2018年5月21日月曜日

人は誰でも残酷になる

評論家の石平が数年前に刊行した『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)という本がある。文化大革命や天安門事件、権力闘争、異民族征圧に際して生じた虐殺を暴露し、日本人と比べ人殺しが好きな中国人の真実を明らかにするという。

アマゾンに投稿された読者のレビューはどれも評価が高く、「やっぱり中国人の残虐さは日本人の比ではないようです」「ただ殺す人数が多いというだけではなく、その殺し方も非常に残虐で、特に女性に対するそれは想像するだけで吐き気がします」などと優越感に浸っている。

中国共産党をはじめ、支那人が多くの残虐行為を行ってきたことは事実である。しかしだからといって、日本人が支那人よりも残酷でないとは言えない。それを確かめるには「南京大虐殺」について調べる必要などなく、日本の歴史を少し知っていればよい。

戊辰戦争で明治政府軍は錦の御旗を掲げて会津若松に殺到し、会津戦争となった。だが官軍の所業は、とても正義にかなうとは言いかねるものだった。

星亮一『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)は郷土史家、宮崎十三八の描写を紹介している。

それによれば、若松城下に襲いかかった薩摩、長州、土佐、肥前の西軍は土佐兵を先頭に城下の各町に殺到し、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺され、あるいは砲弾の破片に当たって死んだ。

屋敷のなかは煙が充満し、火の手が迫る。そこにまた砲弾が炸裂した。至るところで阿鼻叫喚、修羅場はたちまちこの世の地獄となった。攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば、撃ちまくったという。まるで伝えられる「南京大虐殺」の有様そのものである。

戦後処理も非道だった。明治新政府が「賊軍の死骸には手をつけるな」と厳命したため、千数百の遺体が城下に放置され、野犬や鳥の餌食になった。

それだけではない。会津藩士とその家族は戦後、遠く青森県の下北半島に流され、老人や子供が飢えのためにバタバタと命を落とす。

大正時代に入っても日本政府は会津に冷淡で、鹿児島や山口には旧制高等学校が設置されたが、会津若松には高校はおろか専門学校もできなかった。「これほどの差別があるだろうか」と宮崎は憤る。

人間の残酷性は国籍、民族、宗教を問わない。時と場合により、誰もが残酷になりうる。日本人だけがその本性と無縁でいられるわけがない。他国人の残酷性をあげつらい、自国人のそれに気づかない底の浅い人間観にはあきれるしかない。

(2017年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

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