断」では、米国など連合国軍の本格的な反攻作戦が開始される時期を、「概ね昭和18(1943)年以降なるべし」と予想した。だが実際には、米軍の反攻作戦は42年夏に始まった。
日本軍の緒戦の勝利を一気に覆したのは、42年6月のミッドウェー海戦の惨敗だった。ミッドウェー攻略作戦は連合艦隊司令部が海軍軍令部の反対を押し切って計画したものである。敗北の背景には、機動部隊の疲労と連勝による驕慢とがあった。
日本海軍は、ミッドウェー攻略作戦に虎の子の正規空母4隻を投入したが、日本軍の暗号を解読することによって攻撃を事前に知っていた米海軍は、3隻の正規空母を配備して日本軍を待ち受けていた。6月5日、日本軍のミッドウェー島に対する空襲で始まった戦闘は、当初、日本軍優位のうちに推移していたが、米海軍の急降下爆撃隊にすきをつかれ、たちまち「赤城」「加賀」「蒼龍」の3空母を失った。残る「飛龍」も米軍機の攻撃で沈没し、結局、このミッドウェー海戦は日本海軍の大敗に終わった。
大本営発表を受けた新聞記事では「肉を斬らせて骨を斬る必殺の海軍魂」のあらわれだとしたが、現実には、「骨」を斬られたのは日本海軍だった。この真実を国民に隠すため、厳しい秘密主義がとられた。生存者にはかたく口止めがされ、通信は絵ハガキだけが許されて、封書はいっさい禁止された。
戦死者の遺族に対しても、ことの真相は隠され続けた。たとえば、空母「加賀」乗組の戦死者の遺族には、1カ月以上たってから、「名誉の戦死」の公報が送付され、①「生前ノ配属艦船部隊名等」の守秘義務②父母妻子(やむをえない場合は兄弟)以外には戦死の事実を漏らさないこと③僧侶の読経など外部へ漏れる行事の禁止——といった注意事項が指示されていた(黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』)。
沖縄戦の悲劇
日本の敗色が濃厚となった1944年、日本軍は沖縄諸島の防衛を強化しようと、16歳から48歳までの男性を防衛隊などの名で動員し、陣地の構築や飛行場の設営作業を行わせた。
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。6月に守備軍が全滅するまで、戦闘は沖縄全土を巻き込み、約3カ月続いた。この間、日本軍は働ける男性のほとんどを、武器を持たない兵員である義勇軍として徴兵した。中等学校生は、男子が鉄血勤皇隊として戦い、女子が看護要員として働き、悲惨な最後を遂げた。
沖縄戦の特徴の一つは、日本軍守備隊の戦死者数とほぼ同じ数の一般住民(いずれも約9万4000人)が戦闘に巻き込まれて死亡していることである。沖縄の防衛にあたる第32軍と大本営は、沖縄戦を、本土決戦準備のための時間を稼ぐ捨て石作戦として位置づけていた。県民の避難計画や安全確保対策は後回しとなり、県民から大きな犠牲者を出す結果となった。
沖縄戦のもう一つの特徴は、日本軍によって、多数の沖縄県民が殺害されたことだ。日本軍は、米軍のスパイとみなした一般住民をただちに処刑しただけでなく、日本軍将兵用の壕を確保するため、住民を壕から追い立てた。これによって、多くの住民が激しい銃放火にさらされ、生命を奪われた。
さらに深刻なのは、「集団自決」である。米軍に圧倒され、戦局の行く末に絶望して自暴自棄になった日本軍将兵は、手榴弾を配るなどして、住民に「皇国臣民」として「自決」することを強要した。沖縄の地方有力者が協力している場合もあるが、日本軍が関与・主導しなければ、この「集団自決」は起こりえなかっただろう(前掲『アジア・太平洋戦争』)。
作家の司馬遼太郎氏は沖縄戦について考察し、「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない」「軍隊は軍隊そのものを守る」と喝破する。さらに、「もし米軍が沖縄に来ず、関東地方にきても、同様か、人口が稠密なだけにそれ以上の凄惨な事態がおこったにちがいない」と述べる(『街道をゆく6 沖縄・先島への道』)。
アジア太平洋戦争の戦死者の大部分は、沖縄戦を含む、マリアナ諸島陥落後の絶望的抗戦期に発生している。岩手県の事例によれば、44年1月以降の戦死者は、全体の実に87.6%に達している。歴史学者の吉田裕氏は、「戦争終結の決断が遅れたことで、どれだけ多くの生命が失われたかを、この数字は示している」と指摘する。
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