2018年5月5日土曜日

不偏不党は正しいか

放送法問題をきっかけに、ジャーナリズムの「政治的公平」が注目されている。日本ではこの標語やマスコミの「中立」「不偏不党」は当然と思われているが、海外ではそうではない。そればかりか、日本でもかつてはなじみのない考えだった。

国連人権理事会が任命した特別報告者のケイ米カリフォルニア大アーバイン校教授が先月、訪日調査を終え、放送事業者に「政治的公平」を求めた放送法4条の規定を根拠に高市早苗総務相が放送局の電波停止に繰り返し言及した問題について、「大いに懸念を抱いている。4条を廃止すべきだ」と述べた

ジャーナリズムの「政治的公平」が絶対だと信じる日本人は、ケイ教授の発言に驚いたことだろう。しかし海外では、「政治的公平」やそれに似た「中立」「不偏不党」は、ジャーナリズムにとって必ずしも良い意味の言葉ではない。

まず「政治的公平」はもともと、電波帯域の有限希少性に支えられた、放送ジャーナリズム特有の原則である。このためデジタル時代に入り、その必要性が薄れている。米国では規制緩和の一環として、連邦通信委員会による「公平原則」が撤廃された。

次に「中立」は、西洋で市民革命後、各新聞が政治抗争の中間に立ち位置を求めるため標榜した。しかし中間が真ん中だとすると、世の中が左に寄れば真ん中も左に傾き、右に寄れば右に傾くことになる。20世紀に入りこのことが反省された。早稲田大学ジャーナリズム教育研究所編『エンサイクロペディア現代ジャーナリズム』(同大学出版部)によれば、19世紀ロンドンでは多くの新聞が「中立」を掲げたが、現在ではほぼ皆無という。

日本の新聞に多い「不偏不党」は、当初から存在したわけではない。明治前期までは自由民権運動を背景に、政治的立場をはっきり主張する「大新聞」が力をもっていた。だが政府の厳しい言論統制で衰退していく。

それを決定的にしたのが、大正7年に起こった白虹事件である。米騒動の報道禁止に抗議し論陣を張る大阪朝日新聞に対し、寺内正毅内閣は記事中の「白虹日を貫けり」の一句が皇室の尊厳を冒瀆するものとして告発。鳥居素川編集局長や長谷川如是閑社会部長が退社に追い込まれた。

同紙がこのとき公表した「編集綱領」に「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し……」という文言があった。「不偏不党」とはジャーナリストの志を謳う理念ではなく、権力に恭順の意を示す転向声明だったのである。

国連の圧力で放送法が改正されたとしても、「中立」「不偏不党」の誤りに気づかない限り、日本のジャーナリズムは権力の監視という役割において半人前のままだろう。

(2016年5月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

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