2019年11月にタイの首都バンコク郊外で開いた東アジアサミットでは、南シナ海のほぼ全域に主権が及ぶとする中国の主張を米国が真っ向から否定。中国は米国を念頭に域外国が介入しないよう要求し、応酬となった。
南シナ海を舞台とした国家間の対立は泥沼化し、容易に解決できないように見える。しかし、歴史には解決のヒントがある。かつて南シナ海には国家のくびきから解放されることによって、自由と繁栄を謳歌した時代があった。
中国の唐では875年、黄巣の乱が起こる。以前このコラムで触れたように、唐は財政を維持するために厳しい塩の専売を行なっていたが、これに反発する商人による密売が横行した。これをきっかけに唐は滅亡に向かう。
前回のコラムで、イスラム教徒(ムスリム)の商人がダウ船に乗って中国に到来し、唐最大の海外貿易港(港市)であった広州を拠点としたことを紹介した。黄巣の乱のさなか、南シナ海に面するこの広州が破壊される。このためムスリム商人は中国から撤退してマレー半島のクダに拠点を移した。ムスリム商人に代わり、南シナ海に進出したのが中国商人である。
中国商人がムスリム商人から造船・航海の技術を学び、建造した独特の帆船はジャンク船と呼ばれる。大きな船腹をもったジャンク船は、陶磁器や銅銭など新しく登場してきた重い交易品の積載に適していた。ジャンク船は遠洋航海のために開発された羅針盤を搭載し、外洋に繰り出していく。
多くの中国人が東アジア、東南アジアに渡航し、各地で中国人居留地を建設していった。東シナ海、南シナ海一帯はムスリム商人と中国人商人が共存する空間となった。国家間のぎすぎすした対立に覆われた今のアジアの海とは大きな違いだ。
船乗りたちの共通言語もマレー系の言葉に加えて中国語が広く使われるようになった。ちなみにジャンクという呼称は、中国語で船を意味するchuanがマレー語のjong、ポルトガル語のjuncoに転訛し、ポルトガル語が英語のjunkになったとされる。
唐の滅亡後、五代十国の興亡を経て、960年に宋(北宋)が成立する。宋代の中国の商業経済は急速な成長を遂げ、都市人口は急増し、香辛料など大量の海外物資を輸入するようになった。
宋の時代、景徳鎮などでは青磁や白磁といった芸術性の高い陶磁器が生産された。陶磁器は英語でchinaと表記されるように、長きにわたり中国固有の世界商品となり、南シナ海からインド洋、さらにはエジプトへと運ばれていった。この陶磁器交易路を「陶磁の道(セラミック・ロード)」と呼ぶ。
北宋の滅亡後に再建された南宋の時代までには、中国商人のジャンク船はマラッカ海峡を越えてインド洋に進出するようになり、インドの諸港市で西からのムスリム商人と直接取引するようになった。
中国の陶磁器や工芸品を求めるインドや東南アジアの諸国は、争って香辛料などの特産品を中国市場に輸出した。南宋中期(12世紀末)には、北宋初期(10世紀末)に比べて貿易による収益が約20倍に増加した。南宋から海外に輸出された商品は170種類に及び、陶磁器と銅銭が新たな有力商品になる。
宋王朝は交易の拡大に対応し、広州、杭州、明州(寧波)、泉州など重要な港市に、貿易を管理する市舶司を設置した。市舶司は専売品の買い上げ、関税の徴収、中国船の出航の許認可などをつかさどった。宋は交易を必要以上に管理しようとはせず、交易は大いに栄える。結果的に、その収益は宋の国家財政を潤した。
陶磁の道の繁栄は今も名残をとどめる。現在、アフリカや西アジア一帯から中国の陶磁器のかけらが見つかるが、宋とそれに続く元の時代のものが一番多い。15世紀まで中国のジャンク船が訪れた南インドの西側のマラバール海岸では、中国南部で伝統的に用いられたものと同じ構造の漁網が現在でも用いられている。
西方から中国を訪れる人々はモノだけではなく、文化、とりわけ宗教を伝えた。福建の泉州には多くのイスラム寺院(清浄寺)がある。マニ教遺跡も残されており、キリスト教、仏教など多様な宗教を信仰する人々が共存していた。泉州には国宝級の文物も多い。
日本周辺でも、8世紀後半に日本が送った遣渤海使をきっかけに、日本と渤海、のちには新羅をも交えた経済的・文化的交流が進み、環日本海のネットワークが構築されていく。唐帝国に朝貢しなくても海上交易は機能したから、日本政府が中国に使節を派遣する意味はなくなり、894年、菅原道真の建議により、日本は遣唐使を停止する。
遣唐使がなくなっても、東シナ海では多くの商船が往来した。博多には宋の海商が拠点を置き、日宋交易の一大センターとなる。日本船は、遣唐使のときは政治目的なので華北の長安に向かっていたが、日宋交易では寧波など江南の港市へと直航し、交易を行った。
南シナ海交易の隆盛は東シナ海、黄海の南縁部の交易も活発にし、日本列島にもその影響が及んだ。夏から初秋にかけ長江の河口から60〜70人が乗り組むジャンク船が黄海を横断し、博多で交易した。時には宋船が日本海に入り、若狭湾の奥の敦賀で交易することもあった。
かつて唐帝国は海上交易を管理・統制しようとした。しかし唐が滅びることで、国家の統制から自由になった中国商人が南シナ海でネットワークを広げ、東西をつなぐ海の道が民間交易で活況を呈し、繁栄をもたらした。歴史学者の北村厚氏は「大陸の大帝国の興亡が、必ずしも海の道の盛衰と連動するわけではない」(『教養のグローバル・ヒストリー』)と指摘する。
国家の興亡は、むしろ経済の繁栄と裏腹の関係にあるとさえいえる。国家が交易や経済活動に過度に介入すれば、経済は活力を失うからだ。
現代の南シナ海は、国家がそれぞれの利権を主張し、争うことで地域を不安定にしている。石油や天然ガスの開発は国籍にこだわらず、民間企業に広く門戸を開けばよい。自由な経済は結局、周辺国に利益をもたらす。それが本来、「自由の海」である南シナ海にふさわしい解決策だろう。
<参考文献>
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』ミネルヴァ書房
宮崎正勝『「海国」日本の歴史』原書房
小田中直樹・帆刈浩之編『世界史/いま、ここから』山川出版社
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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