墨子は、姓は墨、名は翟。その生涯については不明なところが多いが、魯に生まれ、手工業者階級の出身と伝えられる。若いころは儒学を学んだが、後に墨家の祖となった。

墨子は天の意志に基づく博愛主義である「兼愛」を説いたが、戦争が兼愛主義と相容れないことは言うまでもない。その著書とされる『墨子』には「非攻」の篇があって、戦争、とりわけ侵略戦争が道徳上の罪悪であることを詳述している(以下、原則として和田武司訳を参照)。
墨子はまず、次のように説く。ここに男が1人いる。この男が他人の果樹園に忍び入って、桃や季を盗んだとする。もしこの事実を知れば、誰もがこの男を非難するだろう。役人は男を捕らえて処罰する。自分の利益のために、人に害を与えたからである。
墨子は以下、「もしこの男が、他人の犬や羊、鶏や豚を盗んだとしたら、どうか」「他人の厩舎に押し入って、馬や牛を盗んだらどうか」「罪もない人を殺して、着物や剣を剥ぎとったとしたら、どうか」と問いを重ねていく。後になるほど、男の罪は重くなり、「以上のような場合、天下の君子は、いずれもみなこの男を非難し、不義と認めるだろう」と述べる。誰もが墨子の主張に同意するだろう。
しかし、と墨子はここで指摘する。「そういう君子であっても、他国を侵略するという大きな不義については、非難しようとしない。それどころか、かえって称賛し、他国侵略を「義」とみなしている。いったい、かれらは、本当に義と不義との区別をわきまえているのであろうか」
墨子は他国への侵略を最大の犯罪として、日常的に起こる犯罪の延長線上に位置づけ、その不当性を主張している。これは現代西洋の徹底した自由主義哲学であるリバタリアニズムに通じるものがある。
米経済学者ウォルター・ブロック氏は、リバタリアニズムの原則は「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害(暴力の行使)は正当化できない」ということだとしたうえで、この原則を世の中のありとあらゆる場面に適用させようとする点にリバタリアニズムの特質があるという(『不道徳な経済学』)。たとえば、徴税は国家による暴力的な権利の侵害として批判される。戦争も同様だ。
墨子は続けて、同様の主張を別の表現でたたみかける。人ひとりを殺せば、不義であるとして、必ず死刑に処せられる。もしこの論理に従うとすれば、人を10人殺したときには、不義を10回犯したのだから、10回死刑に処すべきである。100人を殺せば、100回死刑に処すべきである。こういう犯罪については、天下の君子は、いずれもこれを非難し、不義と認める。
ところが、と墨子は再び指摘する。「他国侵略という大きな不義については非難しようとしない。それどころか、かえってこれを「義」とみなしている」
ここでの墨子の論理は、チャップリンの映画『殺人狂時代』の有名な場面を思わせる。チャップリン扮するベルドーは勤めていた銀行をクビになり、金持ちと結婚しては殺し、保険金を奪うようになる。逮捕され、裁判長に向かって言う。「なるほど、私は7人の女を殺した。生活のために……。だが、戦争で100万人の人間を殺した者は、罰せられない。勲章をもらい、英雄と呼ばれる。なぜです、なぜですか」
『墨子』非攻篇には、2つの「兵」が説かれている(湯浅邦弘『諸子百家』)。1つは肯定される「兵」であり、もう1つは否定される「兵」である。否定される「兵」は、「大いに非(不義)をなして他国を攻める」「季節や民情を無視していたずらに戦争を起こす」「無実の国を攻伐する」などで、要するに侵略戦争である。
これに対して、肯定される「兵」は、「誅」と「救」の語によって端的に示される。「誅」とは古の聖王が天命を受けて不義の暴君を罰するための誅罰であり、「救」とは大国から攻伐から弱小国を救済するための防衛戦である。このうち「救」の防衛戦が、まさしく墨者の活動にあたる。
墨家は、兼愛と非攻の理想を実力行使によって実現しようとした。単に戦争反対を叫ぶのではなく、軍事集団を組織して、弱小国の防衛にあたったのである。その実践体験の中から、城の防衛に関する様々な技術も編み出した。前述したように、墨家の非戦論は侵略に反対するもので、絶対平和主義ではない。正当防衛であれば実力行使を認め、その手段として外部の民間組織を活用する点は、やはりリバタリアニズムと共通する。
フィクションだが、墨家の防衛活動を具体的に描いた作品がある。漫画『墨攻』(作画・森秀樹、原作・酒見賢一)は、大軍にたった1人で立ち向かった墨者の物語だ。中国の戦国時代、趙の1万5000の大軍は燕の小さな梁城を落とそうと迫る。梁は墨家に救援を要請したが、やって来たのは革離というみすぼらしい、たった1人の墨者だった。革離は、様々な守城技術を駆使し、趙の攻撃を見事に跳ね返す。
あるとき、死を覚悟した革離は部下に対し「今度の戦でもし拙者が死んでも、拙者のなきがらは野ざらしにしといてくれ」と頼む。「そんな失礼なことは出来ません」と驚く部下に、革離は「いや、それが一番うれしいのだ」と答える。「何の報酬も望まず、他人に奉仕する墨者にとって、薄葬(手厚い葬式の反対の意)こそ最高の礼であった」と作者は説明する(単行本第3巻)。
中国哲学研究者の湯浅邦弘氏によれば、墨家は、ひたすら「天下の利」のために、侵略戦争を実力で阻止しようとする。一国の王に殉ずるのではなく、あくまで天下のために奔走するのである。彼らを支えるのは、墨者の「義」であり、王から与えられる褒賞ではない。
墨家は、儒家と天下の思想界を二分するほどの勢力を築き上げたが、秦帝国の成立以降、歴史上から忽然と姿を消す。秦帝国が法家思想に基づいて導入した中央集権的な郡県制と、封建体制の下、諸国家が平和に共存する世界を理想とする墨家思想の対立が原因だとみられている。
墨家は思想活動のためには武装を伴い、治外法権的集団を必要とするうえ、常に全世界的視野にのみ立ち、個人的信条としてはほとんど意味をなさないゆえに、漢代以降、諸学派が形を変えて復興する中にあって、ひとり墨家だけは、再生することなく絶学への道をたどることになった(浅野裕一『諸子百家』)。
戦争という国家の暴力が世界で頻発する現在、墨子の思想は再評価の価値がありそうだ。