注目の投稿

「反インフレ経済勉強会」開講のお知らせ

インフレは税の一種です。しかも普通の税よりも悪質な税です。ところが、この事実はよく理解されていません。それどころか、多少のインフレはむしろ良いことだという嘘が、現在主流の国家主義的な、誤った経済学(ケインズ経済学)や、そこから派生した極端な説 (MMT=現代貨幣理論など) によっ...

2022-09-18

多数による専制

哲学者、ハーバート・スペンサー
(1851年)

政治的な迷信のうち、多数派が全能だという考えほどあまねく広まっているものはない。秩序維持のためには、何らかの政党が権力を行使することが必要だという印象の下、現代の道徳感覚は、社会の最大多数の者以外にそのような権力を正当に与えることはできないと感じるのだ。

「民の声は神の声」という言葉を文字どおりに解釈し、神の声に伴う神聖さを民の声に移し、民衆の意志、すなわち多数派の意志に不服を申し立てることはできないと結論づける。しかし、この考え方は完全に間違っている。

かりに人口増による飢饉を恐れ、世論を正当に代表した法律によって、向こう十年間に生まれるすべての子供を溺死させるよう定めたとしよう。このような立法が正当化されると思う人はいるだろうか。もしいなければ、多数派の力に限界があるのは明らかである。

ケルト人とサクソン人という二つの民族が一緒に暮らしているとして、数が多いほうの民族が他方を奴隷にすると決めたとしよう。この場合、多数派の権威は有効だろうか。もし有効でないなら、その権威を従属させなければならないものがあるはずだ。

年間所得五十ポンド以下のすべての人が、五十ポンド超のすべての人の所得を自分たち並みまで減らし、超過分を公共の目的に充てるよう決議したとしよう。この決定は正当化されるだろうか。もしされないのなら、民衆の声が従うべき法は、やはり存在する。

では、その法とは何だろうか。純粋な平等の法、すなわち平等な自由の法しかありえない。

多数派の意見に課される制限は、まさに平等な自由の法によって設けられたものだ。私たちは殺人、奴隷化、強盗を行う多数派の権利を否定するが、それはひとえに殺人、奴隷化、強盗がその法に違反し、見過ごすにはあまりに重大だからだ。しかし大きな違反が誤りならば、小さな違反もまた誤りである。

憲法を純粋に民主的なものにすれば、政府は絶対の正義と調和するだろうと、真面目な改革派は考える。このような信念は、おそらく時代の要求なのだろうが、非常に誤ったものだ。いかなる手続きによっても、強制を公正なものにすることはできない。

最も自由な政府の形とは、好ましくない度合いの最も少ない形にすぎない。少数による多数の支配を専制政治と呼ぶが、多数による少数の支配もまた専制政治であり、激烈さの度合いが小さいだけだ。どちらの場合も、「お前の意志ではなく、我々の意志に従え」と宣言する。それが99人によって100人に対して行われるのでなく、100人によって99人に対して行われるとしたら、不道徳の度合いがほんの少し小さいにすぎない。

二つの集団のうち、「お前の意志ではなく、我々の意志に従え」という宣言を実行するほうは、平等な自由の法を破ることが避けられない。唯一の違いは、一方では99人の個人によって破られ、他方では100人の個人によって破られることだ。民主的な政治形態の長所は、少ないほうの人数に対して破るということにしかない。

多数派と少数派の存在そのものが、不道徳な状態を示している。道徳律に調和した性格の人間は、仲間の幸福を減らすことなく完全な幸福を得ることができる。しかし投票によって公的な取り決めを実行すれば、そうでない人間からなる社会を意味する。ある者の欲望は他の者の欲望を犠牲にしなければ満たされないことを意味し、幸福を追求するために多数派が少数派にある程度の不幸を与えることを意味する。したがって、組織的な不道徳を意味する。

政府は最も公平な形であっても、自身を悪から切り離すことはできない。国家を無視する権利が認められなければ、国家の行為の本質は犯罪とみなさなければならない。

(次より抄訳)
The Right to Ignore the State | Mises Institute [LINK]

2022-09-17

「欧米の価値観」を守らない欧米人たち

ジャーナリスト、ケイトリン・ジョンストン
(2022年9月16日)

外国の専制政治を声高に非難する人々が、欧米帝国に対するあらゆる批判の検閲とソーシャルメディアからの排除を求める人々と、いつも同じであることに気づいたことがあるだろうか。

これは欧米社会に蔓延する、精神のウイルスだ。大勢の前で、米国とその同盟国の外交政策を大胆かつ一貫して批判する人は誰でも、帝国の擁護者たちから、ロシアの工作員の烙印を押される。同時に、ロシアの工作員や「役に立つ馬鹿(プロパガンダに利用される者)」は欧米のソーシャルメディアから追放されるべきだという意見もじわじわ増えている。

欧米帝国を擁護する人々は、批判者すべてを黙らせたがっているとは認めないものの、(A)十分攻撃的に帝国を批判する者をすべてロシアの工作員とみなすという事実と、(B)ロシアの影響を受ける者は検閲されるべきだという彼らの意見とを結びつければ、そうなる。欧米帝国の外交政策を批判すると、その擁護者たちが、もしロシアや中国のような国に住んでいたら、そのように支配者を批判することは決して許されないだろう、と言ってくる。彼らは、自分たちが軽蔑すると言っている暴君と同じなのだ。

「欧米の価値観」の問題点は、欧米人がその価値を認めていないことだ。認めていると思ってはいるが、表現の自由や、真実の光によって権力の責任を問うことに対する畏敬の念は、支配者や宣伝担当者の主張と大きく異なることを言う人を見た瞬間に、すっかり消えてしまう。そしてその人物を黙らせ、ソーシャルメディアから追放するよう望む。

本当は、欧米帝国を強く批判する人は、帝国の擁護者よりもはるかに多く、欧米の価値観を体現している。言論の自由と権力者の責任追及を重視するのは、帝国を批判する人々だ。世界一の権力者たちを厳しく監視する人々に対し検閲を求め、罵倒するのは、米国中心の帝国に洗脳された従順な連中である。

私は「ロシアに移住しろ!」「中国に移住しろ!」と言われるが、「いや、あなたこそロシアに移住しろ」「中国に行け」と言いたい。反対意見や権力批判を弾圧しようとしているのは、あなただ。私は欧米の価値観そのままに生き、史上最強の帝国に正常な監視を要求しているのだ。あなたは欧米にふさわしくない。

学校では、欧米社会は真実、言論の自由、平等、権力者の説明責任、敵対的ジャーナリズムを重んじると教えられるが、大人になると、ロシアのメディアが禁止され、主流リベラル派の熱狂的な支援を受けて検閲が拡大されるのを見る。ソーシャルメディア上で、ウクライナに関する体制側の主張を吟味する人々を大量に報告し、追放する作戦を見る。ウィキリークス創始者ジュリアン・アサンジが無許可のジャーナリズムの罪で収監されるのも見る。

私たちの聞かされる「欧米の価値観」が、実は欧米ではあまり一般的でないことは、周りを見渡せば明らかだ。欧米の主要メディアで、西洋文明の権力中枢に対して意味のある批判をする人物を登場させることは、ほぼ皆無である。

学校で教えられた欧米の価値観を信じる者もいる。それは意外かもしれないが、私たち、無視されたアウトサイダーだ。私たちは検閲、プロパガンダ、帝国の報道弾圧に断固反対する。権力機構に周縁から真実の光を当てるために、たゆまず働く。体制派のサイコパスから怒鳴られ、反逆者と責められる。体制派の連中は、自分が支持するという欧米の価値観よりも、反対するという独裁者たちとのほうが、はるかに多くの共通点を持っているのに。

(次より抄訳)
The Ron Paul Institute for Peace and Prosperity : The Trouble With ‘Western Values’ Is That Westerners Don’t Value Them [LINK]

2022-09-16

個人主義と文明

経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
(1958年)

西洋の社会哲学の特徴は、個人主義である。それは個人が国家という強制と抑圧の社会装置による干渉に縛られることなく、自由に考え、選択し、行動することができる領域の創造を目指すものである。西洋文明の精神的、物質的な達成は、すべてこの自由の思想の営為の結果であった。

自由の思想と、個人主義・資本主義の信条、その経済問題への応用は、弁明や宣伝を必要としない。その成果は自ずから明らかである。

資本主義と私有財産制の正しさは、他の事情とともに、その比類ない生産効率の高さによっても証明される。資本主義での企業活動はこれほど効率が高いからこそ、急増する人口を絶えず向上する生活水準で支えることができる。

その結果、大衆はしだいに豊かになり、それによって生み出される社会環境では、並外れた才能のある個人が、自分が与えることのできるすべてを他の市民に自由に与えることができる。私有財産と小さな政府からなる社会制度だけが、自分らしく生きる能力をもつすべての人々を野蛮から解き放つことができる。

大きくて速い自動車、セントラルヒーティング、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、テレビを備えた家よりも、人類にとって必要なものがあると考え、資本主義の物質的な成果をけなすのは、安上がりな気晴らしだ。たしかに、もっと高尚な趣味はある。しかし、それが高尚なのは、うわべの努力では到達できず、個人の決意と努力を必要とするからだろう。

資本主義をこのように非難する人々の見方は、かなり粗野かつ唯物論的で、政府によって、あるいは生産活動の見直しによって道徳的・精神的文化を築くことができると考えている。外的要因によって達成できるのは、個人が自己の完成と啓発のために働く機会を与える環境と能力をもたらすことである。

大衆がギリシャ悲劇の上演よりボクシングの試合を、ベートーヴェンの交響曲よりジャズ音楽を、詩よりマンガを好むのは、資本主義のせいではない。しかし資本主義以前には、世界の大半で高尚な芸術をごく少数の人々にしか提供できないのに対し、資本主義が多くの人々にそれらを楽しむ便利な機会を与えているのは確かである。

資本主義をどのような角度から見ても、古き良き時代といわれるものが過ぎ去ったことを嘆く理由はない。ナチスドイツであれソ連であれ、全体主義のユートピアに憧れることは、正しいとはいえない。

今夜、モンペルラン・ソサエティー(経済学者ハイエク、ミーゼス、レプケらによって1947年に創設された自由主義者の団体)の第9回総会を開催する。この種の会合で、同時代の大多数の人々や政府と反対の意見を述べることは、西洋文明の最も尊い特徴である自由の風土においてのみ可能であり、それをこの機会に思い出すのはふさわしいことだ。反対意見を表明するこの権利が決して消え去らないよう願おう。

(次より抄訳)
Individualism and Civilization | Mises Wire [LINK]

2022-09-15

「科学に従え」の真意

経済教育財団(FEE)ウェブサイト マネージング・エディター 、ジョン・ミルティモア
(2021年4月12日)


経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、科学的な主張を使って社会を形作ろうとすることの問題点を指摘したことがある。ミーゼスの示唆によれば、多くの場合、人々は単に自分たちが何をしなければならないかを他人に伝えるために科学を持ち出すのである。

ミーゼスは1947年の論文で、「政策立案者は、自分の計画が科学的で、善意あるまっとうな人々の間で異論がありえないかのように装っている」と書いた。

科学が有用な道具であることはほとんどの人が認めており、ミーゼスもその一人であることは間違いない。ミーゼスが言いたかったのは、科学は実際に私たちが何をすべきかを教えてはくれないということだ。「何をすべきか」は主観的な価値判断の領域である。科学が教えてくれるのは、事実関係だけなのだ。「科学的なべき論などというものは存在しない」とミーゼスは書いた。

ミーゼスはこう続けた。「科学は、何がどのようにあるべきで、人々が何を目指すべきかを決めることはできない。人間が価値判断で意見が分かれるのは明白な事実である。他人の計画を覆し、政策立案者の計画に従わせる権利が自分にはあると主張するのは横暴である」

ミーゼスが正しく見抜いたように、人々が「科学に従え」と言うとき、本当は「我々の計画に従え」と言っていることが多いのである。

十代の環境活動家グレタ・トゥンベリが、気候変動に関する科学に従えと言うとき、地球が温暖化していること、人間が地球の気候に影響を与えていることを認めるべきだとは言っていない。肉を食べない、飛行機に乗らない、化石燃料に課税する等々の計画を人々が採用すべきだと言っているのである。

億万長者の環境活動家ビル・ゲイツは2021年2月、肉を食べないようにする理由とその方法を説明した。

ゲイツは科学技術誌のインタビューで、牛肉1ポンドあたりの排出量は最適とは言えないと指摘し、「すべての豊かな国々は100%合成牛肉に移行すべきだと思う」と述べた。「味の違いには慣れるし、時間が経てばもっとおいしくなると言われている。いずれグリーンプレミアム(環境にやさしい分だけ割高な値段)は十分低くなり、人々の行動を変えるか、規制を利用して需要を完全にシフトさせることができるようになる」

政府は科学者の意見に耳を傾けるべきだと言うトゥンベリとゲイツの提案は、良い案かもしれないし、悪い案かもしれない。重要なのは、その提案には科学だけではなく、価値判断が含まれていることを理解することだ。

2020年に人々は、新型コロナに関し「科学に耳を傾けよ」と繰り返し言われた。しかしコロナをめぐる根本的な不一致は、科学に関するものではなかった。蔓延を抑えるためにどのような行動をとるべきか、誰が(個人か政府か)それを実行すべきか、人々に行動を強制すべきかどうかだった。

これらは倫理的な問題であって、科学的な問題ではない。健全な科学は、倫理的な問題に判断を下すのに役立つ道具に過ぎない。重要なのは、自分の計画は科学的だから従わなければならないという政策立案者に注意することだ。

(次より抄訳)
A 75-Year-Old Warning about Those Who Say ‘Listen to the Science’ - Foundation for Economic Education [LINK]

2022-09-14

嫉妬と再分配

ケイトー研究所シニアアナリスト、マリアン・テューピー
(2017年8月1日)

進化心理学の最近の研究によると、有権者が所得の再分配を支持するのは、狩猟採集時代の小さな社会に適するよう進化した動機づけのためだ。 再分配の経済的・政治的な詳細を理解することは、人間が自然にできることではない。しかし人間は進化の過程で、より貧しい人々や、より豊かな人々と交流してきた。この過程を通じて、与えるとき、奪うとき、分かち合うときに、うまく行動するよう動機づける神経系を築いた。

人間は、祖先の目を通して現代世界を見ている。再分配に関する政治の言説には、「貧乏人 」や 「金持ち 」といった登場人物が含まれる。自分より貧しい人、豊かな人という共同体のメンバーとの付き合いを律するために進化してきた、動機というレンズを通してこれらの人物を見ているのだ。

研究チームは経済的再分配への支持・反対の論理を理解するため、思いやり、利己心、妬みの三つの動機に焦点を当てた。米国、英国、インド、イスラエルの四つの社会で、それぞれの動機が再分配への支持をどれだけ強く説明するかを検証した。

思いやりとは、自分より貧しい人を助けるために必要な感情である。私たちの祖先は、社会保険や医療保険のない世界に住んでいたので、お互いの不足分を助け合うことで利益を得ていた。隣人が飢えているときに、自分が食料を持っていれば、分けてやることでその人の命を救うことができる。その後状況が逆転し、相手が食べ物を分けてくれれば、自分の命も救われる。

研究チームは、困っている人に対し自発的に思いやりを感じる人ほど、再分配をより強く支持することを発見した。自分自身や自分の家族が恩恵を受けると考える人ほど、再分配を支持する傾向が強かった。

さらに驚くべき結果は、妬みと公正さに関するものだ。自分より裕福な人に向けられる妬みは、再分配を支持するとみられる。ライバルが何らかの活動で自分より優れていると、自分の相対的地位が下がる。人は時にライバルの優位を掘り崩すために行動する。たとえそれが第三者や、時には自分自身に害を与えるとしてもだ。

妬みとそれが生み出す悪意は社会を破壊するが、競争的なゼロサムゲームを含む祖先の世界では、意味をなすことがある。金持ちの税金を下げて貧乏人を助けるための収入を増やすか、金持ちの税金を上げて貧乏人のためのお金を減らすか、という二つの政策について、六人に一人が後者の、意地悪な選択肢を選んだのである。このように、金持ちを引きずり下ろすために貧乏人を痛めつけることをいとわないのは、個人の嫉妬心の強さによってのみ説明される。

政治的な言説や正義の理論において、公正さは重要な位置を占めている。しかし、研究で被験者の公平さに対する好みの違いは、再分配をどれだけ強く支持するかを説明しなかった。米国、英国、インド、イスラエルでも結果は同じだった。再分配への支持は、思いやり、利己心、妬みによって説明されたが、公平性によって説明されたわけではない。

(次より抄訳)
Compassion, Self-Interest and Envy Shape Redistribution - HumanProgress [LINK]

2022-09-13

マルクスの銅像はなぜ許される?

ライター、ロビー・ストーン
(2018年11月2日)

人々はファシズムの象徴である鉤十字を見れば、すぐにナチスの悪事を連想し、嫌悪感を抱く。欧州の多くの国では、この印を公にすることは犯罪とされている。人々はナチスのイデオロギーがいかに忌まわしいものであるかを理解し、軽蔑と嫌悪の念をもって接する。

しかし、共産主義の象徴である「鎌と槌」の場合はどうだろう。

ナチスのホロコーストと同じく、共産主義はソ連の強制収容所やカンボジアでの(ポル・ポト政権による)殺戮が広く知られる。しかしジャーナリストは公然と、誇らしげに共産主義を擁護している。マルクスの銅像が建てられている。歴史的に最も熱心な反共産主義国家の一つである米国でさえ、北西部の都市シアトルに(ロシア革命を起こした)レーニンの銅像が建っている。

なぜ、同じように血なまぐさい二つのイデオロギーを、これほどまでに違う形で扱うのだろうか。

その答えは、美徳に対する誤った認識にあるのかもしれない。ナチスは当然のことながら、憎悪と悪意に満ちたものとみなされている。なぜならナチスのイデオロギーは、ある集団が他の集団より優れているという考えを中心に構築されているからだ。その本質は反平等主義のイデオロギーであり、それを考案した人々によって一度だけ実行に移された暴力的な信念である。

そのため、ファシストが「あれは本当のナチズムではない」と主張することは正当化されない。だが共産主義の場合は違う。

マルクスは自分では共産主義を実行しなかったので、共産主義国家の指導者はいつでも非難を免れる。共産主義体制が直面するあらゆる欠点・悲劇・危機はいつも、マルクスのユートピアに至る工程表に間違いはないのに、その使い方を間違ったせいにすることができる。

都合のいいことに、共産主義者はいつでも、過去の惨事から自分を切り離すことができる。自らを思想の先駆者として描き、その思想はまだ花開くチャンスがないのだと言えばいい。「真の共産主義はまだ試みられたことがない!」というわけだ。

かくして共産主義を擁護する人々は、自分を主人公として描き続けることができる。自分たち労働者階級の解放と労働者の楽園をつくるために戦っており、以前の偽預言者とはまったく関係ないという。最悪でも、共産主義を支持する人々は、見当違いをしているものの、結局は善意に満ちているとみなされる。

これが問題の核心だ。ナチズムがその信奉者の犯罪と本質的に結びついているのに対し、共産主義はつねに切り離すことができる。(ナチスドイツの)ヒトラーや(イタリアの独裁者)ムッソリーニが描かれたTシャツを許せる人はいないだろうが、ひどい弾圧を行った(キューバ革命の指導者)ゲバラはたやすく罪から切り離され、革命のシンボルに変身してしまう。

共産主義の悲惨な実績にもかかわらず、共産主義を支持し続けるのは、善意でも見当違いでもなく、明らかに危険なイデオロギーを意図して推し進めようとしているのである。共産主義の歴史は、ナチズムの歴史と同じように血で汚れている。そろそろ、そのように扱うべきだろう。

(次より抄訳)
Why the Hammer and Sickle Should Be Treated Like the Swastika - Foundation for Economic Education [LINK]

2022-09-12

社会主義が環境にやさしいという嘘

ケイトー研究所主任研究員、マリアン・テューピー
(2017年12月15日)

社会主義国は非常に非効率だった(キューバ、ベネズエラ、北朝鮮など現存する社会主義国では今でもそうである)。生産を最大化し、より効率的な資本主義国に追いつくために、排ガス基準を低く設定するか、基準そのものを設けなかった。安全衛生に関する規制は無視されるか、まったく存在しないかのどちらかだった。独立した労働組合を禁止し、しばしば奴隷労働に頼った。

社会主義の環境軽視は、財産権に対する蔑視によって、さらに悪化した。資本主義経済では、農場や工場は個人または企業の所有物である。もし環境や労働力に損害を与えれば、法廷で責任を問われる。社会主義経済では、土地や空気(極端な場合は人間も)は国家によって所有され、「共有地の悲劇」に見舞われることになった。

例えば、中央の計画当局から一定量の鉄棒を生産するよう命じられた国営工場は、環境や民衆に損害を与えようとも、生産割当を満たすことが許されただけでなく、積極的に促された。資本主義国では、政府は環境基準の実施と労働者の保護を任されている。社会主義国では、政府は生産割当の執行者であると同時に、環境と労働者の保護者だとされる。この二つ役割のうちどちらかを選ぶとなると、社会主義国は必ずと言っていいほど前者を選んでいた。

社会主義国の環境軽視の最たる例は、おそらく中国のデータに見ることができる。毛沢東の大躍進時代(1958〜1962年)の排出量は、米国と比較すると、成層圏に達していた。その後減少したものの、中国が社会主義を放棄する1970年代後半までは、非常に高い排出量が続いた。中国が経済の自由化(価格機構と財産権の導入)を始めてから、排出量は劇的に減少した。

社会主義国は、中央集権的な計画経済の結果、資本主義国よりはるかに貧しかった。これは環境クズネッツ曲線と呼ばれる現象から、重要なことである。一般に、国民が豊かであればあるほど、きれいな空気や川、職場の高い安全衛生基準といった「贅沢品」のためにお金を払う傾向がある。現代人の耳には奇妙に聞こえるかもしれないが、きれいな環境と労働者の幸せは、本当の意味で、ずっと貧しい祖先には手に入らなかった「贅沢品」なのである。

アフリカやアジアの多くの地域にいるような本当に貧しい人々は、自分たちが生き残ることを第一に考えている。他のことは二の次なのだ。信じられないかもしれないが、ジンバブエの経済が崩壊した後、人々は家族を養うために、それまで保護されていた野生動物を殺戮し始めた。ベネズエラの経済破綻では、首都にある動物園の動物たちが食卓に上った。ウクライナの大飢饉(ホロドモール)では、人々は互いに食い合った。

つまり、社会主義が答えではないのだ。歴史的に見ても、社会主義的な生産から生じる環境破壊は、資本主義よりもはるかに大きい。ソビエト帝国崩壊後に行われたあらゆる学術的研究によると、旧社会主義国の環境の質は、資本主義国よりも劣っている。

環境を保護する最善の方法は、金持ちになることだ。そうすれば、庶民の生活に必要なだけでなく、よりクリーンな発電所や水処理施設を作るための資金も十分確保できる。資本主義が富を生み出す最良の方法である以上、人類はそれを貫くべきである。

(次より抄訳)
There's Nothing Green About Socialism - HumanProgress [LINK]

2022-09-11

覇権主義の代償

ジャーナリスト、ジャスティン・レイモンド
(2001年9月11日)

四機の航空機をハイジャックした組織的な作戦で、二機が世界貿易センタービルに突入して倒壊させ、(おそらく)何千人もの死傷者を出した。首都ワシントンでは国防総省そのものが攻撃を受け、少なくとも一回の爆発があったと報じられている。

国務省もさらなるドラマの舞台となった。付近で爆発に見舞われ、避難させられたのだ。ニューヨークの上空をパトロールするF16ジェット戦闘機と、今朝ニューヨークで予定されていた予備選挙の中止をアナウンサーが抑揚ある声で伝える姿は、実に奇妙な光景だった。

米国人はある日目を覚ますと突然、自分たちが第三世界の国に住んでいることに気づく。すべての市民的自由が停止され、戒厳令が発されたと知ったら、誰もが驚くだろうか。何が起こっているのか。

何が起こっているかというと、戦争が米国に戻ってきたのだ。米国と中東のおもな同盟国がパレスチナの蜂起に対して行った戦争は、ガザの通りからアメリカ帝国の都市の大通りに移った。米国人が今直面しているのは、イスラエル人が日々直面していることと同じだ。私たちにとって今回の攻撃は記念碑的な規模の恐怖であり、「異常」という表現が控えめすぎるほど常軌を逸したものである。

イスラエル人は最近、選挙で決断した。パレスチナ人の要求に屈するよりも、このような生き方を選びたい、と。インティファーダ(反イスラエル闘争)に対し強硬路線をとると誓ったタカ派、アリエル・シャロンを首相に選出したのだ。パレスチナの反応は容赦ない。民間人を標的にした自爆テロによる悪質な全面戦争である。イスラエル人はこれを投票で選んだし、自分たちが何をしようとしているのかわかっていて、それに耐えるために自らを奮い立たせている。ここで疑問がわく。米国はいつ、この戦争に賛成したのだろう。

「おおげさな話ではなく、これは第二の真珠湾だ」と、議会の戦争タカ派であるチャック・ヘーゲル上院議員(共和党・ネブラスカ州。オバマ政権で国防長官)は言う。対日戦勝記念日(9月3日)のわずか数日後、神風機が米国の標的に飛び込むという現象が再び起こったことは、米国人に考え直させるだろう。前回米国人がこうした狂信に立ち向かい、打ち負かしたのは、全国民が動員され軍国主義となり、大統領選中止まで取り沙汰された世界大戦のときだった。それを再びやるつもりなのか。冷静に考えてみよう。

米本土は先の大戦でまったく影響を受けなかった。何百万人もの人が殺されたが、自国の海岸ではなかった。敵が一番近くに来たのは、日本軍がワシントン州の上空に熱気球を投下したときだ。しかし、今回は違う。グローバル化の時代に世界大戦とは、すべての人の裏庭が戦場になる可能性があることを意味する。

外交の世界でよく耳にする、「覇権主義」という言葉がある。米国は力の絶頂にある。フランスでは、アメリカ帝国の傲慢な高みを表す特別な言葉として、「超大国」という言葉まで生まれている。この言葉は、人類の歴史を超越し、人類の存在に付随する通常の規則や条件を超越した、並外れた、前例のない権力を表すために作られたものである。

米国は行動するばかりで、結果を重視してこなかった。過去の帝国とは異なり、命令しても反撃されることはないと思われていた。今、私たちはそれが真実でないと知っている。残念ながら、苦労して学ぶはめになった。

(次より抄訳)
Behind the Headlines [LINK]

2022-09-10

ナチスドイツは社会主義国だった

経済学者、ジョージ・ライズマン
(2021年10月1日)

ナチスドイツは資本主義国家ではなく、社会主義国家だった。

この認定は、経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの数ある貢献の一つである。ナチスという言葉が、「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称であることを思えば、ミーゼスの認定はそれほど注目されるものではないかもしれない。「社会主義」を党名に持つ政党に支配される国の経済体制が、社会主義以外の何物だと期待できよう。

しかしミーゼスとその読者を除けば、ナチスドイツを社会主義国家と考える人は、事実上皆無である。それよりも、共産主義者や他のマルクス主義者が主張するように、ナチスドイツは資本主義の一形態だいう考えのほうがはるかに一般的である。

ナチスドイツが資本主義だという主張の根拠は、ほとんどの産業が一見、私的所有に委ねられていたという事実である。

しかしミーゼスが明らかにしたように、ナチスのもとでは生産手段(原材料、土地、道具、機械、建物など)の私的所有は名目上にすぎず、実質所有していたのはドイツ政府だった。すなわち、何を、どれくらい、どのように生産し、誰に分配するか、また、価格や賃金をいくらにするか、名目上の私有者がどのような配当やその他の収入を受け取ることを許されるかは、名目上の私有者ではなく、ドイツ政府が決定したのである。

ミーゼスのいう、事実上の生産手段の政府所有は、ナチスが受け入れた集団主義原理、すなわち共通善が私的善に優先し、個人は国家の目的のための手段として存在するという原理によって、論理的に暗示されていた。個人が国家の目的のための手段であるならば、当然、個人の財産もまたしかりである。個人が国家に所有されるように、個人の財産もまた国家に所有されるのである。

ナチスドイツで事実上の社会主義を確立したのは、1936年に導入された価格統制と賃金統制である。これは1933年初めの政権獲得時から行われていた通貨供給量の膨張に対応したものだ。ナチス政権は公共事業、補助金、再軍備など政府支出の膨大な増加を賄う手段として、通貨供給量を膨らませた。物価と賃金の統制は、通貨膨張の結果始まった物価上昇に対応するために行われた。

価格統制のもとでは、ある品目の供給が減少しても、自由市場のように価格を上げて収益性を高め、供給減少を食い止める作用は働かない。たとえば医薬品の供給が減少しても、値上げで採算を改善することはできない。

こうした価格統制の思わぬ影響に対処するためには、政府は価格統制を廃止するか、逆にさらなる措置、すなわち、何を、どれだけ、どんな方法で生産し、誰に分配するかについての統制を追加しなければならない。価格統制にこのような一連の統制が加われば、経済体制は事実上、社会主義化する。政府が所有権の実質的な権限をすべて行使することを意味するからである。

これがナチスによって組織された社会主義である。ミーゼスはこれを、あからさまな社会主義であるロシア型ないしボリシェビキ型の社会主義に対し、ドイツ型ないしナチス型の社会主義と呼んだ。

(次より抄訳)
Why Nazism Was Socialism and Why Socialism Is Totalitarian | Mises Institute [LINK]

2022-09-09

ピケティがめざす共産主義の復活

経済学者、マーク・ソーントン
(2022年8月11日)

『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティの著書はすべて、経済学的にみてひどいものだ。マルクスの本が何億人もの人々、とくにマルクスとピケティが助けようと提案する低所得者層を破滅させたのと同様、すべてが政治経済にとって危険である。ピケティの新著『平等の簡潔な歴史』は簡潔だけに、これまでの著書の中で最も社会を破壊する恐れがある。

200年前まで、人類の95%以上が「極度の貧困」の中で暮らしていた。その割合は、1980年代末に世界人口の約3分の1まで低下し、現在は10%以下である。しかも人口が急速に増加するなかで、低下している。これは人類史上、最も重要な事実の一つだが、あまり知られていないようで、どのようにして実現したのかもピケティにはまったくわからない。

個人の権利、自由な市場、取引の自由は、経済成長の機会、最低限度以上の賃金、経済的平等の拡大を生み出した。資本主義は労働条件を改善し、富裕層や権力者を相対的に弱らせ、起業家階級(ブルジョア階級)の出現をもたらした。産業革命が経済の生産構造の中心を貴族から労働者へと転換させたことに、ほとんど疑いの余地はない。中世の権力者と農奴、あるいは20世紀の共産主義に比べれば、経済的にもその他の面でも、人々はより平等になったのだ。

ピケティはこうした事実を無視し、社会民主主義の考えと手を結ぶ。さまざまな投票制度や、財産制度に関する政治選択によって(平等という)目標を達成できるため、資本主義はもはや必要ないという。さらにピケティは、達成された平等は「不正に対する争いと反乱」によるものだと考えているが、明らかにそうではない。例えば、近代的な労働組合、社会主義的な政党、左翼の政治基盤は、急速な経済発展と平等普及の後に出現したのであって、それ以前には存在しなかった。

ピケティは教育や健康に関する統計で進歩を測り、それを福祉国家のおかげだと考える。教育や医療は、福祉国家が始まるずっと以前から、貴族以外の人々にも提供されていたにもかかわらず、このような主張をしているのだ。実際、資本主義以前には教育や医療の機会はほとんどなかったし、自由な市場経済への移行に伴い、どちらの指標も急速に向上した。

歴史上、経済の「平準化」が起こった大きな原因は、第一次世界大戦、スペイン風邪、世界恐慌、第二次世界大戦による死、離散、家族形成の減少などである。おびただしい数の若者が死んだり、貧困に陥ったりすると、その後の出生数が減少する。その結果、賃金水準が上昇し、所得分配が平準化される。資本主義の下では、実質賃金は上昇し、貧困は減少し、人々は豊かになり、経済的機会と平等は大規模な死と破壊なしに改善することが可能であり、実際そうなっている。

これに対し、ピケティは累進課税と福祉国家を真の救済とみなす。国家権力の「漸進的」増加をもたらす民主主義という形で、累進課税と福祉国家の強化を望む。マルクス主義による過去の経済的失敗、大量餓死、大量虐殺といった悪いイメージのない、完璧なマルクス主義国家を望んでいるのだ。

(次より抄訳)
Thomas Piketty Wants to Bring Back Communism in the Guise of Democratic Socialism | Mises Wire [LINK]

2022-09-08

平等ではなく、もっと不平等を!

研究者、リプトン・マシューズ
(2022年7月15日)

資本主義社会における所得の不平等は社会を破壊すると触れ回る物語が、日々あふれている。多くの人にとって、不平等は20世紀を特徴づける経済の物語であり、何としてでも回避しなければならない。しかし不平等が問題となるのは、それが特権階級を優遇する、腐敗した政策の結果である場合だけだ。実際には、市場原理による不平等こそが、とめどない進歩の源である。

市場はアイデアの質を吟味することで、消費者の求めに応える才能と眼力のある個人に報いる。政府による特権とは異なり、市場は公平に価値を見極める。自由な市場経済で成功するためには、政治的なコネは不要であり、消費者のために自分の才能を生かそうとする意志だけが成功をもたらす。

才能のある人とない人がいるので、市場では必ず不平等が生じる。しかし才能のある人は庶民の生活水準を向上させられるので、不平等が好ましい結果をもたらす可能性が高い。庶民にとって幸運なことに、才能ある個人が目標を追求することによって経済や技術の変化が起こり、長期の経済成長が促され、庶民がエリートの仲間に加わるチャンスが生まれる。

アマゾンはジェフ・ベゾスを大金持ちにしたが、何千もの中小企業に製品を世界中で販売する場を提供し、もうかるベンチャー企業に変えてきた。実際、アマゾンのストアを通じて、4万人の億万長者が輩出した。アマゾンの波及効果は非常に大きく、アフィリエイト広告の利用者にも成功を広げた。

ラスムス・ミケルセンとクリスチャン・ミケルセンは双子の兄弟で、アマゾンの書籍やオーディオブックの出版分野でパイオニアとなり、合計で150冊以上の本を出版してきた。二人はこの業界の成長に刺激され、パブリッシングライフ社を共同設立した。このオンライン教育ビジネスは、一般の人々の脱サラを手助けするものだ。双子のアマゾン書籍出版ビジネスモデルを利用し、何百人もの人々が人生を変えるような結果を得ることができるようになった。現在までにその教え子たちは、合わせて2000万ドルもの収益をあげている。

才能の不平等がなければ、アマゾンやグーグルのような超大企業は存在せず、一般人が富を創造する手段は少なくなっていただろう。不平等は社会にとって有益である。なぜなら、もし全員が平等であれば、世の中は驚くほど平凡になってしまうからだ。文化面では、シェイクスピアやピカソのような芸術・文学の才能を持つ人はいなくなるだろう。

ガリレオ、ニュートン、アインシュタインのような頭脳の持ち主がいなければ、科学に対する理解はゆがんでしまうだろう。平凡な世界での人生は危険で、粗野で、短いものだろう。パスツールやフレミングのような好奇心と才能を持ち、病気の治療法に革命をもたらした人たちが社会からいなくなれば、単純な病気で死ぬことが日常茶飯事になってしまうだろう。

さらに厄介なのは、並外れた人々がいなくなることで、通常、人が自分の状況を改善するきっかけとなる、良い嫉妬を引き起せなくなることだ。不平等がなければ、進歩はありえない。不平等がなければ、人はみな等しく才能があるということになるからだ。そしてもしそうならば、社会の進歩に必要な創造性は生まれない。

すべての人が等しく有能であるとき、どの人も優れた存在にはなりえないことを忘れてはならない。真に平等な社会とは、全員が同じように平凡で、人間の潜在能力を下回る人生を送る社会なのである。

(次より抄訳)
We Need More Inequality, Not Less | Mises Wire [LINK]

2022-09-07

政府は決して自ら権力を手放さない

経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
(1927年)

あらゆる政治権力、政府、王、共和制権力は、つねに私有財産を軽んじてきた。すべての政府権力には、その活動に対するいかなる歯止めも認めず、その支配領域をできる限り広げようとする生来の傾向がある。すべてを支配すること、当局の干渉なしに自発的に何かが起こる余地を残さないこと、これがあらゆる支配者がひそかにめざす目標である。私有財産さえなければ……。

私有財産は、個人のために、国家から自由になれる領域を作り出す。権威主義的な意志の働きに歯止めをかける。政治権力と並存し、対抗する他の勢力の発生を可能にする。国家の側からの暴力的な干渉から自由な、すべての活動の基礎となる。自由の種を育む土壌であり、個人の自律、ひいてはすべての知的・物質的進歩の根源となるものである。

生産手段を私的に所有する制度(資本主義)の自由な発展を妨げないよう、自発的に思いとどまる政治権力は、かつて一度も存在しなかった。政府は、やむをえない場合には私有財産を容認するものの、その必要性を認識して自発的に認めることはない。自由主義的な政治家でさえ、権力を手にすると、自由主義の原則を多かれ少なかれ軽んじてしまう。

私有財産を抑圧する制約を課し、政治権力を濫用し、国家の支配の外に存在するいかなる自由な領域も尊重せず、認めない傾向は、政府の強制機構を支配する人々の精神にあまりにも深く根付いており、彼らが自主的にそれに抵抗することは決してできない。自由主義的な政府とは、形容矛盾である。政府には、国民の一致した意見の力によって自由主義を採用させなければならない。政府が自発的に自由主義になることは期待できない。

昔から、あらゆる絶対君主、専制君主、暴君は、資産家階級に対抗し、「人民」と手を組むことを考えた。このシーザー主義(大衆の支持を根拠とする独裁)に基づく体制は、フランスのナポレオン三世による第二帝政のほか、プロシアのホーエンツォレルン家による専制国家がある。プロシア憲法闘争の際、社会主義者ラサールによってドイツ政治に導入された、国家主義・介入主義の政策によって、自由主義的な資産家階級と戦うため労働者大衆を味方につけるという考えを取り入れた。

しかし、あらゆる迫害にもかかわらず、私有財産の制度は存続してきた。政府の敵意も、作家や道徳家、教会や宗教が行った敵対的キャンペーンも、大衆の憤り(それ自体、嫉妬の本能に深く根ざしている)も、私有財産制の廃止に役立ったことはない。他の方法で私有財産制に取って代えようとする試みはつねに、不条理なまでに実現不可能であることがたちまち明らかになった。人々は私有財産制が不可欠であることを認識し、好むと好まざるとにかかわらず、それに立ち戻らざるをえなかった。

それにもかかわらず、私有財産は悪であり、人間がまだ十分に倫理的に進化していない以上、少なくとも当面は排除できないだけだという考えは根強い。政府はその意図と性質に反し、私有財産の存在に甘んじているが、それでも反財産権のイデオロギーに固執し続けてきた。実際政府は、私有財産に反対することは原理的に正しく、そこから逸脱することは、単に政府自身の弱さか、強力な集団の利益への配慮によるものでしかないと考えている。

(次より抄訳)
Governments Never Give Up Power Voluntarily | Mises Wire [LINK]

2022-09-06

敵は共産主義だけではなく、あらゆる国家主義

経済学者・法哲学者、マレー・ロスバード
(1954年)

私たちが本当に戦わなければならないのは、共産主義だけでなく、あらゆる国家主義である。ある社会主義国に対して武器を取っても、社会主義を止めることはできない。むしろ社会主義を拡大させるに違いない。

真の戦いの場は、思想と理性の領域である。外国の国家主義に対して武器を取るだけでは、自分や他人を縛る鎖を締めつけるだけだ。明日ロシアと中国がともに消え去っても、人々が集団主義の教義を信じ続けるかぎり、共産主義は存在し続けるだろう。異端を力で押さえつけようとするのは、理性的な人間のやり方ではなく、子供の仕返しである。

しかし一部の保守派は、敵が単なる共産主義ではなく、国家主義であることを認識していない。その根本の理由は、国家の本質に対する理解がまだ不十分だからだ。

自由主義の基本命題によれば、国家が暴力を行使する権利を有するのは、個人の身体・財産を守るときだけである。

実際、リバタリアン(自由主義者)と保守派はともにこの命題に賛成だ。しかし多くの保守派は、そこでとどまってしまうという致命的な誤りを犯している。

ピーターは平和な市民であり、生産的な仕事に専念し、他人によけいな干渉をしない。国家と呼ばれる集団の中の誰かがピーターを訪ね、彼の身体・財産に将来起こるかもしれない侵害から守るため、金を出すように強制する権利があるだろうか。倫理的な答えは、「何の権利もない」としか言いようがない。

国家という暴力団は、金を取り立てた後も、侠気のあるヤクザと違い、犯罪現場から立ち去ろうとしない。それどころか、ピーターとその仲間に嫌がらせをし、絶えず高額の貢ぎ物を要求する。ライバルの強盗団(外国政府)が襲ってきたときにはピーターを国の軍隊に押し込める。ピーターに国家の軍旗に敬礼し、国家を統治者として認め、国家の命令をすべての正しい者が従うべき有効な法とみなすよう強要する。

国家という暴力団をどう思うか。支配者のプロパガンダに騙され、国家には何の問題もなく、自然で、必要だと信じる人々をどう思うか。国家という暴力団に騙されることに、人類は何千年にもわたり甘んじてきた。

民主主義国は違うと言う人がいるかもしれない。しかし民主主義は、単に国家集団の数を増やしただけである。問題はこうだ。略奪者になろうとする集団(政党)がいくつもあって、それぞれが利権を支配しようとする今の状況は、民主主義以前より良いのだろうか。答えは「ノー」だと思う。

民主主義の唯一の利点は、流血の革命やクーデターなしに、投票を通じて国家統治者を平和に交代させる機会を与えることである。強盗団は国家の戦利品をめぐって血生臭い内戦を行う代わりに、数年ごとにどの強盗団が国民を支配するかについて、国民自身に投票させる。しかし強盗団は決して、国家という体制そのものを維持するかどうかという選択について、その可能性をほのめかすことはない。

したがって、国家は防衛に必要な範囲に限定されるべきだと言う保守派は、最初から大きなジレンマに陥っている。なぜなら、国家は生まれつき原罪を負っているからだ。いかなる国家も、たとえ善意に満ちていても、強制によって存続している。

(次より抄訳)
The Real Aggressor | Mises Institute [LINK]

2022-09-05

資本主義を蝕む縁故経済

経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
(1932年)

今日、偉大な起業家はしばしば「経済リーダー」として引き合いに出される。だが資本主義社会には「経済リーダー」は存在しない。そこに社会主義と資本主義の異なる特徴がある。資本主義では、企業家と資本家は市場のリーダーシップ以外には従わない。

大企業の創業者を経済リーダーとみる習慣は、今日では、経済的成功によってではなく、むしろ他の手段によってその地位に達するのが普通であることを、すでにある程度示している。

介入主義国家では、消費者のニーズを最良かつ安価な方法で満たすように事業を運営することは、もはや企業の成功にとってきわめて重要ではない。支配的な政治勢力と「良い関係」を築くこと、政府の介入によって企業に不利益ではなく利益をもたらすほうがはるかに重要である。

企業の生産物に対するあとわずかの関税保護は、慎重な業務遂行よりも企業の助けになることがある。企業はうまく経営していても、関税率の取り決め、仲裁委員会での賃金交渉、カルテルの運営組織において自社の利益を守る方法を知らなければ、潰れてしまうだろう。上手に安く生産するよりも、「コネ(縁故)」を持つほうがはるかに重要なのだ。

その結果、企業のトップに立つのは、事業を組織化し、市場状況に応じた生産を指示する方法を知っている人ではなく、目上とも目下ともうまくやれる人物、マスコミや政党、とくに急進派とうまくやる方法を知っていて、その付き合いで不快感を与えない人になる。これが普通の役員と呼ばれる人々であり、商売の相手よりも、政府高官や党指導者との付き合いが多い。

企業の多くは政治上の便宜に頼っているので、経営者は政治家に見返りを払わなければならない。近年どの大企業も、明らかに採算が合わない取引で、損失が予想されるのに、政治上の理由でやめられず、多額の出費を強いられている。選挙資金や福祉施設など、ビジネス以外の分野への寄付は言うまでもない。

大銀行や大企業の取締役を株主から独立させようとする勢力が、強く主張するようになった。政治の後押しを受けた、この「大企業の社会化」、つまり株主利益の追求以外の利害に企業経営を委ねることは、国家主義の物書きたちによって、資本主義を打ち負かしたあかしとして歓迎されている。

国家の影響力と経済介入を支持する世論を背景に、今日の大企業トップは、自分は株主よりも強いと感じ、株主の利益を考慮する必要はないと考えている。国家主義が強く支配する国々、たとえば旧オーストリア・ハンガリー帝国の後身諸国では、社会事業の運営において、公共事業の責任者と同じように収益性には無頓着である。その結果は経営破綻だ。

喧伝される理論によれば、大規模な社会事業では、利益の追求だけでは経営が成り立たないという。この考えは、採算を度外視して事業を進めた結果、企業が破綻した場合には、きわめて好都合である。なぜならそのとき、同じ理論によって、大きすぎてつぶせない企業を支援するために、国家の介入を求めることができるからである。

社会主義や介入主義が、資本主義をまだ一掃できていないのは事実である。もしそうなれば、何世紀にもわたって繁栄してきた欧州は、再び大飢饉に直面するだろう。

(次より抄訳)
The Myth of the Failure of Capitalism | Mises Wire [LINK]

2022-09-02

小さな少数派が世界を自由に導くには

経済教育財団(FEE)コンテンツ・ディレクター、ダン・サンチェス
(2022年8月25日)

自由を好む人は、絶望したくなるかもしれない。どうしようもなく多勢に無勢だからだ。大衆は自由を好まないので、自由を廃止しようと躍起になっている支配者を支持したり、黙認したりする。

暴君から解放されるために、人々を自由に向かわせなければならない。しかし、大衆はあまりにも経済に無知だし、確たる道徳を持たず、政府のプロパガンダに騙されすぎる。無知で惑わされた大衆に、自由主義の政治哲学と自由市場の経済学を理解・納得してもらうのは、難しい注文のように思える。不可能ですらあるかもしれない。

幸いなことに、大衆に自由の哲学を受け入れさせるために、自由の哲学を習得させる必要はない。

重要な政治運動や大規模な社会変動の研究から明らかなのは、良いか悪いかにかかわらず、すべてごく少数の一派によって導かれていることだ。これら変化のいずれにも、大衆の理解が伴ったことは一度もない。

例えば、18世紀のアメリカ革命は、ジョン・ロックら自由の哲学を熱心に研究した建国の父たちのような、ごく少数の個人によって主導された。

産業革命をもたらした 19 世紀の自由主義的な経済改革も、アダム・スミスら自由主義経済学者を信奉するリチャード・コブデンやジョン・ブライトら、ごく少数の個人によって主導された。

18 世紀の平均的な米国人は、ジョン・ロックの著作『統治二論』に目を通したり、ロックの自然法哲学を理解したりしなかった。それでも、それを理解した人々の知的かつ道徳的なリーダーシップの下で、自分の権利を擁護し、暴政に反対した。

同様に、19 世紀の普通の英国人は、スミスの『国富論』を研究したり、「見えざる手」の意味を理解したりしなかった。それでも、それを理解した人々の知的かつ道徳的なリーダーシップの下で、とにかく自由貿易を支持し、重商主義政策に反対した。

自由から遠ざかる動きについても同じことが言える。 20 世紀の普通のロシア人は、マルクスの『資本論』を読んだり、労働価値説を理解したりしなかった。それでも、それを理解した人々の知的かつ道徳的なリーダーシップの下で、階級闘争を支持し、資本主義に反対した。

勝つために必要なのは過半数ではなく、人の心に火をつけようとする、怒りに満ちた、たゆまぬ少数派なのだ。

自由の運命は、二つの対立する少数派のどちらが多数派の心をつかむかにかかっている。それは大衆を哲学者や経済学者に変えるという問題ではない。世論に影響を与える集団のいずれが人々の尊敬と信頼を勝ち取り、影響力を獲得するかが問題だ。

影響力のある意見は、理解の深さ、信念の強さ、魅力的な説明をする力に基づく。リバタリアン(自由主義者)がこれらの美徳を明らかにするとき、自由は前進する。

大衆が自由を拒否し、専制政治を受け入れているとすれば、それは反自由主義の指導者が、上記の資質を達成し明示する点で、自由主義の指導者よりも優れていることを意味する。自由の伝統を引き継ぐ人々が、理解、献身、説明を改善するために必要な自己努力を怠っているのだ。

自由主義を公言する人々がそれぞれ自己改善に専念すれば、自然な副産物として、集団のリーダーになり、最後には社会全体のリーダーになる。真の模範に触発されて、社会を構成する個人は自己を改革し、自由に向かうだろう。その根底にある理論的な根拠を完全に理解していない人でさえも。

自由の哲学を深く理解している人々は、つねに数で圧倒されるだろう。しかし、それは絶望の言い訳にはならない。

(次より抄訳)
How a Tiny Minority Can Lead the World Toward Liberty - Foundation for Economic Education [LINK]

2022-09-01

誰でもナチスになりうる

経済学者、ポール・フリッタース
同、ジジ・フォスター
ジャーナリスト、マイケル・ベイカー
(2022年6月21日)

この二年余り、世界は新型コロナ騒動に振り回されてきた。ほとんどあらゆる国の一般人がコロナの「物語」を受け入れ、独裁権力を握った男女に拍手喝采した。権力者は通常の人権と政治手続きを停止し、コロナによる死だけが重要であるかのように装い、学校・企業を閉鎖し、人々が生計を立てるのを妨げ、大量の貧困と飢餓を引き起こした。

第二次世界大戦後の芸術や科学で、ハンナ・アーレントの哲学、ミルグラムによる服従心理の実験、イヨネスコの不条理演劇「犀」など、優れた指摘が数多くあったにもかかわらず、西洋はナチス時代(1930-1945)の重要な教訓を学ぼうとせず、忘れてしまっている。ナチス時代について書く一流の知識人が重視したのは、誰でもナチスになりえたということである。

母親が自分を十分に愛してくれなかったからとか、人生の中で神を拒絶していたからとか、ドイツ文化に内在する何かによってナチスになったのではない。残酷な教訓は、この状況下では、ほとんどの人が同じことをしたであろうということだ。悪とは、一言でいえば、平凡なものである。

アーレントが指摘したように、最も献身的なナチスは「善人」であった。純粋に自分を善人だと考えていたドイツ人たちである。母親に愛され、地元の信仰に忠実で、税金を払い、ドイツのために死んだ先祖を持ち、愛情深い家族関係にある人たちである。そして、友人、家族、教会、メディアから、自分たちは正しいことをしているのだということを認められ、支えられていた。

ドイツ人がナチス時代の教訓を忘れてしまったのは、当時に関する情報が隠されたからではない。それどころか、ドイツの若い学童たちは、ほとんどつねに本を読み、ドキュメンタリーを見るよう強要されていた。ドイツ人が教訓を忘れたのは、自分たちが聞かされた行動が普通であるという考えに耐えられなくなったからだ。だから、ナチスの時代はまったく異常で、生まれつき人一倍悪人である者たちが指導し、支持したということにしてしまった。

この嘘は世代を超えて問題を引き起こした。家庭で若者が祖父母に対し、どうして現実を見なかったのか、どうしてナチスに従ったのか、どうしてナチスの政策に参加したのか、と問い詰めたのだ。このような詰問は、自分たちも同じことをしていたかもしれないという、過激で恐ろしい真実を受け入れようとしない者がするものだ。ドイツの若者は自分自身についてそのように考えたくなかったし、彼らの親もそのような重荷を負わせたくはなかった。自分の子供が雪のように純粋だと永遠に信じられることを望まない人はいない。

若いドイツ人が問うべきは、「自分も屈してしまうような圧力に直面しないために、今の社会の何を変えなければならないか」ということだ。この問いはとても難しく、とても不愉快なものだ。しかし祖父母を拒絶するより、思いやりのある対応である。祖父母を責め、祖父母の悪を非難し、祖父母を人間ではなく、ある種の怪物として見下しながら、大見得を切って高い倫理観を示すことのほうが、ずっと簡単で単純なことなのだ。

(次より抄訳)
The Ron Paul Institute for Peace and Prosperity : We Can All Be Evil and the Germans Were Nothing Special [LINK]

2022-08-31

市場に訪れる「最後の審判」

経済教育財団(FEE)コンテンツ・ディレクター、ダン・サンチェス
(2022年6月15日)

恐ろしいことだが、経済はとっくに崩壊している。「最後の審判」を先延ばしにすればするほど、事態は悪化する。

キリスト教の伝統では、「清算の日(Day of Reckoning)」とは最後の審判のことで、すべての人の善行と悪行が説明され、それに応じて永遠の報酬と罰が割り当てられるという。

この言葉は金融用語を文学的に応用したものである。「清算(reckon)」とは、数えること、計算すること、量を見積もることだ。歴史上、「清算」は金融の清算を意味した。

好況・不況の景気循環において、「不況」や「景気後退」は、直前の「好況」や「バブル」の歪みを修正する「清算」であり、市場と経済の現実を調和させる大規模な損益計算のやり直しである。

米経済における好景気とバブルの歪みは、連邦準備理事会(FRB)が経済を「刺激」するために新しいお金を作り、ローン市場や資本市場に投じた結果生じた。

このような過剰で人為的な「景気刺激」は、目先は投資家、労働者、消費者、政府にとって快適かもしれないが、将来大きな痛みを伴うことは必至だ。

経済学者ミーゼスは、この状況を建築資材の在庫が膨らんでいる住宅建設業者に例えた。おそらく、普通の一戸建てを建てるだけの資材・人手しかないにもかかわらず、偽りの金利低下に惑わされ、豪邸を建てる基礎を作ってしまったのだろう。

しかし、どうしても現実とぶつかってしまう。建築のある時点で、建設業者は自分の計画が持続不可能であることに気づかなければならない。「棚卸し」をして、自分が本当にいくら持っているかを「清算」しなければならない。

そのとき、「ああ、これは大変だ」と思うはずだ。しかし、それが早ければ早いほど、浪費する資源は少なくなる。労働力だけでなく、建築途中の邸宅から引き揚げられない材料もあるのだ。もし、「清算の日」があまりに遅れると、軌道修正する頃には、間違った投資によって貧しくなり、一戸建てを建てるだけの資金もなくなり、掘立て小屋で我慢しなければならないかもしれない。

同じく、貯蓄の増加によってではなく、FRBの資金注入によって金利が引き下げられ、「刺激」された経済は、事業に充てる資源が足りないという限界にぶつからざるをえない。経済の現実は偽ることはできても、逆らうことはできない。

不況とは、経済の真実が明らかになることである。それはたしかに痛みを伴う啓示である。しかし、ミーゼスの住宅建設業者と同じように、不況を完全に起こさせるのは早ければ早いほどよい。FRBが資金注入で経済計算をごまかし、経済の「最後の審判」を先延ばしにすればするほど、資源は浪費され、文明は疲弊し、避けられない清算は、より耐えがたいものになるだろう。

(次より抄訳)
Markets Must Have Their Day of Reckoning - Foundation for Economic Education [LINK]

2022-08-30

歴史に残る市民的不服従

経済教育財団(FEE)名誉理事長、ローレンス・リード
(2021年1月8日)

「市民的不服従における偉大な瞬間」を簡単にリストアップしてみた。年代順に並んでいるわけではないし、これらがすべて歴史上の「最高」の例だとも言わない。少なくとも、考えるための興味深い材料にはなる。

古代エジプトにおけるファラオへの反抗
 旧約聖書の出エジプト記の第1章には、おそらく最古の市民的不服従の事例が記録されている。今から約3500年前のことだ。エジプトのシフラとプアという二人の助産婦が、ヘブライ人の男児を出生時に皆殺しにするというファラオ(エジプト王)の命令に背いたのである。彼女らは責任を問われたとき、その痕跡を消すために嘘をついた。出エジプト記によると、二人の助産婦の反抗は神を喜ばせ、神は助産婦らに報酬を与えたという。

ソフォクレスが描いたアンティゴネー
 劇作家ソフォクレスは数々の文学的悲劇を書いたが、その中の一つにアンティゴネーの物語(フィクション)がある。テーベの王クレオンは、アンティゴネーが弟ポリュネイケースを埋葬するのを邪魔しようとする。アンティゴネーは、自分の良心がどんな王命よりも大切であると宣言した。彼女はその反抗心から死刑を宣告されるが、決して撤回することはなかった。

ユダヤと無辜の民の殺戮
 新約聖書のマタイ伝によると、ユダヤ人のメシア(救世主)がベツレヘムで生まれたと聞かされたヘロデ王は、個人的に脅威を感じたという。そこでヘロデ王は、マギ(三賢者)に「ベツレヘムに行って赤ん坊を探し出し、報告せよ」と命じた。ご存じのように、マギはたしかにベツレヘムに行き、ヨセフ、マリア、赤ん坊のイエスに贈り物をしたが、その後ヘロデに従わず姿を消してしまった。怒った王は、ベツレヘム近辺の二歳以下の男児をすべて処刑するよう命じたのである。

ボストン茶会事件
 1773年、英国議会は英国東インド会社に紅茶の貿易を独占させることを決定した。このことと「代表者なき課税」がきっかけとなり、サミュエル・アダムズをはじめとする愛国者たちは、有名な「ボストン茶会事件」を起こす。夜陰に乗じて英国船に乗り込み、積み荷の茶をボストン港に投げ入れたのである。その3年後、市民の不服従は独立宣言へと発展し、英国とアメリカ植民地との間に戦争が勃発した。

ガンジーの塩の行進
 英統治下のインドでは、英企業が独占的な特権を享受していた。1882年、塩法が制定され、インド人は主食である塩の採取や販売を禁じられた。この法律と英支配に対する反発から、1930年、モハンダス・ガンジーは有名な塩の行進を行った。大勢のインド人がガンジーの後に続き、アラビア海まで約386キロメートルにわたって平和的な抗議を行った。5万5000人以上が逮捕されたが、結局、インドは1947年に独立を果たした。

ゾフィーとハンス・ショルの英雄的な抵抗
 ミュンヘン大学の学生だったゾフィー・ショルと兄のハンスは、1942年、ヒトラーの権力の絶頂期に、「白バラ抵抗運動」を結成した。彼女らは、ナチスの支配とユダヤ人に対する残虐行為を非難するビラを何千枚と印刷し、配布した。決して暴力を振るうことなく、政権への支持を弱めるために活動した。しかし最後は逮捕され、裁判にかけられ、処刑された。2005年に公開された映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』では、ゾフィーらの物語が悲しくも美しく描かれている。

(次より抄訳)
11 of the Most Memorable Acts of Civil Disobedience in History - Foundation for Economic Education [LINK]

2022-08-29

経済成長の昔ながらのレシピ

ケイトー研究所アナリスト、チェルシー・フォレット
同シニアアナリスト、マリアン・テューピー
(2019年8月16日)

人類の歴史の大半において、富はほとんど存在しなかった。人々は非常に貧しく、その数はそれほど多くはなかった。人類の歴史はおよそ30万年だが、最初の29万年ほどの間、食物をせっせと探しては、かろうじて生きているだけの存在だった。ホモ・サピエンスが農耕を始めた後も、進歩は遅々としたものだった。ところが突然、人口が急増し、それにつれて所得と生活水準が爆発的に向上した。

何が富の爆発を引き起こしたのかを考えるには、変化がいつどこで始まったのかを考える必要がある。経済成長が加速し始めたのは約250年前で、最初は英国とオランダ、次に西欧と北米、そして最後に世界の他の国々で起こった。では、何が起こったのだろうか。

さまざまな説があり、その多くは補完的なものだ。ノーベル経済学賞を受賞したダグラス・ノースによれば、憲法、法律、財産権など制度の進化が経済発展に役立ったという。経済学者ディアドラ・マクロスキーによれば、富の爆発は、市場とイノベーションに対する考え方の変化によるものだという。商人や発明家は長い間、下品と蔑まれてきたが、尊敬と制度上の保護を受けるようになった。マクロスキーはこれを「ブルジョワの尊厳」と呼んでいる。

人々の考え方には、それ以外にも大きな変化があった。ハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーは、進歩は結局のところ啓蒙主義の価値観に根ざしていると主張する。理性、科学、ヒューマニズムが変革の背景にあるという。

また、スティーブン・デイヴィスという学者は、欧州でイノベーションが起こったのは、国家間の競争があったからだと考えている。歴史上、中国、ロシア、インドのムガル帝国、オスマン帝国、サファヴィー朝イランなどの帝国は非常に大きく、互いの争いは膠着状態に陥っていた。帝国の主権を脅かす最大の危険は帝国内の不安定であり、そのため安定の名の下に、伝統的な秩序を脅かす思想やイノベーションを抑圧したのである。

しかし、欧州は絶えず戦争をしている多くの権力者の間で分割されていたので、支配階級は進歩を完全に抑え込もうとすれば、主権を失う恐れがあった。欧州の主権者たちは、自らの権力を維持するためにイノベーションに依存し、イノベーションが起こることを容認した。やがて、新しいアイデアと政治的・経済的な枠組みの拡大により、人口と繁栄が絶え間なく増加するようになった。

経済成長の基本レシピは、今でも変わっていない。何世代にもわたって受け継がれてきた家庭料理のレシピのように、時の試練に耐えてきた。政府は国民にイノベーションと取引を認めることで、経済が成長を続けるのを助けることができる。そのためには、負担の大きい規制や税金を撤廃・縮小し、貿易戦争を終わらせるべきである。

(次より抄訳)
An Old-Fashioned Recipe for Economic Growth - HumanProgress [LINK]

2022-08-01

反体制左翼とリバタリアンは同盟を

リバタリアン研究所、キース・ナイト
(2022年7月27日)

左翼とリバタリアン(自由主義者)の世界観には、根本で重なる部分が多い。それには五つの鍵がある。

第一に、大衆の犠牲によって大衆を支配する、不正な寄生虫のような小規模の支配階級が存在する。第二に、支配階級は搾取の仕組みを維持する利益を通じ、思想的に結びつく。第三に、支配者は決して進んで妥協したり、権力を手放したりしない。搾取される者による階級意識の向上だけが、事態を改善することができる。

第四に、メディア、教育、広告、裁判所、財産権制度、警察といった思想的上部構造は、支配階級を権力の座にとどめるために存在する。支配階級には腐敗・集中・中央集権化する固有の性質があるからだ。第五に、腐敗と中央集権は不安定化によって体制の崩壊を招き、搾取される大衆にある認識をもたらす。搾取の不当な仕組みは、協力と互恵に取って代わらなければならないという認識である。

搾取について左翼とリバタリアンの意見が違うのは、搾取する者とは誰かについてだ。リバタリアンの考えでは、搾取する者は企業オーナーや金持ち、1%の超富裕層、白人、男性、資本家、投資家などではない。搾取者とは、契約や同意に基づかず、暴力で目的を達成する者だ。つまり、所得や地位に関係なく、すべての政府、そして攻撃を始める者が、搾取を行っているのだ。

左翼は平等の価値を重視する。誰も他の人が持たない権利を持ってはならないということだ。これは政府にも当てはめることができる。不平等の極端な例として、535人の米議会議員が3億3000万人の米国人を強制で支配していることがある。これこそ不平等の根源であり、完璧な例である。

平等の原則に基づき、リバタリアンはこう言うだろう。「私にはあなたを支配する権利はないし、あなたには私を支配する権利もない。私はあなたに資金提供を強制することはできない。私に資金を提供するよう強制したり、私の時間を使うよう強制することもできない」

お互いに促し合うことはできても、どちらも相手を支配したり、攻撃を始める権利はない。もし誰かが暴力を振るい始めたら、他の誰でも(警備員であろうと、ただの傍観者であろうと)あらゆる侵略者を撃退する権利がある。これはすべて、平等の原則に沿ったものだ。

リバタリアニズムは、自己所有と同意の哲学に基づいており、支配と支配される者の関係は、セックスとレイプ、労働と奴隷、取引と強盗と同じく、道徳的な違いだとみなす。自由と平等の原則は密接に関係している。公正な社会は、平等と自由を包含する必要がある。平等とは、すべての人間が平等に創られていることを意味し、平和な人や正当に取得した財産に対して暴力を振るう権利がないことを意味する。すべての相互交流は、合意に基づくものでなければならない。

リバタリアンと左翼の連携を図る動きは昔からあり、サミュエル・コンキンの著書『新リバタリアン宣言』(1980年)などにさかのぼる。ある種の左翼(反国家的だが社会的セーフティネットを支持する人々)は、無政府社会になれば、相互扶助の形で、欲しいものをほとんど手に入れることができるだろう。

(次より抄訳)
A Necessary Alliance Between the Dissident Left and Libertarians | The Libertarian Institute [LINK]