14世紀から16世紀にかけての西ヨーロッパでは新しい文化創造の動き、ルネサンスが展開した。その基調は、人間の理性や感情を重視するヒューマニズム(人文主義)つまり人間中心主義といわれ、この立場に立つ知識人をヒューマニスト(人文主義者)と呼んだ。なかでも「人文主義者の王者」と称えられるのが、デジデリウス・エラスムスである。
エラスムスは1469年頃、オランダのロッテルダムに生まれた。若くして修道院に入ったが、のちパリ大学に学び、多くの古典時代の著作を校訂刊行したほか、史上初めてギリシア語原典による新約聖書を刊行して、宗教改革の道を開いた。教会と聖職者の腐敗・堕落に鋭い批判を浴びせたが、その一方で注目すべきは、一貫して戦争を批判し、平和を説いたことだ。
当時はペストの流行に加え、戦乱が多くの死者をもたらし、社会は危機的な様相を呈していた。こうした時代を背景に、エラスムスの平和思想はその著作全体に貫かれている。
その名を広めた『格言集』の増補新版では、「戦争は体験しない者にこそ快し」という格言を題材として、「戦争以上に残忍で、人に惨禍をもたらし、世にいぎたなくもはびこり、剣呑至極、極悪非道の営みは、つまりキリスト教徒はもとより、誰であれ人間には似つかわしくない行いは、ほかに何ひとつとして存在しない」(二宮敬訳)と激しく戦争を非難する。
この文章からうかがえるように、エラスムスは人間中心主義のヒューマニストだからといって、キリスト教を否定しているわけではない。むしろキリスト教の道徳を踏まえ、それに反する行為として戦争を批判するとともに、戦争を肯定する聖職者を糾弾しているのである。口に神の愛を唱えるキリスト教徒が、神の御名のもとに血を流すのを容認していることが、よほど腹に据えかねたようだ。
代表作とされる『痴愚神礼讃』でも、歯に衣着せぬ戦争批判が展開される。この時代の歴代カトリック教皇たち(アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世、クレメンス7世、パウルス3世)は、俗人君主と変わらず、聖務を放棄して教皇軍を動かし、教皇領の拡大を狙ったり、イタリアの覇権をめぐる諸国の戦争に加担したりして、戦争に明け暮れていた。
それを念頭にエラスムスは、「痴愚女神」に語らせるという形式で、新約聖書の「マタイによる福音書」には「わたしたちは何もかも捨ててあなた(イエス)に従って参りました」とあるにもかかわらず、教皇たちは土地、町、租税、賦課金、王国などを護るために「剣と火をもって戦い、多くのキリスト教徒の血を流させて」(沓掛良彦訳)いると批判する。さらに戦争とは「キリストの教えとはなんのかかわりもないことでありますのに、教皇方は、なにもかも放擲してひたすら戦争に邁進している始末です」とあらためて教皇たちを非難する。当時最強の有力者といえるカトリック教皇に対し、厳しい批判を展開したエラスムスの大胆さは目を見張らせる。
しかし何といっても、戦争と平和に関するエラスムスの考えを余す所なく展開した著作は、『平和の訴え』である。エラスムスはここでも「平和の神」の口を借りて、キリストの生涯や言葉が教えているのは「人間相互の平和と愛」以外にないと主張する。それにもかかわらず、最近だけでも「いったい、どの川が、どの海原が、人間の血で染められなかったといえるでしょう?」と問いかける。そのうえで、「キリスト教を奉じる君主たちが、どんな恥ずべき理由、どんな馬鹿げた理由によって、この世界を合戦に駆り立てているかを思うと、恥ずかしくて顔を赤らめずにはいられません」(箕輪三郎訳)と糾弾する。
エラスムスは戦争が起こる原因を分析し、①王位継承の争い②君主同士の私的な闘争③盲目的な愛国感情④暴君が自己の権力を保ち続けるため——と列挙する。さらに、戦争によってのみ繁栄する人々があることを指摘し、また神の名において戦争を企てる者があるとも指摘する。西洋美術史が専門で西洋の文学・精神史についての造詣も深い高階秀爾氏は「このエラスムスの分析は、多くの点で、今日にも十分通用するものがあると言えるだろう」とコメントしている。
著作の締めくくりで、「平和の神」は「私は訴えます」という言葉を繰り返して、君主、司祭、神学者、その他あらゆる人々に対し、戦争に反対し、平和をもたらすよう訴える。これはエラスムス自身の、切なる「平和の訴え」だといえる。
エラスムスは聖書研究やカトリック批判によって、マルティン・ルターによる宗教改革の開始に影響を与えた。「エラスムスの生んだ卵をルターがかえした」といわれる。しかし教皇による免罪符の販売を念頭に、善行による救いを完全に否定するルターに対し、エラスムスはその可能性はあると主張し、たもとを分つことになる。
1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模な反乱を起こした。ドイツ農民戦争と呼ばれる。最初ルターは農民に同情を示したが、反乱が激化すると態度を硬化させ、諸侯に鎮圧を求めた。およそ10万人の農民が処刑された。エラスムスは、「諸侯は残酷以外に救済策を知らない 」と抗議した。
戦争に対して寛容を説いたエラスムスの主張は、空しいものだったかもしれない。しかし、暴力に暴力で応じても解決策にはならないのは、今も昔も変わらない真実である。平和を取り戻すには結局のところ、エラスムスが信じたように、寛容によるしかない。
オランダの歴史家ホイジンガは、エラスムスを近代精神の先駆者と評し、「道徳的教育と一般的寛容が人間を更に幸福になしうるという理想を信ずる限り、人間がエラスムスに負うところは多いのである」(宮﨑信彦訳)と述べている。
エラスムスは党派の争いから距離を置いたために、カトリックからもルター派(プロテスタント)からも非難され、孤独を味わった。病にも苦しんだ。しかし一方で、自分が著作を通じて世界に及ぼした影響に満足を感じてもいた。晩年、「世界のあらゆるところから、毎日多くの人がわたくしに感謝を送ってくる」と書き残している。1536年、スイスのバーゼルで世を去ったエラスムスの最後の言葉は、「愛する神よ」というオランダ語の一句だったという。
<参考資料>