資本主義は死なない
資本主義の死期が近づいている――。これが本書の根幹をなす主張である。果たして、資本主義は本当に死ぬのだろうか。
著者は、資本主義を「『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」(「はじめに」)と定義する。しかし、この定義はマルクス主義の影響を強く受けている。内容もあいまいでわかりにくい。
もっと一般的な定義をみてみよう。コウビルド英英辞典では、資本主義(capitalism)を次のように定義する。"Capitalism is an economic and political system in which property, business, and industry are owned by individuals and not by the state." すなわち、「財産・企業・産業が政府ではなく、個人によって所有される経済・政治制度」である。イデオロギー臭がなく、明瞭だ。これら二つの定義を念頭に、著者の主張を検証してみよう。
著者によれば、資本主義の死が近づいているのは、もはや地球上のどこにもフロンティア(開拓領域)が残されていないからである。たしかに、著者の定義のように、資本主義がフロンティアを広げることによってしか存続できないとすれば、フロンティアの消失(それが事実かどうかは別として)は、資本主義の消滅につながるだろう。
だが、より一般的な定義に従えば、フロンティアが消失したからといって、資本主義が死ぬことはない。フロンティアの有無にかかわらず、財産・企業・産業が個人によって所有(私有)されている限り、それは資本主義だからである。
著者は、資本主義の死の兆候として、主要国で金利がゼロ近くに低下している事実を挙げる。経済の仕組み上、金利は利潤率とほぼ同じだから、これは利潤を得られる投資機会がもはやなくなったことを意味するという(第一章)。
しかし、この主張はいくつかの点でおかしい。まず、利回りがどんなに低水準でも、ゼロより大きい限り、利潤は増える。名目上の伸びはわずかかもしれないが、デフレで物価が下がれば実質価値は大きくなる。つまり投資機会はなくならない。
次に、利潤が平均すればわずかなものだとしても、個々には黒字の企業と赤字の企業がある。赤字続きの企業は淘汰されるだろうが、消費者の支持を集めた企業は、これまでと変わらず高い利益成長を遂げるだろう。
そして、一番重要なことだが、そもそも昨今の低金利は、資本主義を特徴づける自由な市場取引ではなく、政府・中央銀行の人為的な金融緩和政策がもたらしたものである。著者は文中で金融緩和政策に触れているにもかかわらず、低金利をあたかも自然な経済現象のように述べるのは、理解に苦しむ。
著者はまた、1980年代半ばから米国で金融業への利益集中が進んだのは、資本主義が原因だという。しかしこれも、米国の中央銀行である連邦準備銀行がマネーをあふれさせて人為的な株式ブームを起こし、金融機関を潤したことによる。
著者は、「むきだしの資本主義」は巨大なバブルの生成と崩壊をもたらすと述べる(第五章)。しかし上述のように、バブルを起こすのは自由な取引ではない。景気対策やバラマキ政策のためにマネーを氾濫させる政府・中央銀行である。
ようするに、本書で資本主義の問題点として列挙されたさまざまな経済現象は、政府がその元凶なのである。それに気づかない著者は、対応策として「少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります」などと、さらなる政府の介入を主張する。
もし著者の提案どおり、各国政府がこれまで以上に経済への介入を強め、財産・企業・産業の所有権を個人から奪い続ければ、たしかに資本主義ではなくなっていく。ただし、それは著者の主張とは違い、歴史的な必然ではなく、政府権力の意図によってそうなるのである。
しかしそれでも、資本主義は死なないと断言できる。資本主義によって生み出される富がなければ、社会は貧窮化し、政府自身も存続できないからである。旧ソ連・東欧における社会主義の崩壊はそれを証明したし、日米欧におけるケインズ流の政府介入もバブルと重税で経済を疲弊させ、同様の道筋をたどりつつある。
本書には、公共事業やリフレ政策に対する批判など正しい指摘もある。しかし、資本主義が死ぬ運命にあるという根本の主張は、誤りである。
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