反権力の思想
最近よく聞かれるようになった「反知性主義」という言葉は、わかりにくい。字面だけ見れば、知性をむやみに敵視・蔑視する無知蒙昧な考えを指すように思えるし、事実、評論やエッセイのたぐいではそのような意味で使われる場合がほとんどである。
私自身、この有益な本を読むまでは、そう思い込んでいた。しかしそのような誤解が生まれるのは、後述するように、読者の側だけの落ち度ではないと思う。
著者によれば、反知性主義とは、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。もともと現代米国社会を分析するため研究者の間で使われてきた用語で、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感」を指すという。
そうだとすれば、あえて反知性主義という言葉を使う必要はなく、「反権力主義」でよいのではないだろうか。知性そのものを敵視するわけではなく、知性が権力と結びつくことを問題視するのだから。
著者が列挙する、反知性主義が米国の政治制度や輿論に影響を及ぼす具体例は、いずれもすこぶる興味深い。しかしそれらは、「反知性」よりも「反権力」をキーワードにするほうが理解しやすい。
たとえば、政教分離である。政教分離というと、日本では政治から宗教を追い出して非宗教的な社会を作ることであるかのように解釈されるが、そうではない。真の信仰の自由は「国家が特定の教会や教派を公のものと定めている間は、けっして得ることができない」という考えに基づく。
また、三権分立である。権力を立法・司法・行政に分断して互いを監視させるこの制度の背景には、「地上の権力をすべて人間の罪のゆえにしかたなく存在する必要悪と考え、常にそれに対する見張りと警戒を怠らない」という精神があるという。
とくに興味深いのは、米国特有の反進化論の風潮である。日本人はよく、世界一の先進国である米国で、進化論を否定し、学校で教えることに反対する人が多いことに驚き、嘲笑する。しかし著者によれば、「彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられている」。政府公認の教科書に載る知識はつねに正しいと信じる人々に比べれば、むしろ健全だろう。
反知性主義を社会の健全さを示す指標ととらえ、「日本にも……真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている」という著者の主張には、反知性主義という言葉のわかりにくさは別として、賛成である。
残念なのは、副題と帯の惹句である。副題は「アメリカが生んだ『熱病』の正体」、惹句は「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの根源」。これでは誰も、反知性主義に本文で述べられたような肯定的な意味があるとは思うまい。出版社の意向なのかもしれないが、本の趣旨とまるきり矛盾するというのはひどい。
もし著者なり出版社なりが、反権力という本質をストレートに訴えたのでは読者に受けないと考えたのであれば、それ自体が日本の知的状況の危うさを示している。
(アマゾンレビューにも投稿)
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