2019-08-01

唐を滅ぼした大型間接税

中国の唐帝国は7世紀に最盛期を迎えるが、8世紀に動揺期に移り、9世紀後半に滅亡期に入る。衰亡の原因となったのは、歴史上のさまざまな大国と同じく、経済と人民を疲弊させる重税だった。とくに唐の場合、一種の間接税である塩の専売制度が国家を内側から蝕んだ。


唐は初期の国内統治では、戸籍を整備したうえで民衆に土地を支給し、負担として租庸調と呼ばれる租税・労役と兵役を課すという、土地制度・税制・兵制が一体となった制度を敷いた。日本で奈良時代に成立した律令制度が手本としたことで知られる。

しかし労働者の多くを占める農民は、租庸調や兵役の負担で没落して逃亡する者が増えていく。貴族や新興の地主は、これら没落した農民を隷属させたり小作人にしたりして、広大な荘園を経営した。

こうして8世紀前半には土地制度・税制・兵制が一体となった体制は崩れ、現実に対応して諸制度が切り替えられていく。兵制は傭兵による募兵制に移行した。財政再建のために土地支給、租庸調の原則も放棄され、現住地で所有している土地・財産に応じて課税する両税法が新たに採用された。

募兵制の下、国境の守備は傭兵軍団を率いる節度使に委ねられた。そのひとりで、イラン系ソグド人の武将、安禄山が755年、部下の史思明とともに反乱を起こす。いわゆる安史の乱である。当時の玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃のいとこで、政治の実権を握る楊国忠を排除するというのが反乱の理由だった。

安史の乱は9年にも及び、トルコ系騎馬遊牧民ウイグルの援軍でようやく鎮圧されたが、唐王朝は大打撃をこうむり、軍事的に弱体化した。それでも命脈を永らえ、その後なお150年ほど存続する。支えとなったのは、税収入である。

税には直接税、間接税の二つの柱があった。直接税の柱は、すでに安史の乱以前から実施されていた、前述の両税法である。本籍地に居住するかしないかにかかわらず、現に耕作している農民の土地所有を認め、土地の面積や生産力に応じて夏と秋の2回、銅銭で税を納めさせた。実際には銭納の代わりに絹布による納入が多かった。

一方、間接税の柱は、塩の専売制である。安史の乱中、深刻な財政難に陥ったことを受け、導入された。塩の専売は紀元前2世紀の漢代でも行われたが、制度として定着するのはこれ以降のことである。


唐王朝はウイグルの援軍によって安史の乱を鎮圧したが、ウイグルに対し莫大な報酬を与えなければならず、戦時体制下の国家財政も賄わなければならない。そこで苦しまぎれに考え出されたのが、原価の数十倍もの税をかける塩の専売制である。第五琦(だいごき)、劉晏(りゅうあん)という2人の財務官僚によって完成された。

当時、農耕はきわめて重労働だったから、農民は消費される体内の塩分を補給することが生理的に求められ、塩は単なる味つけだけでなく大量の需要があった。唐朝はそこを狙って専売したのである。この超大型の間接税によって唐の国家財政は息を吹き返し、専売収入はやがて政府の全収入の半分を占めるに至る。

唐の専売制では、製塩業者を政府の管理下に置き、塩をすべて政府が買い上げ、政府が決めた官許の塩商人にだけ売り渡す方法をとった。その際、それまで1斗10文にすぎなかった塩価に、10倍の塩税を加え、一挙に11倍の110文で売り渡した。以後、塩価はさらに引き上げられ、唐が滅びるまで、250〜300文程度、ときには370文ということさえあった。

塩は必需品で、しかも代用品がない。そのような商品に上から一方的に高価格を押し付けたことが、農民に打撃を与えないわけがない。塩を買えず、「淡色」という味つけのない食事しかとることのできない人たちさえ現れたという。

塩の公定価格が高騰するなかで、ひそかに活発になったことがある。塩の密売だ。政府の官塩が原価の30倍だとすると、闇商人が政府の目を盗んで生産地から塩を持ち出し、原価の20倍で売っても、買い手は10倍分の得をする。「私塩」と呼ばれる密売の塩は庶民に歓迎され、闇商人は英雄扱いされた。

この密売を放置すると政府の塩は売れなくなり、予期した税収が得られなくなる。そこで密売を取り締まるため、警察力を強化する。皮肉なことに、警察力強化には多くの費用がかかるため、そのために今度は塩価を高くしなければ引き合わない。ところが塩価が高いほど密売は儲かるから、結局それは密売の奨励になる。こういうイタチごっこに陥るのである。

中国の伝統的な刑法である律は、儒教精神を体現した道義主義的なものである。生活に必要な塩の闇商売の罪などは本来、道義的にはたいしたものではない。しかし専売制を守るという政府の都合のために、密売に厳しい刑罰を科すことになる。

しかも密売規制の法律は、それだけで一つの法典になるほど複雑である。闇商人の方でも、自衛のためにさまざまな手段で官憲の弾圧に抵抗するから、あらゆる場合を考えて煩瑣な処罰の方法を規定しなければならないからである。その結果、伝統的な刑法は時代に合わなくなる。

塩専売がもたらしたこの変化について、中国史学者の宮崎市定氏は「中国の伝統的な道義国家のビジョンは消滅して、警察国家になりさがってしまった」(『大唐帝国』)と指摘する。

塩専売を始めてから百余年、副作用が表面化し、唐王朝はその代価を払わされることになる。875年、塩の闇商人が兵を挙げ、反乱を起こしたのである。黄巣(こうそう)の乱である。

黄巣は山東の裕福な塩の闇商人で、政府の弾圧に抗して多数の侠客を養っていた。挙兵後、政府の重税で没落した農民が加わり、華中から華南にまで及ぶ大反乱へと発展する。これにより唐は衰退が決定的となり、907年、節度使の朱全忠によって滅ぼされた。

前述の宮崎氏は、こうも述べている。「結局、塩専売のような政策はほんの一時、急場をしのぐために用うべきであって、もしそれが永続すると、秘密結社を培養し、社会不安を醸成するというおそるべき結果を招来するものなのである。ところがこのような悪税ほど、一度はじめたらやめられないのが通常である」

唐の滅亡後も、塩の専売は後代の王朝に受け継がれ、近代の中華民国の初年に至るまで中国人民を悩まし続ける。

戦争の費用を捻出するために塩の専売を導入し、それをやめられなくなってしまったのは、日本も同じである。

明治政府は1905年(明治38)、日露戦争の膨大な戦費を調達するため、「国民に対する人頭税的な不公平課税である」「国民の生活費を上昇させる」という新聞・雑誌や消費者の反対を押し切り、塩の専売制度を実施した。そのまま大正・昭和に入っても専売制は続き、92年後の1997年(平成9)になってようやく廃止された。今もその名残で、公益財団法人の塩事業センターが塩の販売を手がけている。

塩専売という大型間接税によって唐帝国の財政は一時潤ったが、度を越した増税は結局、経済・社会を土台から突き崩した。消費税率の引き上げが近づく今の日本でも、忘れてはならない教訓だろう。

<参考文献>
布目潮風・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫
砺波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』(世界の歴史6)中公文庫
岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会
宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』中公文庫
廣山堯道『塩の日本史』雄山閣

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

面白かったです!本買おうと思います!

木村 貴 さんのコメント...

ありがとうございます。