守銭奴は悪くない
クリスマスの季節が近づくと、この小説が映画化・舞台化されるなどして、よく話題になる。残念なのは、主人公の商人スクルージが社会にとって迷惑でしかない、カネの亡者として描かれていることである。たしかにスクルージはカネの亡者かもしれないが、見えない形で、社会に恩恵をもたらしている。
まず、スクルージが長年商売を続けられているということは、多くの取引相手を満足させていることを意味する。取引相手はスクルージの性格を嫌っているかもしれないが、それでも取引を続けるのは、商売相手として信頼できるからである。スクルージは取引相手を満足させることで、間接的に取引相手の顧客も満足させ、社会全体の満足向上に貢献している。
また、スクルージは稼いだカネを貯め込んでいることから、守銭奴と非難されるが、カネを貯め込む人は社会に貢献している。銀行に預け、あるいは株式や社債を買えば、カネは企業の投資に使われ、生産力を高め、社会を物質的に豊かにする。
もし金融機関を信用せず、稼いだカネをすべてタンス預金にしたらどうだろう。この場合も社会に貢献する。世間に出回るカネの量が減り、物価が安くなるからである。
今の世の中では、物価が下がること(デフレ)は悪いことで、物価安をありがたがるのは無知の証拠だという迷信が広められている。しかし実際には、物価安は個人にとっても社会全体にとっても、良いことである。
そしてスクルージは、なんといっても、争いを好まない平和的な人物である。暴力は振るわないし、他人の物を奪うこともない。頭にきて「死ねばいい」と口走ってしまうことはあっても、行動に移しはしない。死者から物を奪い手柄を誇る盗人には、怒りを燃やす正義感もある。
社会に平和的な人物が一人でも増えれば、社会はそれだけ平和になる。スクルージはその意味でも、社会に貢献している。
社会をより平和にするために、スクルージにあえて一つ注文をつければ、自分の価値観を他人に押しつけないよう気をつけてほしい。クリスマスのお祝いをいう甥に向かって、スクルージは「めでたい理由がどこにある? 年が年中、素寒貧のくせにして」と毒づく。しかしカネがなければめでたくないというのは、スクルージの価値観にすぎない。甥が反論するとおり、カネがなくても幸せという価値観もありうるし、あっていい。
しかしこれも、スクルージだけを責めるのは酷だろう。スクルージの周囲の人々も、クリスマスは祝わなくてはならない、という自分たちの価値観をスクルージに押しつけているからである。「価値観の多様化」は平等でなければならない。
おそらく作者ディケンズの意図とは裏腹に、この小説を読んでいくと、スクルージが悪い人間ではないことがわかる。訳者があとがきで「人が何と言おうと誹ろうと、スクルージは断じて悪人ではない」と書いているとおりである。
しかしそれは、ディケンズが正直で優れた作家だったあかしでもあるだろう。商人というものの姿を、不自然なウソを交えず活き活きと描いた結果、それは暴力を振るわず、略奪もせず、争いを好まない人物にしかならなかったのである。政治家ではこうはなるまい。
スクルージに対する誤解を解いたうえで、平和を祈るクリスマスにふさわしい作品として読み継がれていってほしい。
(アマゾンレビューにも投稿)
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